2019年9月1日「み言葉を行う人に」

201991日 花巻教会 主日礼拝説教 

聖書箇所:ヤコブの手紙11927 

み言葉を行う人に

 

 

「人情」と「人道」の違い

 

以前、花巻ユネスコ主催の講演会で、立教大学教授の長有紀枝さんのお話を聞く機会がありました。長さんは地雷廃絶活動や紛争下の緊急人道支援の活動に携わってこられた方です。ご講演の中で、長さんは「人情」と「人道」という言葉を挙げ、この二つの言葉の違いについて説明をしておられました。

 

「人情」は、家族や友人、同じ組織のメンバーなど、身近で知っている人に対する想いであり、その人たちのために行動を起こすことを指します。たとえば日本の任侠映画でも好んでこの「人情」が描かれています。

 

対して「人道」は、人情の枠を超え、自分が会ったことのない人、直接には知らない人にも想いを寄せ、行動を起こすことである、と長さんは述べていらっしゃいました。先ほど述べましたように、長さんはこれまで人道支援の活動に携わってこられましたが、支援活動において大切なのはこの人道なのだと語っておられたのが印象的でした。

 

また、私たち日本の社会は人情はあるけれども、人道はなかなか定着しないとおっしゃっていたことも心に残りました。人情から人道へ――これが私たちの社会の課題であるという言葉を聞き、私もその通りだと思いました。

 

 聖書が伝える最も大切な教えの一つに、「隣人愛」についての教えがあります。《隣人を自分のように愛しなさい(旧約聖書 レビ記1918節)。イエス・キリストは最も重要な教えとして、「神を愛する」ことと共にこの「隣人を愛する」教えを取り上げられました(マタイによる福音書223740節)。イエス・キリストが私たちに伝えてくださっている隣人愛の教えとは、人道的な視点とつながっているものであると受け止めています。

 

 

 

隣人愛の教え ~隣人を、自分と同じ一人の人間として、大切にしなさい

 

聖書の 《隣人を自分のように愛しなさい》という教えについて、もう少し詳しく見てゆきたいと思います。

 

原文を見てみますと、「自分のように」と訳されている部分は、英語でいうと「like(~のように)」とも、「as(~として)」とも解釈することができる言葉です。「自分自身のように」と訳しても、「自分自身として」と訳しても、どちらも可能であるわけですが、本日はこの部分を後者の「自分自身として(=as)」の意味に受け取ってみたいと思います。この教えは、隣人を「自分と同じ人間として」大切にすることを教える掟であると考えるからです。

 

この教えを私なりに言い直してみますと、「隣人を、自分と同じ一人の人間として、大切にしなさい」となります。

 

 「愛する」ではなく、「大切にする」としたのは、ここで問われているのは好き・嫌いという心の中の感情ではなく、相手を尊重するという姿勢であると考えるからです。たとえいまはその人のことを好きになれなくても、それでも相手を自分と同じ一人の人間として尊重すること。自分と同じ一人の人間として、分け隔てなく接すること。その姿勢の大切さを教えてくれているのが、この隣人愛の教えであるのだと受け止めています。

 

この隣人愛の教えは、普段から親しい関係の人に対してだけではなく、会ったことのない人、直接には知らない人にも同じように実行されるものです。別に親しい間柄ではないから、面識がない人だから親切にはしなくてもよい、ということにはなりませんよね。初対面の人であっても、まだ会ったことがない人であっても、自分と同じ一人の人間であることに変わりはないからです。

 

  このように、自分の好き嫌いを超え、親しい関係であるか否かを超え、立場や考え方の違いを超えて、相手を自分と同じ一人の人間として尊重することが聖書の伝える隣人愛です。「人道」的な視点と通じているのがこの隣人愛の教えであるということができるでしょう。

 

 

 

隣人愛の精神が見失われつつある現状

 

 先ほどお読みしたヤコブの手紙も、隣人愛の教えに基づいて記されています。手紙の中には生活上のさまざまな指針が記されていますが、その根本にあるのは《隣人を自分のように愛しなさい》という一つの教えです。そしてこの教えを聞くだけはなく、聞いて実行しなさい、と強く勧められています。ヤコブの手紙122節《御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません》。

 

一方、私たちの普段の生活を顧みます時、周囲にいる人々を「自分と同じ人間として」見ることができていないことがあることを思わされます。隣人愛の教えを実行することができていない自分がいるのです。自分の生活で精いっぱいになってしまう中で、周囲にいる人々もまた自分と同じように人格をもち、自分と同じように悩み喜びながら生きているという、当たり前のことを時に忘れてしまうのですね。時に、周囲の人々が自分にとって「敵」のように見えたり、人格のない「風景」のように見えてしまうこともあるかもしれません。私たちはなかなか、目の前にいる人を「自分と同じ人間として」尊重することは難しい。気が付くと、人を分け隔てしてしまっている私たちです。

 

 またそして、このことは、私たちの現在の社会全体の課題であるでしょう。いまの私たちの社会は隣人愛の精神がどんどんと見失われつつある状態にあるのではないでしょうか。自分が好感を持っている人や親しい間柄の人には親切にするけれども、自分が好きではない人や意見が合わない人、また面識のない人にはとたんに冷淡になってしまう。そういう言動が様々な場面で認められるように思います。

 

先ほど、「私たち日本の社会は人情はあるけれども、人道はなかなか定着していない」、「人情から人道へ、が私たちの社会の課題である」という長有紀枝さんの言葉をご紹介しました。私たち日本の社会は身内に優しく人情が厚い社会である一方で、その枠組みの外にいる人には冷たい、という傾向が昔からありました。すなわち人道的な意識が希薄であったわけですが、近年、ますますその傾向が強まってきているのではないでしょうか。それが最も顕著に表れている場の一つが、フェイスブックやツイッターなどのSNSであると思います。

 

自分と同じような考えをもつ人とは結束を堅くする一方、自分と異なる考えをもつ人はすぐに排除しようとする。そして自分が「敵認定」した人に対しては、まるでその相手に人格がないかのように攻撃的な言葉を投げかける。自分と意見が合わない人や面識のない人には、そのような攻撃的な言葉をぶつけても「よい」のだと思っている。そのような意識の状態にいま、多くの人が陥ってしまっています。

 

 

 

《舌を制すること》の難しさ ~関係性の破壊

 

 本日の聖書個所に、このような言葉がありました。ヤコブの手紙11920節《だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。/人の怒りは神の義を実現しないからです》。

 

聞くことに早く、話すことに遅く、そして怒ることに遅く――。これも、私たちにとって耳の痛い教えですね。普段、この教えとは逆のことをしてしまうことが多いからです。相手の想いや言い分は聞かずに、自分の想いや言い分を一方的に押し通そうとする。また、怒りにまかせて言うべきではない言葉を発してしまう。そうして相手の心を傷つけてしまう。場合によっては、相手との関係性まで破壊してしまう。そのようなことを繰り返してしまうものです。

 

 ヤコブの手紙では《舌を制すること》26節)の難しさが繰り返し語られています。言葉を制御することの難しさは、いまも2000年前も変わらない、切実な課題であったのですね。インターネットの発達により、現在多くの人が自分の言葉を世界に発信することができる状況であるからこそ、私たちは《舌を制すること》について改めて学んでゆく必要があるでしょう。このままでは、どんどんと関係性が破壊され、社会の分断が深まっていってしまうことが危惧されます。

 

 

 

他者の痛みに対する想像力 ~もしも自分が同じことをされたら……

 

長有紀枝さんはご講演の中で、「人道」的な視点を私たちの内に根付かせてゆくために大切なものは「想像力」――特に、「他者の痛みに対する想像力」であるとおっしゃっていました。他者の痛みへの想像力、感受性を取り戻し、育んでゆくことは、いまの私たちの社会の喫緊の課題であると思います。

 

相手が自分と同じ人間であるということは、目の前にいるその人も自分と同じように人格をもち、日々、自分と同じように悩み喜びながら生きているということです。自分と同じように痛みを感じ、日々、懸命に生きている、ということです。私たちは時に、この当たり前のことを忘れてしまうことがあるのではないでしょうか。そのことを忘れてしまうとき、私たちは非人道的な振る舞いを他者に対して行ってしまいます。

 

もしも自分が同じことをされたら、どれほどの痛みを感じるか、どれほど悲しいか。もしも自分が同じように、怒りにまかせたひどい言葉を投げかけられたら、自分の言い分が聞かれることなく、一方的に攻撃されたとしたら、どれほど辛く悲しいか。その心の痛みを想像してみれば、他者に対してそのようなことをしてはいけないのだということについても、私たちは理解をすることができます。

 

隣り人を、「同じ一人の人間として」愛するために大切なこと。それは、その人の痛みを理解しようとすることなのではないでしょうか。

 

 

 

人を大切にするためのキリストの道を

 

怒りに駆られて言葉を発しそうになるとき、私たちは心を落ち着けて、人の痛みへ想いを馳せることが求められます。話すことに遅く、そして、怒ることに遅く――これは確かに難しいことではありますが、祈りの中でこのことを行おうとするとき、私たちはすでに隣人への愛を実践していることになります。イエス・キリストの道を歩んでいることになります。主イエスの愛の教えは、私たち一人ひとりの心に確かに宿されているのだと信じています。

 

どうぞ私たちが隣人を愛する教えを心に受け入れ、それを実行してゆくことができますように。人を大切にするためのキリストの道を、一歩一歩、共に歩んでゆくことができますように。主の助けとお支えをご一緒に願い求めましょう。