2024年4月21日「わたしの羊の世話をしなさい」

2024421日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:イザヤ書6215節、ヨハネの黙示録31422節、ヨハネによる福音書211525

わたしの羊の世話をしなさい

 

 

復活節第4主日礼拝

 

 私たちは現在、教会の暦で復活節の中を歩んでいます。復活節はイエス・キリストのご復活を心に留め、共に復活の命の光を希望として歩む時期です。本日は復活節第4主日礼拝をおささげしています。

 

 本日は礼拝後に2024年度の教会総会を予定しています。どうぞご参加ください。今年度も共に祈りあい、支え合いながら、皆さんと歩んでゆけることを願っています。

 

 先週の17日、愛媛県と高知県で最大震度6弱を記録する地震が発生しました。被災された方々の上に神さまのお支えがありますように祈ります。今年に入ってから、能登半島地震をはじめとし、全国で強い地震が発生しています。3日には台湾東部でも、強い地震が発生しました。震度6強を観測した花蓮県を中心に、多くの被害が報告されています。日本基督教団社会委員会からは、「台湾地震緊急救援募金のお願い」が届いています。私たちも引き続き、防災の意識を高めると共に、いま困難の中にある方々に必要な支援が行き渡りますよう、共に祈りを合わせたいと思います。

 

 

 

先週の礼拝メッセージ ~復活のキリストとの出会い

 

 先週の礼拝では、ガリラヤ湖畔にて、復活したイエス・キリストが弟子のペトロたちと出会ったくださった場面を読みました(ヨハネによる福音書21114節)。よみがえられたイエスさまが弟子たちの前に現れてくださったのは、それが三度目のことでした14節)

 

 イエスさまが十字架刑によって亡くなられた後、家の戸に鍵をかけて閉じこもっていた弟子たち。彼らは復活されたイエスさまと出会い、再び立ち上がる力を与えられてゆきました。しかし、これから自分たちがどこへ向かって歩いていけばいいのかは、いまだはっきりと分かっていませんでした。故郷ガリラヤへ戻り、もとの生活に戻ろうとしていたペトロたちの前にイエスさまは再度姿を現してくださり、彼らをもう一度ご自分の弟子へと招いてくださいました。また、共に朝の食事をし、弟子たちの心と体を復活の命の力で満たしてくださいました。先週は、その復活のキリストとの出会いの場面をご一緒にお読みしました。本日の聖書箇所(ヨハネによる福音書211525節)はその続きです。本日の聖書箇所では、よみがえられたイエスさまとペトロとの対話が記されています。

 

 

 

《わたしの羊の世話をしなさい》

 

朝の食事の後、イエスさまはペトロに語りかけられました。《ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか15節)――。イエスさまの問いかけに対して、ペトロは《はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです》と答えました。するとイエスさまは《わたしの小羊を飼いなさい》とおっしゃいました。

再び、イエスさまはペトロに語りかけられました。《ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか16節)。ペトロが、《はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです》と答えると、イエスさまは《わたしの羊の世話をしなさい》おっしゃいました。

三度目に、イエスはおっしゃいました。《ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか17節)。ペトロはイエスさまが三度目も「わたしを愛しているか」とおっしゃったので、悲しくなり、答えました。《主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます》。イエスさまはおっしゃいました。《わたしの羊を飼いなさい》。

 

イエスさまの間で三度繰り返されたこの問答。問答が「三度」繰り返されたことは、イエスさまが逮捕された夜、ペトロが大祭司の屋敷の中庭で、鶏が鳴くまでにイエスさまを三度「知らない」と否定してしまった出来事を思い起こさせるものです。イエスさまはペトロにご自分への愛を三度確認することで、ペトロが三度否認してしまった過ちをはっきりと過去のこととしてくださった。そうして、自分の罪ではなく、キリストの愛へと心の向きを変えるよう促してくださったのだと本日はご一緒に受け止めたいと思います。

 

 

 

ペトロに与えられた使命

 

そのように、愛にとどまるようペトロを促しながら、イエスさまはペトロに対して「わたしの小羊を飼いなさい」「わたしの羊の世話をしなさい」「わたしの羊を飼いなさい」と繰り返されます。これは、ペトロに対してキリストの教会の指導者となる使命が与えられていることを意味しています。イエスさまから愛されている一人ひとりを守り導く、羊飼い(牧者)の役割がペトロに託されたのです。

新約聖書では、イエス・キリスト御自身が「まことの羊飼い」であると語られます(ヨハネによる福音書1011節)。私たちはその羊飼いに養われる羊である、と。ペトロは、まことの羊飼いなるイエスさまから、羊を牧するその役割を委ねられました。

 

その使命に伴い、告げられたのが次の言葉でした。《はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる18節)。この言葉について、ヨハネ福音書は次の説明を付しています。《ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた19節)。ペトロは教会の指導者となった後、ローマにて殉教(イエス・キリストへの信仰ゆえに命を失うこと)したと考えられています。ここでは、そのペトロの最期が暗示されています。その意味で、とても重い言葉でもあります。

 

 

 

ペトロの願い

 

ただし、いまを生きる私たちは、このヨハネ福音書の言葉から殉教や自己犠牲の勧めを読み取るべきではないでしょう。よみがえられたイエスさまが私たちに伝えてくださっているのは、「生きよ」というメッセージです。「私の命を受けて、あなたは生きよ」――。イエスさまの愛と命を受けて、最後まで自分の使命を果たすよう促してくださっている、自分の人生を歩み通すよう促してくださっている、その励ましの言葉として受け止めることもできるでしょう。そのように、私たちが自分の役割をまっとうすることが、神さまの栄光を現すこととつながっています。

 

もしかしたら、その自分の使命を果たそうとする日々の中で、様々な困難や苦しみに出会うことがあるかもしれません。自分の言動が周囲から理解されなかったり、思わぬ誤解が生じてしまったり、対立関係が生じたりすることもあるかもしれません。自分の思った通りにものごとは進んでゆかないかもしれません。しかしそれでも、私たちの心の奥底には、まことの願いがともされています。私たちの使命は、この私たちの心の深くに宿された願いから生じているものです。

 

ペトロの願いとは、これからの自分の生涯のすべての日々を通して、イエスさまを愛したいという願いであったのではないでしょうか。一度、イエスさまのことを「知らない」と否定してしまった自分。だからこそ、これからのすべての日々、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くしてイエスさまを愛したいと願っていたのではないでしょうか。そのまことの願いからペトロの使命もまた生じているのだと、本日はご一緒に受け止めたいと思います。ペトロはイエスさまに答えました、《主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます》。

 

 

 

キリストの愛にとどまる

 

 ペトロが振り向くと、《イエスの愛しておられた弟子》がついてくるのが見えました。この弟子は、《あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である20節)とヨハネ福音書は説明します。この主に愛された弟子(愛弟子)はヨハネ福音書にのみ登場する人物で1323節)、誰を指すかについては諸説あります。伝統的には、この愛弟子は12弟子の一人のヨハネであるとされてきました24節)

 

ペトロは彼を見て、《主よ、この人はどうなるのでしょうか》と言いました。イエスさまはおっしゃいました。《わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい》。

ヨハネ福音書はこのイエスさまの言葉に次の説明を付しています。《それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われたのである》23節)

 

ご一緒に心を向けてみたいのは、《わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか》というイエスさまの言葉の、《わたしの来るときまで彼が生きていること》という部分です。

ここでの「生きている」という言葉は、「とどまる」とも言い換えることのできる言葉です。「わたしが来るときまで彼がとどまることを、わたしが望んだとしても……」とイエスさまはおっしゃったのですね。「とどまる」は、ヨハネ福音書において重要な意味を持つ言葉の一つです。ヨハネ福音書においては、「とどまる」とは、すなわち、キリストの愛にとどまることを意味しています。

 

 

 

私たち一人ひとりが主に愛された弟子

 

ここでの愛弟子とは、キリストに結ばれたすべての者を象徴する存在でもあると受け止めることができるでしょう。キリストの愛に結ばれた一人ひとりが、「主に愛された弟子」である。もちろん、この愛の内にはペトロも入れられています。

 私たち一人ひとりがイエスさまに愛された弟子であり、世の終わりまでのすべての日々において、私たちはキリストの愛の内にとどまり続ける。そのことを記して、ヨハネ福音書は全体を締めくくります。

 

 イエスさまは私たち一人ひとりを、かけがえのない存在として愛しておられます。替わりがきかない存在として、神の目に価高く貴い(イザヤ書434節)存在として、重んじてくださっています。イエスさまの弟子であるということは、このイエスさまの愛にいつも固く結ばれていることを意味していることであると私は受け止めています。

 このイエスさまの愛にとどまる中で、私たちの内にはまことの願いがともされてゆき、そのまことの願いから、かけがえのない使命もまた生じてゆくでしょう。

 

 

私たち一人ひとりが、イエスさまに愛された弟子であること、それぞれにかけがえのない使命が与えられていることを、ご一緒に思い起こしたいと思います。