2024年2月25日「わたしは世の光である」

2024225日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:詩編182635節、エフェソの信徒への手紙5614節、ヨハネによる福音書9112

わたしは世の光である

 

 

ロシアとウクライナの戦争から2

 

私たちは現在、教会の暦で受難節の中を歩んでいます。受難節はイエス・キリストのご受難と十字架を心に留めて過ごす時期です。本日は受難節第2主日礼拝をおささげしています。受難節のこの時、御子イエス・キリストのお苦しみに想いを馳せつつ、また、隣り人の苦しみに心を向けつつ、歩んでゆきたいと思います。

 

昨日224日で、ロシアとウクライナの戦争が開始されて2年が経ちました。いまだ停戦には至らず、ウクライナでは多くの人々が日々、空襲の恐怖に怯え続けています。

昨日の朝日新聞の記事では、ウクライナから日本に避難しているある青年のことが取り上げられていました(朝日新聞、2024224日付、26面)。現在19歳のロベルトさんは、「人を殺すことは出来ない」とし、徴兵や出国禁止の対象となる18歳になる前の17歳の時に、日本に避難する決断をしたそうです。

避難をする道中、見知らぬ大人たちから「国に残って戦わないのか」「逃げたな」と言われ、「僕は17歳です」と反論しても、殴られたり、ナイフや銃を向けられたこともあったそうです。同級生の多くはウクライナに残り、幼なじみからSNSで「裏切り者」などとロベルトさんを激しく罵倒する言葉が送られてきたり、連絡がとれなくなる友人も増えたとのことです。

記事の文章の一部を引用いたします。《今は非常時だと理解している。兵士として戦っている親戚もいるし、戦死した知人もいる。/「でも、やっぱり人を殺すことはできない。たとえ大人だったとしても戦争には行けなかったと思う。戦争のない国へ避難する決断が、なぜこんなに責められるの?」》。

現在、ウクライナから日本に避難している人々は約2000人。都営住宅で暮らす避難者の支援を続けている日本YMCA同盟の横山由利亜さんによると、昨年夏ごろから、《18歳から義務となる徴兵を避け、1617歳の青年が1人で避難してきた例も目立つ》とのことで、それは《今までなかった傾向》であるとのことです(朝日新聞、同)

ロベルトさんをはじめ、「戦争には行かない」「人を殺すことはできない」として他国へ避難する決断をした少年たちこそ、まっとうな判断をしていると言えるのではないでしょうか。「国に残って戦え」「逃げるな」と強要する大人たちは過った判断をしているのだと受け止めざるを得ません。

NHKによると、昨年12月に行われたウクライナ国内の最新の世論調査では、《侵攻を続けるロシアに対して7割以上の人が「領土を譲歩すべきではない」と答え、依然として多くの人が政府の徹底抗戦の方針を支持する考え》を示しているとのことです(昨年2月に行われた世論調査では、87パーセント。NHK NEWSWEB2024223日より)

 

ロシアによるウクライナ侵攻が始まった直後から、ゼレンスキー大統領は国民にロシアに対して徹底抗戦するよう呼び掛けていました。総動員令により、18歳~60歳の男性は原則、出国禁止とされました。このゼレンスキー大統領の言説は、「国のために命をささげよ」と強要した戦時中の日本軍と同じではないでしょうか。私は開戦直後から、ゼレンスキー大統領の言動には強い違和感を覚え続けてきました。2年が経ち、ゼレンスキー大統領と一部の為政者たちに国民の生命と尊厳を守る姿勢は見出せないことはいよいよ明らかとなっています。彼らが守ろうとしているのは国家の主権と領土であり、国民の命ではないのです。国民一人ひとりの生命と尊厳を守ることこそが、政治家に課せられた第一の責務です。国家の存立のために市民に犠牲を強要することは極めて危険な考えです。

 

この度の戦争に関しては、初めに一方的な侵攻をしてきたのはロシアです。この点に関してはもちろん、ロシアのプーチン大統領が完全に間違っています。同時に、その後のウクライナの指導者たちの対応も間違っていると言わざるを得ません。国家の存立のために市民に犠牲を強要すること自体が間違った判断であるからです。私たち人類はこれまで、幾多の悲惨な戦争を経て、それをしてはならないことを学んできたのではなかったのでしょうか。戦争には、正しい戦争はあり得ません。戦争をすることそのものが、間違っているのです。

 

またそして、関係諸国の対応も非常に問題です。ロシアを支援する中国、ウクライナを支援するアメリカとNATOがそれぞれ、積極的に軍事支援を行うことにより、戦争が長期化しています。関係諸国はあたかも、戦争を終わらせる意思がないかのようです。一方の勝利ではなく、両国を一刻も早く停戦の合意へ至らせることこそが国際社会が目指すべき課題ではなかったのでしょうか。

 

どうぞ停戦の合意への糸口が見出されますように、これ以上、ウクライナとロシアの人々の命が奪われ、その尊厳が傷つけられることがないようにと願います。立場や考えは違っても、この戦争が一刻も早く終結し、暴力に脅かされることのない安全な日常が取り戻されることは、ウクライナの人々の共通の、切なる願いでありましょう。ガザ地区でのイスラエルとハマスの戦争も、いまだ停戦には至っていません。ウクライナでの戦争、ガザでの戦争が一刻も早く停戦へと至るよう切に願います。あらゆる戦争・紛争が終結へと至りますように、共に祈りを合わせてゆきたいと思います。

 

 

 

病いや障がいは「罪」の結果ではない

 

本日の聖書箇所ヨハネによる福音書9112節は、イエス・キリストが生まれつき目の見えない人を癒す場面です。改めて、本日の物語を振り返ってみましょう。

 

イエスさまと弟子たちは、通りすがりに生まれつき目の見えない人を見かけました。弟子たちはその人を見て、イエスさまに尋ねました。《ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか》2節)

この弟子たちの言葉を理解するには、当時の病いや障がいについての認識を踏まえる必要があります。当時のイスラエルの社会では、病気や障がいは、本人または両親や先祖が「罪」を犯した結果であると考えられていました。ここでの「罪」とは、律法違反の罪のことを指しています。律法は、旧約聖書(ヘブライ語聖書)に記された神の掟のことを言います。当人たちが意識的に、あるいは気が付かずに犯した律法違反の罪に対する神の「罰」として、病いや障がいが与えられているというのが当時の一般的な認識でした。弟子たちもその認識に基づき、目の前の男性が生まれつき目が見えないのは、本人が罪を犯したからか、それとも両親が罪を犯したからか、とイエスさまに質問したのです。

その弟子たちの問いかけに対し、イエスさまはおっしゃいました。《本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである3節)。目が不自由であることが「罪」の結果であることをはっきりと否定されたのです。病気や障がいが神の「罰」であるということは、決してない。そうイエスさまは宣言してくださいました。聖書の物語の中でも特にこのイエスさまの言葉に思い入れがある、この言葉によって救われたという方も多いのではないでしょうか。私自身、この言葉を大切に心に刻んでいます。

 

 

 

《神の業がこの人に現れるためである》

 

本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない》、そう宣言された後、さらに続けてイエスさまは《神の業がこの人に現れるためである》とおっしゃいました。目が見えないことは罪の結果であることを否定するのみならず、神さまの業が現れるためであるとおっしゃってくださったのです。

 

病いや障がいをどう受け止めるかは、個々人によって相違があることと思います。病いや障がいは罪の結果でも神の罰ではないというイエスさまの言葉には「アーメン」(その通りです)でありつつも、それが神さまのみ業が現われるためであるとすることは、十分に納得できない方もいらっしゃるかもしれません。病いや障がい、あるいは自分の弱さを、私たちはいつも肯定的に受け止めることができるわけではないからです。また、私たちの願う通りに奇跡的な出来事が起こり、病いが癒やされるとは限らないからです。

もしも自分の病いや障がいを神さまのご計画として受け止めることができるとしたら、様々な経験を経た上で、ご本人がそう受け止めることでありましょう。第三者が一方的に「それは神の業、神のご計画」と言うことはできませんし、言うべきではないでしょう。

 

このイエスさまの言葉に関して、まずご一緒に心を向けてみたいのは、その時、目の見えない男性が置かれていた状況です。男性は、共同体から排除され、社会的に弱い立場に追いやられていました。目の見えない人や足の不自由な人は神殿に入ることも禁止されていたそうです(サムエル記下58節)。いまを生きる私たちの視点からすると、そのような定めは、差別に相当することは言うまでもありません。8節ではこの男性は《座って物乞いをしていた人》であったことも語られています。そのように、弱い立場に追いやられ、心砕かれ、苦しんでいる人と真っ先にイエスさまは出会ってくださったことをまず心に留めたい思います。

反対に、高慢になっている一部のファリサイ派の人々は本日の物語において、本当の意味で、イエスに出会うことができませんでした。本当の意味で、イエスさまを見ることができず、イエスさまを信じることができませんでした。むしろ、イエスさまのことを否定し、攻撃し迫害するようになってゆきます。

 

 

 

心の目が開かれ

 

イエスさまはおっしゃいます、《「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。/わたしは、世にいる間、世の光である。」45節)

《だれも働くことのできない夜》とは、イエスさまのご受難と十字架の死を暗に示しています。人々がイエスさまのことを否定し、迫害する中で生じてゆく暗闇。その夜の到来を暗示しつつ、だからこそ、イエスさまは語られます、《わたしは、世にいる間、世の光である》――。

 

こう語られてから、イエスさは地面に唾をし、唾で土をこねて男性の目にお塗りになります。そして、《シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい》と言われます。そこで、男性は行って洗い、そして目が見えるようになって、帰ってきました67節)

ここでは、唾で地面の土をこねて目に塗るという具体的な描写がなされています。この描写は、創世記のアダムの創造の場面を思い起こさせるものであるという解釈もあります。神さまが土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられる場面です(創世記27節)。かつて神さまが土から人を創られたように、ここでイエスさまは土から新しい目を、新しい人を創造してくださったのだと受け止めることもできるでしょう。

 新しく創造され、新しく生きる者とされたこの男性は、目が開かれ、イエスさまご自身をはっきりと「見る」ことができるようになりました。イエス・キリストにおいて神の愛と命が完全に現わされていることを、はっきりと見て、心から信じることができるようになりました。視力が回復されたということ以上に、心の目が開かれ、イエスさまの愛と命の光を見て、信じることができるようになったのだと、本日はご一緒に受け止めたいと思います。そうして、男性は神に愛された存在として、新たに生きる者とされました。

 

男性に起こった具体的な奇跡は、このキリストの愛と命の光を指し示す「しるし」です。《神の業がこの人に現れるためである》というイエスさまの言葉は、この「しるし」としての奇跡を指していたのだとご一緒に受け止めたいと思います。

 

 

 

《わたしは、世にいる間、世の光である》

 

 私たちはそれぞれ、弱さを持っています。その弱さを含めた、私たちの存在そのものを、イエスさまは価高く貴い存在として、愛してくださっています。愛と命の光で照らしてくださっています。本日の物語は、この愛と復活の命の光を私たちに指し示す「しるし」の物語です。

たとえ私たちの心の目が閉ざされ、イエスさまを見失ったとしても、イエスさまは私たちを見失われることはありません。いつも私たちと共にいて、私たちを見つめていてくださいます。神の目に価高く貴い存在、極めて「良い」存在として、私たち一人ひとりを愛してくださっています。だからこそ、その大切な私たち一人ひとりの存在が、決して軽んじられてはならないのです。その生命と尊厳が傷つけられ、失われてはならないのです。

 

 

わたしは、世にいる間、世の光である》――。暗闇が私たちの世界を覆うような状況のいま、このイエスさまの愛と命の光に、私たちの心の目を向けたいと思います。