2024年2月4日「イエスは言われた、『起き上がりなさい』」

202424日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:ヨブ記23110節、ヤコブの手紙125節、ヨハネによる福音書5118

イエスは言われた、『起き上がりなさい』

 

 

能登半島地震が発生してから1ヶ月が経ちました。いまも多くの方々が困難な生活を強いられています。皆さんも甚大なる被害の状況に日々接し、大変心を痛めていらっしゃることと思います。この度の地震によって愛する人を失った方々の上に神さまの慰めがありますように、困難の中にある方々に神さまのお支えがありますように、必要な支援が行き渡りますように、引き続き祈りを合わせてゆきたいと思います。

 

 国内外で、日々、様々な困難な出来事、心痛む出来事が起こっています。ロシアとウクライナの戦争、ガザ地区でのイスラエルとハマスの戦争が一刻も早く停戦へと至りますよう、ご一緒に祈りを合わせたいと思います。

 

 

 

ヨハネによる福音書の7つの奇跡(しるし)

 

今年に入ってから、主日聖書日課ではヨハネ福音書の物語が続いています。ヨハネによる福音書は四つの福音書の中で、最後の4番目に配置されている書です。

 

ヨハネ福音書には、全部で7つの奇跡物語が記されています。先々週は、イエス・キリストが最初に行った奇跡である、カナの婚礼の物語を読みました。イエスさまが水をワインに変えたという、有名な物語ですね。本日の聖書箇所であるヨハネによる福音書5118節のベトザタの池での物語は、3番目に起こった奇跡です。

ヨハネによる福音書の特徴は、これらの7つの奇跡を、「しるし」と呼んでいるところです。水をワインに変える、病いを癒すなどの奇跡的な出来事を、ヨハネは「しるし」と呼んでいます。たとえば、カナの婚礼の物語の締めくくりにはこう記されていました。《イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された211節)

しるしとは、何かを指し示すものですね。奇跡そのものよりも、その奇跡的な出来事が指し示している事柄がより重要である、とヨハネ福音書の著者ヨハネは考えていたようです。

 

では、本日のベトザタの池で起った奇跡は、何のしるしであったのでしょうか。そのことについて思いを巡らしつつ、改めて本日の物語をご一緒に振り返ってみたいと思います。

 

 

 

べトザタの池での奇跡

 

エルサレムの羊の門の傍らに、「べトザタ」と呼ばれる池がありました。この池には病を癒す力があると信じられており、池の周りの回廊には病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、身体の麻痺した人など、多くの人々が横たわっていました。

 

 集まった人々は、池の水が動くのをジッと待っていました。べトザタの池には、水が動いたとき、真っ先に水に入ることができた者は、どんな病気にかかっていても癒やされるという伝承がありました(異本による訳文 53b4節参照)。池の水が動くのは、天使が降りてきたからだと信じられていたようです。

 スクリーンに映していますのは、ロバート・ベイトマン(18361889)という画家が描いたべトザタの池の絵です(画像:From Wikimedia Commons)。天使が階段を降りていっていますね。池の水が動くのは、天使が近づいてきているから……。天使は目には見えませんが、池の水が動くことで、人々は「天使が降りてきた」のだと理解したのでしょう。この絵では、回廊に横たわる病人たちが懸命に水面に近づこうとしている様子も描かれています。

 先ほど申しましたように、病が癒されるのは、真っ先に水の中に入ることができた人だけです。そこにいる皆が癒やしに与ることができるわけではなかったのですね。それはある種の競争であり、癒やしに与るには、他の人との競争に勝たねばならなかったのです。

 

 

 その日、イエスさまはエルサレムに上られ、このべトザタの池に立ち寄られました。癒しを求めて集まった大勢の人の中に、38年も病気で苦しんでいる人がいました。何の病気であるかははっきりとは分かりませんが、おそらく足が不自由であったか、身体に何らかの麻痺があったことが伺われます。男性は38年もの間、病で苦しんでいました。

 スクリーンに映していますのは、バルトロメ・エステバン・ムリーリョ16171682という画家が描いた絵です。イエス・キリストと弟子たち、回廊に横たわる男性が描かれていますね。

 

 イエスさまは回廊に横たわるその男性をご覧になり、もう長い間病気であることを理解されました。イエスさまは男性に《良くなりたいか6節)と語りかけられました。すると、男性は答えました。《主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです7節)

 

男性は癒やしに与りたいと願い、日々、回廊の床の上に横たわり、ジッと水面を見つめていたことでしょう。けれども、いざ水が動いても、身体が不自由であったので、他の人々との競争に勝つことはできなかったようです。自分が行こうとしている内に、他の人が池に降りていってしまうのです。

再び、先ほどのロバート・ベイトマンのべトザタの池の絵をご一緒に見てみたいと思います。絵の左端に、いままさに池の中に入ろうとしている男性と、その男性を支える女性が描かれていますね。男性は身体が不自由であることが伺われます。彼をその隣でサポートする女性は男性の母親、もしくは家族でしょうか。男性が池に入ることができたのは、傍らにいるこの女性のサポートがあったからであることが分かります。

 

対して、本日の物語に登場する男性は、自分の体を支えて水面まで連れて行ってくれる人がいませんでした。すぐ隣にいて、サポートしてくれる人はどこにもいなかったのです。《主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです》という男性の返答には、病気が良くなりたいという想いだけではなく、自分をサポートしてくれる人がいないことの悲しみが込められているように感じられます。

男性の苦しみは病いによるものであることはもちろんですが、それだけではなく、自分の想いや願いを共有してくれる人がいない、そばにいて寄り添ってくれる人がいない、ということからも来ていたのではないでしょうか。(自分は独り、誰からも顧みられない、見捨てられているように感じる……)。もしかしたら、その苦しみの方が、病による苦しみよりもさらに深いものであったのかもしれません。その苦しみの中で、身体だけではなく、魂も起き上がることができない状態であったのかもしれません。

 

イエスさまはこの男性をご覧になったとき、38年間病気であるという事実のみならず、その心の中の苦しみ、悲しみを理解してくださったのだと、本日はご一緒に受け止めたい思います。起き上がれないでいる、その苦しみを知ってくださったのだとご一緒に受け止めたいと思います。

 

イエスさまは男性に、《起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい8節)とおっしゃいます。すると、驚くべきことが起こります。男性はすぐに良くなり、床を担いで歩き出したのです。

 

 

 

「しるし」 ~イエス・キリストの復活の命を指し示すものとして

 

イエスさまが男性におっしゃった、《起き上がりなさい》という言葉――。この「起き上がる」という言葉は、新約聖書の中で、別の場面でも使われています。それは、イエス・キリストの復活の場面です。イエス・キリストが暗い墓の中から「復活した」。この「復活した(よみがえった)」という部分が、原文のギリシャ語では「起き上がった」という言葉が使われています。

 

イエスさまの《起き上がりなさい》という言葉によって起き上がった男性は、イエス・キリストの復活の命を受けることによって、起き上がることができたのだと受け止めることができます。起き上がることができないでいた男性の身体が、そして魂が、イエス・キリストの復活の命を通して、起き上がる力が与えられたのです。

 

メッセージのはじめに、本日のベトザタの池で起った奇跡は、「しるし」であるとお話ししました。そのしるしとは、イエス・キリストを通して与えられる復活の命を指し示すしるしであったのです。

単なる奇跡ではなく、イエス・キリストの復活の命が与えられるという、その大いなる出来事を指し示すしるしとして、ヨハネ福音書は大切に本日の物語を保存しています。私たちの心の目をキリストの復活の命へと向け直すために。そのしるしの物語が、本日のベトザタの池の物語です。

 

 

 

《イエスは言われた、『起き上がりなさい』》

 

先ほど、池の回廊に横たわっていた男性の苦しみについて、ご一緒に想いを馳せました。置かれた状況はそれぞれに異なりますが、私たちもまた、時に起き上がれなくなることがあります。身体が、心が、そして魂が、沈み込んでしまう状態になることがあります。何とかしたいとは思うのだけど、もう自分の力ではどうしようもできない。魂がまるで寝たきりのようになり、起き上がることができないでいる。そういう苦しみを時に私たちは経験します。

 

 そのような時、イエスさまは私たちのすぐ傍らにいて、私たちの苦しみを共にしてくださっています。先ほど参照した絵の、病の男性の傍らにいる女性のように。起き上がれないでいる私たちのすぐ隣で、私たちの肩を抱きながら、一歩一歩、ご自分の復活の命へと共に導いてくださっています。

 

 この命の泉に与ることができるのは、真っ先に水に入った者だけではありません。この泉を求めて集う、すべての人が、この復活の命に与ります。ここには、一切の競争はありません。むしろ、一番遠くにいて、最後尾で、いま孤独の中で見捨てられた気持ちでいる人の傍らにこそ、イエスさまはいてくださることでしょう。

 このイエスさまの愛と命に結ばれる中で、少しずつ、起き上がることができないでいた私たちの魂が、再び起き上がらされてゆくことが起こってゆくのだと信じています。私たち一人ひとりの内に、復活の命の力――再び起き上がる力が与えられています。

 

 

イエスは言われた、『起き上がりなさい』、いま、よみがえられたイエス・キリストがあなたと共にいてくださり、復活の命の言葉を語りかけてくださいますように。