2024年5月5日「しかし、勇気を出しなさい」

202455日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:出エジプト記33711節、ローマの信徒への手紙82839節、ヨハネによる福音書162533

しかし、勇気を出しなさい

 

 

2024年度 主題聖句

 

 ゴールデンウイークの後半、いかがお過ごしでしょうか。5月に入り、新緑の美しい季節となりました。木々の緑が心に染み入る今日この頃です。市役所に続く通りのツツジも、鮮やかな赤やピンクに色づいています。ここ数日は、岩手も初夏を思わせるような陽気が続いています。この時期でも熱中症になることがあるとのことですので、皆さんもこまめに水分を補給し、熱中症にはくれぐれもお気を付けください。

 

私たち花巻教会は、昨年に引き続き、コリントの信徒への手紙一122627節を年間の主題聖句として選んでいます。《一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。/あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です》。

私たちが違いを認め合い、弱さを受け止め合って、互いを大切にして歩んでゆくことができますように願っています。

 

 

 

励まされる聖書の言葉

 

 励まされる聖書の言葉というと、皆さんはどの聖書の言葉を思い浮かべるでしょうか。心の支えとなる聖書の言葉は、本当にたくさんありますね。冒頭でご一緒にお読みした聖書箇所も、その一つであると思います。《しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている(ヨハネによる福音書1633節)。これまでも多くの人々がこの言葉に励まされ、力づけられてきたことでしょう。

 

 この言葉はもともとは、イエス・キリストが十字架におかかりになる直前、弟子たちに対してお語りになったものです。少し前の部分から改めて引用いたします。《これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている》。

お読みしたみ言葉の中に、あなたがたは世で苦難がある》との言葉がありました。弟子たちがこれから、様々な苦難を経験するであろうことをイエスさまは予告されます。「しかし」とイエスさまは続けられます。《しかし、勇気を出しなさい》。イエスさまは《既に世に勝っている》からです。

 

 

 

《わたしは既に世に勝っている》

 

 先週の礼拝のメッセージでは、イエスさまと弟子たちがこの先、周囲から憎しみを向けられるようになるとイエスさまご自身が予告される部分を取り上げました。イエスさまと弟子たちは、周囲の人々から「悪しき関心」を向けられるようになる。事実、イエスさまはこれらの言葉を弟子たちに告げられた後、逮捕され、不当な裁判にかけられ、そして十字架刑によって処刑されることとなります。

あなたがたは世で苦難がある》という言葉における「苦難」とは、キリストの弟子であるゆえに人々から憎しみを向けられ、迫害を受ける経験を指していると言えるでしょう。

恐れにとらわれる弟子たちに対して、イエスさまは《しかし、勇気を出しなさい》とお語りになります。なぜなら、《わたしは既に世に勝っている》。

 いまは憎しみの力が勝っているように見えるかもしれない。しかし、イエスさまの愛は、すでに憎しみに勝利している。イエスさまの十字架を通して現わされる神さまの愛は、すでに、すべてのことに打ち勝っている。そのことをイエスさまは宣言してくださっています。

 

 

 

「しかし、勇気を出しなさい」

 

本日の聖書箇所の《しかし、勇気を出しなさい》という言葉。原文はギリシア語ですが、この言葉は3通りの訳し方が可能な言葉です。

一つ目は、ご一緒にお読みした、「勇気を出しなさい」。二つ目は、「元気を出しなさい」。三つ目は、「安心しなさい」。いずれの訳も可能であるのですね。

「しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」。「しかし、元気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」。「しかし、安心しなさい。わたしは既に世に勝っている」。皆さんはどの訳が、いまのお気持ちとぴったりするでしょうか。

 

 まずは一つ目の、「しかし、勇気を出しなさい」という訳文についてご一緒に想いを巡らしてみましょう。「しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」――。私たちが現在礼拝で用いている新共同訳聖書もこの訳し方をしています。この訳し方がふさわしいとされたのは、弟子たちが恐怖や不安を感じざるを得ない状況にあることが踏まえられているからでしょう。

この先、自分たちはキリスト者であるゆえに、様々な困難を経験するかもしれない。キリストの弟子であるゆえに、人々から憎しみを向けられるようになるかもしれない。それは大変恐ろしいことです。勇気とは、そのような恐れや不安があるにも関わらず、それでも、自分の信じるところに向かってゆく強い意志のことを指します。ここでは、キリストの弟子として、自分の使命を果たしてゆこうとする強い意志のことを指しますね。そのような強い意志を、私たちはいかにしたら内に宿すことができるのでしょうか。

 

 本日の聖書箇所においては、その勇気は、弟子たちの内にもともとあるものというより、イエス・キリストによって新しく与えられるものとして語られています。もともとは勇気がなく恐れに囚われていたはずの弟子たちが、その後、生まれ変わったように勇敢に福音を宣べ伝えるようになる姿を聖書(たとえば使徒言行録)は証しています。それは他ならぬ、死よりよみがえらえれたイエスさまが、弟子たちと共にいてくださり、彼ら・彼女らを絶えず励まし、勇気づけてくださっていたからです。「あなたは一人ではない。わたしが共にいる」、と。

 

 神さまが共にいてくださるから、私たちは恐れや不安の中でも、それでも、勇気を出すことができる。強い意志を宿すことができる。これは、旧約聖書(ヘブライ語聖書)と新約聖書を併せた、聖書全体のメッセージでもあります。《わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し/あなたの身代わりとして人を与え/国々をあなたの代わりとする。/恐れるな、わたしはあなたと共にいる(イザヤ書4345節)

 

 なぜ神さまは私たちと共にいてくださるのか。いつも共にいて、励ましてくださっているのか。それは、神さまが私たちを愛してくださっているからです。価高く、貴い存在として大切にしてくださっているからです。

 

 本日のイエスさまの言葉の根底にあるもの、それも、他ならぬ、私たち一人ひとりへのイエスさまの愛であり、神さまの愛です。この愛に触れ、この愛にとどまるとき、私たちは自らの内に強い意志を宿すことができるようになってゆくのだと本日はご一緒に受け止めたいと思います。イエスさまが共にいてくださるから、私たちは強くなれる。

 

 

 

「しかし、元気を出しなさい」

 

 二つ目の訳、「しかし、元気を出しなさい」についても思い巡らしてみましょう。「勇気を出す」と「元気を出す」とでは、また少しニュアンスが異なりますね。元気は心と体と魂の健やかさともつながっているものです。

 

 元気という言葉を口にするとき、私たちが思い浮かべるのは、むしろ元気を失わざるを得ないような現状ではないでしょうか。先ほどの弟子たちのように、いまを生きる私たちはキリスト者ゆえに迫害されるということはないかもしれません。けれども、いまを生きる私たちの目の前にもやはり、様々な困難な現実があります。困難な現実を前に、心と体は弱り果て、自分の内にはもはや何の力も残されていないように感じる時もあるかもしれません。ひどく落胆し、無気力になる時もあるでしょう。

しかし、それでも、元気を出して生きてゆくようにとイエスさまは私たちを励ましてくださっています。「しかし、元気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」――。なぜなら、イエスさまは死に打ち勝ち、永遠の命としていま、私たちと共におられるからです。私たちに復活の命の力を与えてくださっているからです。

 

ここでの元気も、私たちの内にもともとあるものというだけではなく、復活のキリストによって日々新たに与えられるもの、その命の力・生きる力として受け止めることができます。

聖書には次の言葉もあります。《だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます(コリントの信徒への手紙二416節)。たとえ私たちの「外なる人」は衰えても、イエスさまの復活の命によって、私たちの「内なる人」は日々新たにされてゆくのだと手紙の著者パウロは語ります。ですので、私たちは落胆せず、元気を出して、今日という日を生きてゆくことができることをご一緒に受け止めたいと思います。

 

 

 

「しかし、安心しなさい」

 

 イエスさまの愛は、私たちの内から恐れを取り除き、私たちの内に勇気(強い意志)を与えてくださいます。イエスさまの命は、私たちの内から落胆を取り除き、私たちの内に元気(生きる力)を与えてくださいます。このイエスさまの愛と命は、いつも私たちと共にあります。イエスさまはいつも私たちと共にいてくださいます。このことへの信頼・信仰が、私たちの内に安心(心の平安)をもたらします。

 

 最後に、三つ目の訳「しかし、安心しなさい」についても思い巡らしましょう。恐れや不安を感じざるを得ない現実、落胆を感じざるを得ない現実、様々な困難な現実が私たちの目の前にあります。にもかかわらず、「安心しなさい」とイエスさまは私たちに語りかけておられます。「しかし、安心しなさい。わたしは既に世に勝っている」――。

なぜなら、イエスさまの愛と命がいま、私たちと共にあるからです。死よりよみがえられたイエスさまがいつも私たちと共にいてくださるからです。

 

わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、/高いところにいるものも、低いところにいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです(ローマの信徒への手紙83839節)

 イエスさまへの信頼に基づくこの安心は私たちに元気を与え、私たちに勇気を与えるのだと受け止めることもできるでしょう。安心と、元気と、勇気。この三つはいずれも切り離すことのできないものです。そしてこの三つを生み、守り育むものが、イエスさまの愛と命です。

 

 

「あなたは一人ではない。わたしが共にいる」――。愛であり命であるこのイエスさまの語りかけにいま、ご一緒に心を開きたいと思います。そして勇気を出して、元気を出して、安心して、今日という日を共に生きてゆきたいと願います。