2024年3月17日「一粒の麦」

2024317日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:イザヤ書6319節、コロサイの信徒への手紙2815節、ヨハネによる福音書122036

一粒の麦

 

 

 

東日本大震災と原発事故から13

 

 先週の月曜日の311日、私たちは東日本大震災と原発事故から13年を迎えました。皆さんも震災を覚え、祈りをささげられたことと思います。

先週の310日(日)の礼拝後には、大船渡教会と奥羽キリスト教センターチャペルを会場にして教区主催の東日本大震災13年を覚えての礼拝をおささげしました。メッセージを大船渡教会牧師の村谷正人先生が担当くださいました。礼拝の動画は奥羽教区YouTubeチャンネルでご視聴いただけます(『奥羽教区』で検索ください)。ご都合により参加が叶わなかった方も、どうぞご覧ください。

震災から13年が経ちましたが、いまも多くの方が困難の中、深い悲しみや痛みの中にいます。原発事故による甚大なる影響と被害はいまも現在進行形で続いています。東日本大震災と原発事故を覚え、ご一緒に祈りを合わせたいと思います。また、この度の能登半島地震で被災された方々のことを覚え、引き続きご一緒に祈りを合わせてゆきたいと思います。

 

 

 

《光の子となるため、光のあるうちに、光を信じなさい》

 

 メッセージの冒頭で、本日の聖書箇所であるヨハネによる福音書122036節をお読みしました。結びのところに、次のイエス・キリストの言葉がありました。3536節《光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。/光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい》。よく親しまれているイエス・キリストの言葉の一つですね。

 

先ほど歌った讃美歌502番『光のある間に』も、このイエスさまの言葉を思い起こさせるものでした。《光のある間に 歩きなさい、/光のみ神が共にいます》4番、詞:Bernard Barton、曲:Samuel Stanley、日本基督教団讃美歌委員会編『讃美歌21』所収、日本基督教団出版局、1997年)。トルストイの晩年の小説には『光あるうち光の中を歩め』というタイトルのものがあります(原久一郎訳、新潮文庫、1952年)

 

 また、「光の子」という表現も、親しまれているものですね。園の名前に採用している幼児施設もあることでしょう。お隣の日詰教会の関連施設・認定こども園のお名前も「ひかりの子」ですね。メッセージの後に歌う予定の讃美歌509番『光の子になるため』は、このイエスさまの言葉《光の子となるため、光のあるうちに、光を信じなさい36節)を基にしています。

《光の子になるため 従いて行きます。/この世を照らすため 来られた主イェスに。/主のうちに闇はなく 夜も昼も輝く。/心の中をわが主よ、照らしてください》1番、詞・曲:Kathleen Thomerson、同所収)

 

 

 

イエス・キリスト御自身が「光」 ~命の光

 

 ヨハネによる福音書は、イエス・キリスト御自身が「光」であることを語っています。本日の聖書箇所における「光」とは、イエスさまご自身のことなのですね。《光のある間に》というのは、「光であるイエスさまがいらっしゃる間に」という意味であり、「光の子」とは「光であるイエスさまの子ども」の意味です。

 

イエスさまご自身が「光」であるということについて、ヨハネによる福音書の冒頭には、次の言葉があります。《言葉の内に命があった。命は人間を照らす光であった。/光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった145節)。クリスマスの時にもよく読まれる言葉ですね。

ここではまず、イエスさまはわたしたちの「命」であると言われています。命であるそのイエスさまが、私たち人間を照らす「光」であるのだ、と。

命とは、私たちを「生かしている」ものです。命があるので、私たちは「生きる者」とされています。その命が、私たちを照らす光であるとヨハネによる福音書は語ります。

イエス・キリストが光であるということは、私たちを明るく照らしてくださるのみならず、私たちの命となり、私たちを生かしてくださっている方であるとの意味を含んでいます。それほど根本的な意味を持つ言葉として、ヨハネ福音書は「光」という語を使用しているのですね。

 

 

 

 

闇の中に輝く光 ~十字架におかかりになったイエス・キリスト

 

 また、引用しましたヨハネ福音書15節では、《光は暗闇の中で輝いている》と語られています。暗闇とは、何でしょうか。ここでの暗闇は、私たち人間の罪と悪から生じている暗闇であると受け止めることができます。

 

礼拝が始まる際、講壇の前に立てられている7本のろうそくの内、5本のろうそくの火を消したのをお気づきになられたでしょうか。受難節の礼拝では、毎週1本ずつ、ろうそくの火を消してゆく「消火礼拝」が行われることがあります。本日は受難節第5主日ですので、5本のろうそくの火を消しました。洗足木曜日礼拝をおささげする328日には、7本のロウソクのすべての火が消えることとなります。ろうそくの火が消えることによって生じる暗闇は、私たち人間の罪と悪から生じる暗闇を表し、そして、イエスさまが十字架への道行きにおいて経験された暗闇を指し示しています。

 

イエスさまは十字架の道行きにおいて、暗闇の中を歩んでゆかれました。暗闇をご自分の身に引き受け、十字架を背負い、ゴルゴタの丘まで歩んでゆかれました。そして、十字架におかかりになり、苦しみの果てに、息を引き取られました。ヨハネ福音書が証しするのは、この十字架におかかりになったイエスさまこそが、「闇の中に輝く光」であるということです。

 

 

 

一粒の麦

 

聖書が指し示すこの十字架の光は、きらびやかで盛大な光というよりは、人の目には気づかれにくい、目立たないものであるのかもしれません。それは暗闇の中の光であり、まさに一本のろうそくの光に近いものであるかもしれません。聖書は、この十字架におかかりになった救い主こそが命の光であり、すべての人を照らすまことの光であると証しています。

十字架にはりつけにされたイエスさまは、最も無力な姿で、ここにおられます。誰の目にも留められないような惨めな姿で、私たちと共におられます。

 

本日の聖書箇所の前半部分に、次の言葉がありました。1224節《はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ》。

「一粒の麦、地に落ちて死なずば …」(文語訳)――こちらもよく知られたイエスさまの言葉ですね。三浦綾子さんの小説『塩狩峠』(新潮文庫、1968年。1966年から2年半にわたり『信徒の友』に連載)を思い起こす方もいらっしゃることでしょう。ドストエフスキーの小説『カラマーゾフの兄弟』の巻頭(エピグラフ)にもこの御言葉が掲げられています。

 

ここでの「地に落ちて死んだ」一粒の麦は、十字架におかかりになって亡くなられたイエス・キリストご自身を指し示しています。イエスさまは自ら十字架の道を歩まれ、十字架の上でお亡くなりになりました。

 

地に落ちた、一粒の麦。その小さな一粒の麦は、通常、まったく人の目に留まることはないでしょう。誰からも顧みられることはない一粒の麦が、死ぬことにより、多くの実を結ぶとここでは語られています。その死によって、多くの人が生きるようになる。私たちが永遠の命に結ばれるため、イエスさまは十字架の上でご自身の命をささげてくださいました。

十字架の光は、暗闇の中に輝く光。それは、一本のろうそくの明かりのように、地に落ちた一粒の麦のように、人の目には気づかれにくい光です。しかし、この闇の中に輝く光は、決して消えることのない光です。

 

 

 

「私の命を受けて、あなたは生きよ」

 

 このキリストの光は、魔法のように私たちの生活を明るく照らし出すことはないかもしれません。魔法のように、一瞬で私たちの悩みや問題を解決してくれることはないかもしれません。しかし、私たちが困難の中にあるとき、私たちが絶望することがないように、私たちを支え続けてくださっています。私たちを「生きる」ことへと、つなぎとめてくださっています。暗闇の中を歩んでいるような心持ちの私たちのその歩みを、ともし火のように、一歩一歩、照らし続けてくださっています。

暗闇の中で、イエスさまは、私たちに向けて語っておられます。「生きよ」、と。暗闇のただ中で、イエスさまは私たちに語り続けておられます。「私の命を受けて、あなたは生きよ」と――。

イエスさまこそは、私たちの命、私たちの光。私たち一人ひとりに命の光を与えて下さる方であることを本日はご一緒に心に留めたいと思います。私たちはこの命の光の呼び声にいま、生かされ、支えられています。

 

 

 

それでも、私たちは絶望はしない

 

 私が神学生の時に出席していた十貫坂教会(東京・中野区)の関川泰寛牧師(当時)からお聞きした、印象深いエピソードがあります。

関川先生が青年時代に洗礼を受けたときのこと、そのときはまだクリスチャンではなかったご両親が、洗礼を授けてくれた教会の牧師に「クリスチャンになると何かよいことがあるのですか」と尋ねられたそうです。すると、その先生は、「そうですね……絶望しなくなるでしょうね」とおっしゃったそうです。

「絶望しなくなる」、この表現が心に残りました。「希望をもつ」というより、「絶望しなくなる」。「希望をもつ」ことと「絶望はしない」ことは、言わんとしていることは共通していても、受け取る印象は少し異なりますね。

 

困難な状況のただ中にいるとき、私たちは「希望」という言葉を口にすることが難しいことがあります。「希望がある」とはまだはっきりと言えないとしても、明るい未来はいまだ描けていなくても、それでも、「絶望はしない」――。そのように言うことは、可能なのではないでしょうか。イエス・キリストの光は、絶望しないための力を私たちに与えてくださるものです。

大変なことは色々あり、悩みも尽きないけれど、それでも、私たちは絶望はしない。それでも、私たちは生きることは止めない。暗闇のただ中でいま、光であるイエスさまが「私の命を受けて、あなたは生きよ」とお命じになってくださっているからです。

 

 

イエスさまの命の光を内にともし、その光に心を照らされ、受難節の中を一歩、また一歩と共に歩んでゆきたいと願います。