2019年8月11日「穏やかに、敬意をもって、正しい良心で」

2019811日 花巻教会 主日礼拝説教 

聖書箇所:ペトロの手紙一31322 

穏やかに、敬意をもって、正しい良心で

 

 

忘れてはならない様々な出来事

 

 先週の日曜日、私たちは平和聖日礼拝をおささげしました。8月には、私たちが平和を考えるにあたって忘れてはならない様々な出来事があります。

 

194586日、アメリカ軍によって広島に原子爆弾が投下されました。89日、続いて長崎に原爆が投下されました。この6日と9日も日本中で、そして世界中で祈りがささげられたことと思います。

 

同日、岩手の釜石では艦砲射撃が行われました。7月の艦砲射撃に続いて2回目の砲撃で、この2度の砲撃により、釜石の街は破壊されました。釜石が標的となったのは釜石製鉄所があったからと言われています。

 

また同じ日、中国東北部の旧満州ではソ連軍が侵攻を始め、そこに住んでいた多くの日本人が難民状態となってゆきました。財産も住まいも失われ、多くの人々の命が奪われました。日本へ帰還(引き揚げ)をする過程においても、多くの方々の命が失われました。2017年に天に召された花巻教会員の三田照子さんは、この満州からの引き揚げをはじめとする戦争体験の語り部をしておられました。

 

ここ花巻でも、810日にアメリカ軍による空襲がありました。ちょうど昨日がその花巻空襲の日でした。加藤昭雄氏の『花巻が燃えた日』(熊谷印刷出版部、1999年)という本では、花巻空襲による死者は少なくとも47名で、身元の分からない人々を加えると、60名近く、あるいはそれ以上にのぼるのではないかと記されています20頁)。花巻教会は空襲の直接的な被害はなかったようですが、教会の記念誌には「教会堂の筋向いに爆弾が落ちて会堂の窓ガラスがめちゃめちゃになってしまった」との証言が残されています(中村陸郎さんの文章より)

 

815日、私たちは終戦記念日を迎えます。

 

 

 

戦時中の教会の様子

 

花巻教会の記念誌には、戦時中の教会の様子についての記録が幾つか残されています。たとえば創立80周年記念誌の年表には、《1939723日 防空演習中、すっかり暗い中で夕の礼拝を守る》とあります。

 

だんだんと国全体が不穏な空気に包まれてゆく中、1940年、国によって「宗教団体法」が施行されます。宗教団体法とは、宗教を国家の統制の下に置くために制定されたものです。この法の施行を受けて、翌年、当時34あった日本のキリスト教各派は合同に至りました。花巻教会が属していた日本バプテスト教団もこの合同に加わることとなりました。結果成立したのが、「日本基督教団」です19416月)。この合同によって教会の名称も「花巻バプテスト教会」から「日本基督教団花巻教会」に変更されました。

 

そして同年の128日、日本は太平洋戦争に突入してゆきます。花巻教会の諸集会の出席者もだんだんと少なくなっていったようです。当時を回想した文章の中に、《特高警察が礼拝に出席して、若松牧師の説教を聞いたりしていたこともあった》という一文もあります(奥山清さんの文章より)

 

年表を見ますと、「1943418日 町下総合防空演習のため礼拝をやむをえず休む」という記述もありました。戦争の影響を受けて、時に教会の礼拝を中止せざるを得ないという状況にまで追い込まれていったようです。

 

日本本土への空襲が激化する中、先ほど申しましたように、花巻でも1945810日に空襲がありました。花巻教会の会堂は窓ガラスが割れるだけの被害でしたが、教会が隣接する花巻の中心街は、空襲による火災によって甚大な被害を受けました。

 

 中心街に落とされた爆弾は4発だけだったようですが、1発の爆弾によって上がった火の手が西風にあおられて燃え広がり、現在の上町・双葉町・豊沢町・東町のほとんどを2日間にわたって焼き尽くしたとのことです。この大火災によって673戸の建物が焼失しました。当時の花巻町全戸数の約5分の1に相当します。《燃えに任せた焼け跡はまさに焼け野原と呼ぶにふさわしく、家々は柱も残らないほどに焼け落ち、黒焦げになった土蔵だけが点々と残っていた》(加藤昭雄『花巻が燃えた日』、217頁)

 

 火災によって焼失した家屋の一つに、宮沢賢治さんの生家がありました。賢治さんは敗戦の年の12年前にすでに亡くなっていましたが、当時の豊沢町の生家には賢治さんの両親と弟の清六さん、東京から疎開してきていた高村光太郎さんが暮らしていました。弟の清六さんが前もって光太郎氏の身の回りの品やお兄さんの原稿を防空壕に移していたおかげで、賢治さんの原稿は焼失を免れたとのことです。

 

 過去の悲惨な歴史を忘れず、平和への祈りをご一緒に合わせてゆきたいと願います。

 

 

 

ペトロの手紙一について

 

 本日の聖書個所をお読みいたします。先ほどお読みしました新約聖書のペトロの手紙一は、キリスト教が浸透していない社会に生きるクリスチャンの人々に向けて書かれた手紙です。伝統的に「ペトロの手紙」というタイトルが付けられていますが、この手紙の差出人が誰なのかははっきりとは分かっていません。分かっているのは、周りの人のほとんどがクリスチャンではないという状況にある人々に向けて書かれた手紙であるということです。

 

キリスト教が誕生して間もない頃、クリスチャンたちは周囲から奇異な目で見られていました。クリスチャンであるゆえに、さまざまな中傷や攻撃を受けることもあったようです。この手紙の受け取り手であった人々も、クリスチャンであるゆえの数々の苦労を経験していたことが伺われます。近隣とのトラブル、周囲の人々による悪口、誹謗中傷……。そうしたトラブルが起きてしまう大きな要因は、当時のクリスチャンの人々が周囲の人々とはまったく異なった生活習慣をもっていたことが大きかったようです。たとえば、今まではいっしょに仲良く宴会に参加していたのに、参加しなくなってしまった。今まではいっしょにローマの神々に礼拝をささげていたのに、参加しなくなってしまった。クリスチャンとなった人々は、周囲の人々とはまったく異なったライフスタイルを始めるようになりました。周囲の人々は驚き戸惑い、そして、だんだんとクリスチャンたちに敵意を抱き攻撃をするようになっていってしまったようです。

 

 周囲から中傷や攻撃を受ける教会の人々を慰め、励ますために書かれたのがこのペトロの手紙一です。

 

 

 

誹謗中傷されることの痛み

 

 私たちにとって、根拠がないことで攻撃されたり、事実が歪められたかたち情報が広められ、そのことで誹謗中傷を受けることはとても辛いことです。皆さんもそのことで傷ついたという経験があるかもしれません。近年はフェイスブックやツイッターなどのSNSによって誹謗中傷が不特定多数の人々に拡散されることも起こっています。

 

相手を貶める嘘の情報が流されるということは、私たちの身近なところで、至るところで起こっているということができるでしょう。それらの悪意のある言葉は人の尊厳を傷つけ、魂の深い部分を傷つけます。私も、事実とは異なることで批判され、その一方的な攻撃や悪口がSNSで書かれる、ということを経験したことがあります。そのような振る舞いがいかに私たちの心を傷つけるものであるかを痛感しています。

 

また同時に、私たち自身も、誰かの心を傷つける言葉を発してはいないか、そのような言動に対して黙認、容認する姿勢をとってしまってはいないか、日々の言動をよくよく吟味する必要があるでしょう。

 

 

 

穏やかに、敬意をもって、正しい良心で

 

 誰かから誹謗中傷された時、私たちは深い悲しみと怒りの中で、相手に仕返ししたい、という想いに駆られることがあるかもしれません。仕返ししたい、同じように相手の悪口をまき散らせてやりたい、という衝動に駆られることもあるでしょう。しかし、ペトロの手紙一にはこのような言葉が記されています。39節《悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません》。

 

たとえ周囲の人々が悪意をもって自分を攻撃してきても、自分も同じように悪意をもって仕返しをしてはいけない。相手が自分を侮辱してきても、同じように侮辱的な言葉を相手に返してはいけない、と私たちを諭さんとする言葉が記されているのですね。たとえばいまの私たちの社会で言うと、SNSで自分を攻撃してきた相手に対し、同じようにSNS上で攻撃的な言葉を記して仕返しする、ということはしない。

 

 本日の聖書個所では、さらに次のように記されていました。316節《穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです》。

 

 敵意をもった相手に敵意をもって相対するのではなく、むしろ、《穏やかに、敬意をもって、正しい良心で》自分たちの胸の内に本当の想い――ここではイエス・キリストへの信仰――を語るように、と語られています。そのように誠実な態度で接し続けていれば、悪口を言った人々もいつかその悪口を言ったことを恥じ入るようになるはずだ、と。

 

 

 

神は正しい方

 

 聖書は、相手に「仕返ししたい」という報復感情そのものは否定していません。たとえば詩編という書には、自分を攻撃する相手に復讐を願う詩がたくさん出てきます。聖書の特徴は、しかし、最終的には、復讐は神に任せるべきことを伝えていることです。《愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります(ローマの信徒への手紙1219節)

 

 このように言い切ることができるのは、聖書を記した人々が、「神が正しい方である」ことを信じているからです。神さまは人間の尊厳がないがしろにされている現実を、決して見過ごしにはなさらない。私たちの叫びを聴いていてくださる。この世界に必ず、神の正義を示してくださる。神が正しい方であることを信じるからこそ、聖書は私たちに対し、自分で復讐せず、最終的には神さまに委ねるべきことを勧めています。

 

これは自分たちへの不当な振る舞いをただ耐え忍べ、ということではありません。尊厳をないがしろにする現実に対して、私たちははっきりと「否」の声を上げることが大切でありましょう。ただ、暴力的な言動に対し、同じく暴力的な言動をもって返さないことが求められているのです。

 

 

 

報復の連鎖を終わらせる ~この私から

 

私たちの生きる社会は、至るところで報復の連鎖、暴力の連鎖、憎しみの連鎖が起こっています。その連鎖はとどまるところを知りません。説教の前半では戦争がもたらした惨禍について少しお話しました。止むことのない報復の連鎖により、戦争の惨禍はもたらされてきました。現在も世界各地で、無差別なテロ事件が世界中で起こっています。その背景にある事柄の一つはやはり、世代から世代、人から人へと受け継がれる報復、暴力、憎しみの連鎖です。私たちがいま生きている世界は報復の連鎖が渦巻いている世界であるといえるでしょう。

 

そのような中にあって、私たちはまず、自分自身が変わる決意をすることが大切であるのではないでしょうか。自らをもって、「報復の連鎖を終わらせる」という決意です。もはや、怒りに任せて誰かに復讐することはしない。神は正しい方、すべては、神さまにお委ねする。報復の連鎖は、この自分で終わらせる―― そう決意することができたとき、私たちは、平和を実現するための確かな一歩を歩み始めていることになります。

 

  イエス・キリストはおっしゃいました。《平和を実現する人々は、幸いである。/その人たちは神の子と呼ばれる(マタイによる福音書59節)。主イエスはいまも私たちと共にいて、そう語り続けてくださっています。

 

平和を実現するための一歩を、まずこの私から、始めてゆきたいと願います。