2024年1月28日「真理はあなたたちを自由にする」

2024128日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:詩編12515節、ヨハネの手紙二113節、ヨハネによる福音書82136

真理はあなたたちを自由にする

 

 

 

『わたしが「カルト」に? ゆがんだ支配はすぐそこに』

 

 昨年、日本キリスト教団出版局から『わたしが「カルト」に? ゆがんだ支配はすぐそこに』という本が出版されました。齋藤篤先生(仙台宮城野教会牧師)と竹迫之先生(白河教会牧師)の共著です(監修:川島堅二先生)。斎藤先生と竹迫先生はそれぞれ、元エホバ証人1世、元旧統一協会1世であり、長年カルト宗教の対策に取り組んでこられた先生方です。カルト問題を理解する上でとても良い本ですので、ご関心のある方はぜひ読んでみて下さい。

 

 202278日に起こった安倍晋三元総理の銃撃事件から、1年半ほどが経ちました。この事件以降、旧統一協会(現 世界平和統一家庭連合)をはじめとするカルト宗教の問題が社会的に大きな関心を集めるようになりました。ただし、一時期に比べて最近は報道されることが少なくなってきているかもしれません。カルト宗教の問題は私たちの社会にとって、また私たちキリスト教会にとって、喫緊の課題の一つです。いまカルト宗教の被害を受け、苦しんでいる方々の救済のためにできることを祈り求めてゆきたいと思います。

 

 

 

カルトとは何か

 

 改めて、カルトとは何でしょうか。齋藤篤先生は著書『わたしが「カルト」に? ゆがんだ支配はすぐそこに』の中で、カルトとは《ゆがんだ支配構造によって本来人間に備わるべき人権を奪い、さまざまな弊害をもたらす状態》のことだと説明しています。すなわち、《人権を奪うような行為》のことです(同、52頁)。人権とは、人間が、人間らしく生きてゆく権利のことですね。私たちの基本的人権は、憲法によって保障されています。この基本的人権を侵害するものが、カルトであるのですね。《その団体や組織がカルトかどうかを見極める決め手となるのは、その組織が基本的な人権を尊重しているかどうか》に尽きると思うと齋藤先生は述べています(同、53頁)

 

 人権の最も大切な要素の一つが「自由」です。たとえば、憲法第20条では基本的人権の一つとして「信教の自由」が保証されています。この信教の自由には、「信じる自由」と共に「信じない自由」も含まれています。カルトは、私たちが生きる上で根本的に重要な、この自由を奪おうとするものです。

 

カルトが信者を自分たちに都合の良いように搾取するために用いる手法が、マインド・コントロールです(マインド・コントロール=人の心を操作すること)。マインド・コントロールが恐ろしいところは、本人も気づかないうちに、心や行動がその団体・組織によって操作されてしまっていることです。旧統一協会はこのマインド・コントロールを利用して、信者の方々に対して多額の献金をさせるよう促してきたと言われます。このように、個々人の自由と主体性を奪い、経済的・肉体的・精神的に著しい負担・苦痛を与え続けることは人権侵害であり、ゆるされることではありません。

 

 この1年半、旧統一協会の問題への関心の高まりと共に、カルト宗教2世(両親がカルト宗教の信者で、幼い頃からその教育を受けてきた人々のこと)の苦しみにも焦点があてられるようになりました。旧統一協会2世の方々だけではなく、エホバの証人2世の方々も声を上げ始めています。教団の信仰・教義の強要、むち打ちなどの体罰など、自身が経験してきたことは児童虐待(宗教的虐待)であるとし、被害の実態の調査を求めています。カルト宗教2世の方々のことも覚えて、引き続きご一緒に祈りを合わせてゆきたいと思います。

 

 信教の自由には、「信じる自由」と共に「信じない自由」もあることを述べました。家族であっても、私たちはそれぞれ、独立した人格です。自分が何を信じるか、信じないか、自分がどう生きるかは、最終的に自分自身で決めるべきことであることを改めて心に留めたいと思います。

 

 

 

カルト化はどこにおいても起こり得ること

 

カルト化は、どの教会においても起こり得ることです。カルト宗教には旧統一協会などのキリスト教系カルトの他に、仏教系、神道系、イスラム系もあります。

また、カルト化は、宗教団体においてだけではなく、どの団体・組織でも起こり得ることです。家族間、友人間でも起こり得ることでしょう。先ほど引用しましたように、カルトとは《ゆがんだ支配構造》であるからです。一方が一方を支配し、その自由を奪い、絶対服従するようにコントロールし、経済的・肉体的・精神的に著しい負担や苦痛を強いているならば、それはカルト化した状態にあると言えます。

 

斎藤篤先生は、カルトと支配は切り離せないものであり、《「カルトとは何か」を考えることは、「支配とは何か」と考えることでもあります》(同、57頁)と述べています。その意味で、カルトは宗教に限ったことではなく、《わたしたちの日常生活のあらゆる場面において起きうること》である、と。

 

 

 

《支配されたいわたし》、《支配したいわたし》

 

 竹迫之先生は今回の著書の中で、私たちの内には《支配されたいわたし》も《支配したいわたし》もいることを指摘しています。私たちは誰しも、そのような弱さを持っている。

 

 竹迫先生は旧統一協会の元信者としての経験から、《「支配されている状態」というのは実は大変気持ちいいこと》(同、85頁)なのだと率直に述べておられます。カルトによるマインド・コントロールは《表面上「自分で決めなくていい」「自分が責任を負わなくていい」という気楽さを提供して》くれるからです。

印象的に残ったのは、それはまるでディズニーランドなどのテーマパークにずっとい続けているような状態であるとの竹迫先生の表現です。決められたコースを歩き、決められたアトラクションに乗せられて、決められたコンテンツを楽しむだけの状態。自主性を全く発揮しないで、《子どもでいられる状態を満喫できる。カルトのマインド・コントロールによって与えられる気楽さは、これとよく似ています》。

日々強いストレスにさらされ続けている現代の私たちにとって、そのような状態は確かに魅力的に映るかもしれません。自由は時に、私たちにとって重すぎるものとして感じられるからです。自分のことをいちいち自分で決めてゆくことはしんどいこと、大変なエネルギーが必要なことでもあるからです。私たちの内には、自ら自由を放棄したいと感じる、誰かに支配されたいと感じる、そのような弱さがあるのも事実です。

 けれども、ディズニーランドやUSJのようなテーマパークは、限られた時間の中でその世界に没頭できるからこそ、リフレッシュされるのでしょう。心身がリフレッシュされた後、私たちはまたそれぞれの日常の生活に戻ってゆきます。もしも私たちがいつまでも日常の生活に戻れないのだとしたら、私たちの人生そのものがそれらテーマパークにすり替わってしまうのだとしたら……。私たちの魂は徐々に損なわれ、傷つけられていってしまうでしょう。魂の健やかさにとって、自由に生きること、私たちが主体性をもって自分らしく生きてゆくことは、欠くことのできない最も大切な要素の一つであるからです。

 

 私たちの内にある「支配される」ことへの欲求。そうした弱さの裏返しなのか、私たちは時に《自分自身が「支配する者」としての万能感に浸ってしまう》(同、87頁)ことがあると竹迫先生は述べます。他者を支配し、他者を自分の思い通りに動かすことにも、時として大きな快感が伴います。「他者を自分の思い通りにしたい」という支配欲は、私たちにとって最も気をつけるべき、強力な欲求の一つでありましょう。

「カルトに気をつけましょう」との注意喚起は、《もちろん「支配される側」にならないようにとの意味合いを強く含んでいますが、自分自身が「支配する側」に立ってしまうことも往々にして起こり得ます》(同、89頁)と竹迫先生は指摘しています。

 

 

 

《真理はあなたたちを自由にする》

 

本日の聖書箇所の中に、《わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。/あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする(ヨハネによる福音書832節)とのイエス・キリストの言葉がありました。

 

真理はあなたたちを自由にする》――私たちにとって本当に大切な教えは、私たちを縛り付けて不自由にさせるものではなく、むしろ私たちを自由にしてくれるものであることを心に留めたいと思います。

 ヨハネによる福音書においては、この自由は、イエス・キリストを通して与えられるものです。イエス・キリストに結ばれることによって、私たちは自由にされることをヨハネ福音書は語ります。すなわち、イエスさまは私たちを「支配された状態」からも、「支配した状態」からも解放してくださる方である。イエスさまは奇跡的な出来事や圧倒的な権威によって、有無を言わさずに服従させることを決してなさらない方です。そうではなく、私たちの傍らで、私たちが自ら、真理の道を歩むよう願っていてくださいます。

 

ヨハネ福音書は、イエス・キリストから切り離された私たちは《罪の奴隷》状態にあると形容しています。ここでの罪とは「不信仰」、イエス・キリストを信じないことを意味しています169節)。言い換えますと、イエスさまの内にとどまらず、自ら、切り離された状態にあることです。イエスさまはその《罪の奴隷》の状態にある私たちを自由にしてくれる方である、というのですね。

イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。/奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。/だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる」3436節)

 イエスさまと結ばれ、イエスさまの内にとどまることによって、私たちは奴隷状態から解放され、本当に自由になるのだとヨハネ福音書は語ります。

 

 

 

キリストの愛にとどまる ~支配/被支配の状態からの解放

 

 イエスさまの内にとどまるとは、すなわち、イエスさまの愛の内にとどまるということです。キリストの愛に結ばれ、キリストの愛にとどまることによって、私たちは支配/被支配の状態から解放され、まことに自由となってゆくのだと本日はご一緒に受け止めたいと思います。

 

 真理とはイエス・キリスト御自身であり、その真理であるイエスさまにつながり、その愛の内にとどまることが、自由になることへの道であることをヨハネ福音書は証しています。その意味で、本日のみ言葉を次のように言い換えることもゆるされるかもしれません。「あなたたちは愛を知り、愛はあなたたちを自由にする」――。キリストの愛こそは、私たちを支配/被支配の状態から解放してくださる力だからです。

 

 

 

神さまの目から見た「個人の尊厳」

 

イエスさまは私たち一人ひとりを、かけがえのない存在として愛してくださっています。神の目に価高く貴い(イザヤ書434節)存在として、重んじてくださっています。イエスさまの弟子であるということは、このイエスさまの愛にいつもとどまっていることを意味しています。

 

 このことを、神さまの目から見た「個人の尊厳」と言い表すこともできるでしょう。「尊厳」とは、「かけがえのなさ」ということです。神さまの目から見て、私たち一人ひとりが人格をもった、かけがえのない存在であること。この私の替わりになる存在は、誰一人いないということ。だからこそ、私たちは自分自身を大切にし、隣り人を大切にして生きてゆかなければなりません。

 カルトは、この個人の尊厳をないがしろにしようとするものです。私たちを替わりがきく存在とし、ロボットや奴隷のように支配し、コントロールしようとするものです。私たちの尊厳を侵害するそのような力を、私たちは決して容認してはなりません。

 

 

神さまの目から見て、一人ひとりが、かけがえのない、替わりがきかない存在であること。イエスさまがこの私を、かけがえのない存在として愛してくださっていること。私たちがこの真理と愛に留まり続けることが、カルトおよびカルト化に抗ってゆくための、まことの力になってゆくのだと信じています。