2019年6月2日「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」

201962日 花巻教会 主日礼拝説教 

聖書箇所:マタイによる福音書281620 

わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる

  

賛美歌『神ともにいまして』 ~Good byeGod be with you

 

『神ともにいまして』という賛美歌があります(讃美歌21465番)。また再会するその日まで、大切な人々に神さまの祝福を祈る歌です。送別の際に歌う賛美歌として親しまれています。元来は必ずしもご葬儀の際に歌う讃美歌ではありませんが、ご葬儀の際にも歌われることの多い曲です。

 

1番はこのような歌詞です。

《神ともにいまして ゆく道をまもり、ひごとの糧もて つねに支えたまえ。

また会う日まで、また会う日まで、神のめぐみ たえせず共にあれ》。

 

日本語訳では「神ともにいまして」と訳されている歌い出しは、原曲の英語では「God be with you till we meet again」です。訳すると、「また会うその日まで、神があなたと共にいてくださるように」という意味になります。原曲においてはこの一節が繰り返し歌われてゆきます。

 

英語で「さようなら」を意味するGood bye という言葉。この挨拶は、God be with yeyou)(神があなたと共におられますように)を短く縮めたものであると言われます。この歌の作詞をしたジェルマイヤ・E・ランキンという方も、Good byeGod be with youという意味であるということを踏まえながら作詞をしたと伝えられているそうです(参照:日本基督教団讃美歌委員会編『讃美歌21略解』、1998年、292頁)

 

「さようなら(Good bye)」という別れの挨拶には、「また会うその日まで、神があなたと共にいてくださるように(God be with you till we meet again)」という祝福の祈りが込められているのですね。

 

いまは互いに離れ離れになるのだとしても、神さまがいつも私たちと共にいてくださることを信じて、「Good byeGod be with you」と挨拶する。そしてこの挨拶の中には、いつかまた神さまの祝福の中で再び会うことができることを信じる想いも込められています。

「さようなら」だけども、本当の「さようなら」じゃない。また会えることを信じての、「さようなら。また会う日まで」、です。

 

 

 

インマヌエル ~神が私たちと共におられる

 

聖書が私たちに伝えてくれている最も大切なメッセージの一つ、それは「神が私たちと共におられる」ということです。雨の日も、晴れの日も。悲しみの時も、喜びの時も……。どんなときも、私たちは独りきりではないことを聖書は繰り返し語っています。

 

長く教会に来てらっしゃる方は、神が共にいてくださることを実感された瞬間を幾度もされてきたことと思います。辛い時、苦しい時、悲しい時、神さまが共にいてくださった、自分は独りではない、と感じることができた。だからこそ、再び立ち上がる力が与えられていった。そのような経験を幾度もされたことと思います。

 

「神が私たちと共におられる」ことを表す言葉があります。ヘブライ語で、「インマヌエル」という言葉です。「インマ」が「~と共に」、「ヌ」が「私たち」、「エル」が「神」。「インマヌエル」で「神がわたしたちと共におられる」となります。

 

 マタイによる福音書では、この「インマヌエル」こそが、イエス・キリストの名前であることが述べられています。よく知られたイエス・キリストの誕生の場面において、「イエス」という名前と共に、救い主のもう一つの名前が告げられます。それが、「インマヌエル」という名前でした。

 

マタイによる福音書12223節《このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。/「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。/その名はインマヌエルと呼ばれる。」/この名は、「神は我々と共におられる」という意味である》。

 

  イエス・キリストがこの世界に誕生してくださったのは、「インマヌエル」を実現するためであったのだ、とマタイ福音書は力強く語っています。

 

 

 

わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる

 

本日の聖書箇所にもやはり、「神が私たちと共にいてくださる」ことの約束が語られていました。復活したイエス・キリストは弟子たちと再びガリラヤで出会われ、こう語りかけられました。《わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる(マタイによる福音書2820節)

 

ここでは、イエス・キリストご自身が、「わたしはあなたがたと共にいる」と約束してくださっています。「神は私たちと共にいてくださる」と私たちが信じるだけではなく、復活された主ご自身が、「わたしがあなたがたと共にいる」と約束してくださっているのです。

 

この言葉が、マタイによる福音書の最後を締めくくる言葉となっています。マタイによる福音書は「インマヌエル」で始まり、「インマヌエル」で終わっていることが分かります。そしてこれはマタイ福音書のみならず、聖書全体のメッセージであるということができるでしょう。聖書は、「わたしはあなたがたと共にいる」という神の約束に対する、私たち人間の信頼(信仰)の書であるということができます。

 

 

 

悲惨な現実の前に立ち尽くす

 

 一方で、私たちはこの神に対する信頼が揺らいでしまうことがあります。困難のただ中にいるとき、悲しみの内にいるとき、突然の不条理な出来事に遭遇したとき。神が共におられるとはとても思えない、「神はどこにいるのか」と問わずにはいられない、そのような心境になることがあります。私自身、不条理な出来事に出会う度に、この問いの前に立ち戻らされます。私自身、このことについて、いまだ答えが出ていません。

 

 日々、悩みや苦しみは絶えることなく、悲惨な現実の前になす術もなく立ち尽くす中で、しかしそれでもなお、ぼんやりと私の心の内に浮かんでくる主の姿があります。それは、涙を流しておられる主イエスのお姿です。なぜこのような不条理な、悲惨なことが起こるのか、自分たちには分からない。神がおられるなら、なぜこのようなことが起こるのか、分からない。分からないけれども、涙を流す私たちと共にいま、主も涙を流してくださっている。共に悲しみ、共に涙を流してくださっている。私たちの信仰がもろく崩された後、それでも残っているものがあるとしたら、この共に涙を流してくださる主のお姿なのではないかと思います。

 

 

 

涙を流される主イエスのお姿

 

ヨハネによる福音書には、愛する者の死を前に、涙を流される主イエスのお姿が記されています。ヨハネによる福音書113235節《マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。/イエスは彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、/言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、ご覧ください」と言った。/イエスは涙を流された》。

 

愛するラザロが死に、マリアや大勢の人が涙を流す中で、主イエスも共にその死を悲しみ、涙を流してくださった様子が描かれています。私たちと同じように悲しみ、苦しみ、涙を流してくださることを通して、主は私たちと共にいてくださるのだ、と本日はご一緒に受けとめたいと思います。

 

また、ヘブライ人への手紙の中には、主イエスが激しい叫び声を上げ、涙を流しながら祈りをささげられたことも記されています。《キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました(ヘブライ人への手紙57節)。主イエスは私たちと同じように叫び、同じように涙を流しながら祈ってくださっている。私たちと共に悲しみ、共に苦しむことを通して、私たちと共にいようとしてくださっているのだとご一緒に受けとめたいと思います。だから、私たちは決して独りではないのだ、と。

 

 

 

日々、共に喜び、共に涙を流すことを通して

 

先ほど、復活の主が弟子たちにお語りになった言葉、《わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる(マタイによる福音書2820節)をお読みしました。この言葉は、原文のニュアンスを生かして訳し直すと、「世の終わりまでのすべての日々、私があなたがたと共にいる」となります。《世の終わりまで》は原文では「世の終わりまでのすべての日々」と訳し直すことができます。

 

すべての日々において――私たちのこの人生の一日一日に、主は共にいてくださっている。喜びの日は、共に喜びながら。涙の日は、共に涙を流しながら。そのように日々、共に喜び、共に涙を流す(ローマの信徒への手紙1215節)ことを通して、主は私たちと共にいてくださっている。本日はそのようにご一緒に受けとめたいと思います。

 

「私があなたがたと共にいる」――主はそう私たちに語りかけてくださっています。今日この日、そして私たちがこの生涯を終えるまでのすべての日々において、主は私たちと共にいてくださる。だから、私たちは独りなのではありません。

 

 

 

「私があなたがたと共にいる」 ~私たちがこの生涯を終えるときも、その後も

 

またそして、私たちがこの生涯を終えるときも、その後も、やはり主は私たちと共にいてくださるのだと信じています。「インマヌエル」は私たちの死をもって断ち切られるのではない。「神が共にいてくださる」ことの恵みは、私たちの死を超えて永続してゆくのだというのが聖書が伝える信頼(信仰)です。

 

 冒頭で、『神ともにいまして』という賛美歌(讃美歌21465番)をご紹介しました。3番の歌詞もお読みしたいと思います。

《み国に入る日まで いつくしみひろき みつばさのかげに はぐくみたまえ、主よ。

また会う日まで、また会う日まで、神のめぐみ たえせず共にあれ》。

 

 終わりの日まで、主が私たちをみ翼の陰に守り、育んでくださることへの願いが謳われ、そして「God be with you till we meet again」(また会うその日まで、神があなたと共にいてくださるように)」との祝福の祈りが謳われます。そして私たちがこの生涯を終える時もまた、主はやはりそのみ翼をもって、私たちの傷ついた体を永遠の命の内に抱き取ってくださるでしょう。

 

この主の命の光の中で、また私たちは再会できるでしょう。この地上における「さようなら」は、永遠の「さようなら」ではありません。また会えることを信じての、「さようなら。また会う日まで」、です。

 

「私があなたがたと共にいる。あなたは決して独りなのではない」――主のこの確かなる約束の言葉に、いま私たちの心を開きたいと思います。