2019年7月28日「キリストの道を」

2019728日 花巻教会 主日礼拝説教 

聖書箇所:ガラテヤの信徒への手紙6110 

キリストの道を

  

 

「やまゆり園事件」から3

 

 一昨日の726日、「やまゆり園事件」から3年を迎えました。日本全国で、追悼の祈りがささげられたことと思います。重度の障がいをもった方々が入所する神奈川県立津久井やまゆり園にて、元施設職員の手によって19人の方が殺害され、27人の方が負傷したという、大変痛ましい事件でした。

 

皆さんもよくご存じのように、この事件においては事件の残虐性とともに、犯人の青年のゆがんだ考え方が社会に大きな衝撃を与えました。重い障がいをもつ人々は生きる価値がないとみなす、決してゆるすことのできない考え方でした。犯行から3年が経った現在も、被告はこの歪んだ考え方を変えてはいない、とのことです。

 

またNHKが行った世論調査では、この事件について、5人に1人が「覚えていない」と回答したとのことです。まだ3年しか経っていませんが、早くも事件が風化していることも危惧されます。

 

この事件をきっかけの一つとして、「優生思想」という言葉が私たちの社会でも改めて取り上げられるようになりました。優生思想とは、一方的な「ものさし」によって、人を「優れた者」と「劣った者」に分け、「劣った者」とされた人々の命と尊厳を否定する考えです。「やまゆり園事件」はこの優生思想と深い関連があることが指摘されています。

 

 

 

『わたしで最後にして ナチスの障害者虐殺と優生思想』

 

一冊の本をご紹介したいと思います。日本障害者協議会代表・きょうされん専務理事の藤井克徳さんが昨年出版した『わたしで最後にして ナチスの障害者虐殺と優生思想』(合同出版、2018年)という本です。中学生から読めるようにと、平易な文章で書いてくださっている本です。中高生の皆さんにもおすすめの一冊です。

 

この本の前半部では、ナチス・ドイツによるT4作戦という歴史的な事実をもとに、優生思想がいかに恐ろしいものであるかが紹介されています。T4作戦とは、ナチス・ドイツが1939年から1941年にかけて、優生思想に基づいて行った政策で、障がいをもった人々を安楽死させるという政策です。結果として、ナチスは1520万人もの人を安楽死施設に送り、処刑したと言われています。虐殺の対象となった人々は初めは障がいをもつ人々でありましたが、やがて病人や同性愛者など、当時のさまざまな社会的な弱者とされた人々にその対象が拡大されていきました。そうしてその次に行われた政策がホロコースト、ユダヤ人の大虐殺でした。

 

藤井さんはこの本において、優生思想の基本は、《強い人だけが残り、劣る人や弱い人はいなくてもいい》という考え方であると説明しています3頁)。そして、この優生思想は過去の話ではなく、《私たちの日本社会にも深く潜み、いまもときどき頭をもたげる》と述べています。「やまゆり園事件」がまさにそうです。この事件はこの優生思想と深い関連性があるのです。『わたしで最後にして ナチスの障害者虐殺と優生思想』の第5章では「やまゆり園事件」についても取り上げられています。

 

 なぜ被告がこのような異常な犯行に及んだかは、様々な側面からの解明が必要であると思いますが、藤井さんはこの「やまゆり園事件」を被告個人の特異さだけで捉えるのではなく、いまの社会と関連づけて考えてゆくことが重要であることを指摘しています。犯行に及んだ青年の歪んだ考え方の背景には、いまの日本社会のゆがみと深くつながっているのではないか、という重い問いです。

 

 

 

社会の歪みが私たちの考え方にも影響を ~生産性や効率が第一とされる中で

 

藤井克徳さんはいまの私たちの社会の在りようを次のように記しています。《そこでいまの社会をどうみるかですが、特徴を簡単に言うと、人間の価値をとらえる基準が変質し、生産性や経済性が何よりの目安になってしまったことです。速度や効率を競い合い、勝ち残った者は優秀な人や強い人とされ、ついていけない者は劣る人や弱い人となってしまいます。…その結果何が起こっているでしょう。耳にしたことがあると思いますが、「格差社会」や「不寛容社会」と言われる現象です。「勝ち組、負け組」「弱肉強食」「早くちゃんときちんと」「うざい、むかつく、キレる」なども、根っこは一緒です。

植松被告も、こうした考え方がはびこる日本社会で生を授かり育まれました。ゆがんだ社会の影響を受けないはずはありません》135136頁)

 

この藤井さんの言葉は、私たちにも実感できるものなのではないでしょうか。いまの私たちの日本の社会は生産性や効率が第一とされてしまっている。その中で、人間の価値がはかられてしまっている。その競争に勝ち残った人は「優れた人」とされ、ついてゆけない人は「劣った人」とされる。そういう中で、「格差社会」「不寛容社会」が形成されてしまっている、というのですね。「勝ち組、負け組」「弱肉強食」「早くちゃんときちんと」「うざい、むかつく、キレる」なども根っこは一緒という指摘も心に残ります。私たちは社会から絶えず、「早く」「ちゃんと」「きちんと」とプレッシャーをかけられている。そういう中で心から大切なものが見失われ、やがて、すぐに「キレてしまう」人が増えているというのも、納得できることですよね。「うざい、むかつく、キレる」という即時的で否定的な反応でしかもはや外の世界に対応できないほどに、いま多くの人の心が追い詰められているのではないでしょうか。

 

私たちはいま改めて、社会の在り方を見つめ直すことが求められています。藤井さんも「優生思想にどう向き合うか」を一緒に考えてほしい、特に中高生や若い人々に、これから一緒に考えてほしいと記しています。そのための、大切な考える材料を提供してくれているのがこの本です。私たち一人ひとりが優生思想や社会の歪みと向き合い、それを乗り越えてゆくことが、《障害のある人も共に、誰もが安心と希望をもてる社会をたぐり寄せる》ことにつながってゆくのだ、と34頁)

 

 

 

イエス・キリストのメッセージ ~神の目から見て、一人ひとりがかけがえのない存在

 

私たちが社会の在り方を見つめ直す際、大切なヒントの一つとなるのが、聖書の言葉であり、イエス・キリストのメッセージであると受け止めています。

 

イエス・キリストのメッセージ、それは、「神さまの目から見て、私たち一人ひとりは、かけがえのない存在だ」ということです。「かけがえがない」ということは、「替わりがきかない」ということです。私たちは一人ひとり、かわりがきかない存在としてこの世界に生れ出た。だからこそ、大切であるのです。私たちの価値は本来、生産性や効率でははかることができません。

 

先ほど、優生思想について述べました。優生思想は、一方的な「ものさし」によって、人を「優れた者」と「劣った者」に分ける考え方、そして「劣った者」とされた人々の命と尊厳を否定する考えです。優生思想のように極端なかたちで現われなくても、私たちは気が付くと、人を自分の一方的な「ものさし」によって判断してしまうことはしているのではないでしょうか。むしろ私たちは意識して気を付けていないと、そのように人にレッテルを貼ってしまうものなのかもしれません。自分と人とを比較し、あの人は自分より下だ、とか判断してしまうものです。その意味で、私たちは誰しもが、優生思想につながりうる小さな種を自分の心に持っているのだと思います。

 

だからこそ、私たちは自分の「ものさし」を絶えず客観的に見つめ直すことが求められています。そしてそのとき大きな力となってくれるのが、聖書のメッセージであると私は受け止めています。自分の目から見て、ではなく、神の目から見て、一人ひとりの存在が値高く貴い、ということ。このメッセージをこそ、私たちの心に、重要な掟として刻み続けることが求められています。

 

神さまの目から見て、必要のない人というのは存在しません。私たち一人ひとりに、その人にしかできない大切な役割が神さまから与えられているのがこの世界の真実の姿であるのだと信じています。

 

 

 

互いに、神に愛された「一人の人間」として

 

 本日の聖書個所に、《互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです》という言葉がありました(ガラテヤの信徒への手紙62節)。キリストの律法(掟)とは何でしょうか。少し前のところ514節)では、「隣人を自分のように愛しなさい」という聖書の言葉こそが大切なキリストの掟であると語られています。

 

「隣人を自分のように愛しなさい」――この教えはもともとは、旧約聖書のレビ記1918節)に記されているものです。この言葉を私なりに言い直してみますと、「隣人を、自分と同じ一人の人間として、大切にしなさい」となります。いま目の前にいる人を、自分と「同じ一人の人間として」尊重すること。 

 

自分と同じ人間であるということは、目の前にいる人も自分と同じように人格をもち、日々、自分と同じように悩み喜びながら生きている、ということです。自分と同じように痛みを感じ、日々、懸命に生きている。私たちは時に、この当たり前のことを忘れてしまうことがあるのではないでしょうか。そのことを忘れてしまうとき、私たちは他者に平気でひどいことを言ってしまったり、相手を軽んじ、傷つけたりしてしまいます。

 

一方的な「ものさし」によって、人を「優れた者」と「劣った者」に分ける優生思想も、私たちが隣り人を「同じ一人の人間」として見ることができなくなるところから生じているような気がいたします。

 

 目の前にいる人も、自分と同じ一人の人間であるということ。そして、目の前にいるその人も、自分と同じ「神に愛された一人の人間である」ということ――。このことを私たちは心に刻みたいと思います。私たちは互いに神に愛された一人ひとりであるからこそ、傷つけあったり軽んじあったりしてはならないのです。

 

「隣人を愛する」道をまっすぐに歩くようにと、私たちはキリストから招かれています。一人ひとりがまことに大切にされる社会の実現を願い、これからも共に歩んでゆきましょう。