2024年3月31日「婦人よ、なぜ泣いているのか」
2024年3月31日 花巻教会 イースター礼拝説教
聖書箇所:イザヤ書55章1-11節、コリントの信徒への手紙一5章6-8節、ヨハネによる福音書20章1-18節
イースター礼拝
イースターおめでとうございます。本日はイースター礼拝をご一緒におささげしています。イースターはイエス・キリストの復活を記念し、皆でお祝いする日です。
イエスさまの復活を記念するイースター。イースターは、より詳しく言いますと、「イエス・キリストが十字架におかかりになって亡くなられ、その三日目に復活されたことを記念する日」です。イエスさまのご復活は、十字架の死を経た上での復活であるのですね。キリスト教は、このイエスさまのご復活を、最も大切なことの一つとして信じ続けて来ました。
受難節を経て迎えたイースター
2月14日(水)から昨日の3月31日(土)まで、私たちは教会の暦で受難節の中を歩んで来ました。受難節とは、イエスさまのご受難と十字架を心に留めて過ごす時期のことをいいます。
特に、最後の1週間は受難週と呼ばれます。3月28日の木曜日には洗足木曜日礼拝をおささげし、29日の金曜日には受難日祈祷会を行いました。昨日はイエスさまが埋葬され、暗い墓の中に横たわった土曜日でした。イースターは、イエスさまのこのご受難を経たものであるからこそ、私たちにとってまことの光となり、希望となる出来事となっていることを、ご一緒に心に留めたいと思います。
イースターをお祝いする時期が春であるのも、大切な意味があるように思います。この3月は冬がまた戻って来たかのような寒さが続きましたが、ようやく雪も解けて、寒さもやわらいできました。長い冬が終わり、春が来る、この嬉しさは岩手に住む私たちにとっては特別なものです。雪がとけ、植物が芽吹き始める、その嬉しさ。教会の庭でも、ふきのとうがたくさん顔を出し、チューリップがぐんぐん成長し始めています。厳しい冬を経験したからこそ、私たちは春の訪れの喜びをより深く実感することができます。そのように、イエスさまの復活は、ご受難と十字架の死を経たものであるからこそ、私たちの心のその最も深いところに響く出来事となっています。
マグダラのマリア
メッセージの冒頭で、イエスさまが復活したイースターの朝を描いたヨハネによる福音書20章1-18節をお読みしました。イエスさまのお墓に向かった弟子たちは、墓の中は空となり、イエスさまが復活されたことを知らされました。
本日の物語において重要な役割を果たしているのは、マグダラのマリアという人物です。マグダラのマリアは、イエスさまの母マリアとはまた別の人です。このマリアはイエスさまの福音宣教の旅に同行し、イエスさまの十字架の死と埋葬に立ち合い、そして復活されたイエスさまと最初に出会った人物として福音書にその名をとどめています。またそして、イエスさまが復活されたことを最初に弟子たち(使徒たち)に知らせたのも、このマリアでした。よってマグダラのマリアは「使徒への使徒」、あるいは「第一の使徒」とも呼ばれます。
このマグダラのマリアの視点から、改めて、本日の物語を振り返ってみたいと思います。
イースターの朝の物語
週の初めの日――つまり日曜日――の朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアはイエスさまが葬られた墓へ行きました。そして、墓穴をふさいでいた石が取りのけてあるのを見ました(1節)。そこで、シモン・ペトロともう一人の弟子のところへ走って行って、彼らに告げました。《主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちに分かりません》(2節)。
愛するイエスさまのお体が取り去られてしまった――。このときマリアは誰かがイエスさまのご遺体を持ち去ってしまったのだと思っていたのですね。その後、ペトロともう一人の弟子は墓へと走り、マリアの言う通り、墓の中は空で、イエスさまを包んでいた亜麻布だけが置いてあるのを見ました(3-10節)。
弟子たちが帰った後、マリアは再び墓へと向かいました。そして、墓の外に立って、泣いていました。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスさまのご遺体の置いてあったところに、白い衣を着た二人の天使が見えました(11、12節)。天使は言いました、《婦人よ、なぜ泣いているのか》。マリアは《わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません》と答えました(13節)。
マリアがそう言いながら後ろを振り向くと、誰かが立っているのが見えました。復活されたイエス・キリストご自身でした。ただしその瞬間は、マリアはその方がイエスさまだとは分かりませんでした(14節)。イエスさまであるとは気づかず、お墓の庭の管理をする人だと思ったようです。涙で視界がぼやけ、はっきりとイエスさまのお顔が見えなかったのでしょうか。
イエスさまは涙を流すマリアに語りかけられます。《婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか》。後ろに立っているのが園丁だと勘違いしていた彼女は、《あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります》(15節)と訴え、また暗い墓穴の方に視線を戻します。
墓の中にはもうイエスさまはおられないのに、よみがえられたイエスさまがすぐ後ろにおられるのに、マリアはそのことに気づきませんでした。イエスさまだと気が付かないほど、涙で視界がぼやけていたのでしょうか。復活について思いが至らないほど、心の中が悲しみで一杯になっていたのでしょうか。
《婦人よ、なぜ泣いているのか》 ~心の中はいまだ受難節のまま
受難節を経て、私たちはイースターを迎えました。喜びの日を迎えました。一方で、私たちの近くに遠くに、様々な痛み、悲しみ、苦しみがあります。困難な現実、喜びを感じることが難しい現実があります。
1月1日に発生した能登半島地震から、3ヶ月が経とうとしています。いまも多くの人が困難な生活を強いられています。被災された方々の上に神さまの支えがありますよう、引き続き、ご一緒に祈りを合わせてゆきたいと思います。
ロシアとウクライナの戦争、ハマスとイスラエルの戦争もいまだ停戦へと至っていません。一刻も早く停戦へと至りますよう、人々の命と尊厳が守られますよう切に願うものです。
3月22日には、ロシアのモスクワ郊外のコンサート会場で銃乱射事件が発生、140人以上の方々が亡くなるという大変痛ましい事件が起こりました。
私たちが現在置かれている状況は、墓の前で涙を流すマリアと通ずるものがあるのかもしれません。困難の中で途方に暮れ、涙を流す他ない状況。イエスさまはマリアに《婦人よ、なぜ泣いているのか》と語りかけられました。いま近くに遠くに、世界中で多くの人が涙を流さずにはいられない状況の中にいます。
喜びの日であるイースターを迎えたのに、心の中は悲しみでいっぱいになっている。恐れや不安でいっぱいになっている。教会の暦ではイースターを迎えても、心の中はいまだ受難節のままのように感じている方もいらっしゃるのではないでしょうか。
マリアの名を呼んでくださるイエスさま
改めて、物語の続きに心を向けたいと思います。みがえられたイエスさまがすぐ後ろにおられるのに、そのことに気が付かなかったマリア。そのマリアに次に起こったこと、それは、イエスさまがマリアの名前を呼んでくださる、ということでした。
《イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である》(16節)。
名前を呼ばれた瞬間、マリアは後ろに立っているのはイエスさまだと気づきます。マリアはハッと振り返って、「ラボニ(先生)」と叫びます。
愛する人が自分の名前を呼ぶ声というのは、私たちの記憶の最も深いところに大切に刻みつけられているものでありましょう。たとえ涙で視界がぼやけていても、自分を呼ぶその声が、愛するイエスさまの声であることをマリアははっきりと気づいたのです。
マリアははっきりとイエスさまの方へ向き直ります。イエスさまを見つめるマリアのもとへ、朝の光が差し込みます。復活の朝の光が、マリアの全身を包み込んでゆきます。マリアはその目で確かに、復活されたイエスさまのお姿を見たのです。
あなたの名を呼んでくださるイエスさま
お墓の前で、涙を流していたマリア。そのマリアの名前を呼んでくださったイエスさま。そのイースターの朝のように、イエスさまはいま、私たち一人ひとりの名前を呼んでくださっています。私たちに再び立ち上がる力、復活の命の力を与えようとしてくださっていることを本日はご一緒に心に刻みたいと思います。
たとえいまは涙で視界がぼやけているのだとしても。いまは、心の中が悲しみや不安でいっぱいで、イースターの訪れが実感できないのだとしても。よみがえられたイエスさまはいま、私たちと共におられます。涙を流す私たちの傍らで、《なぜ泣いているのか》と語りかけておられます。
イエスさまは私たちの痛み、悲しみ、苦しみをご存知です。イエスさまは私たちの痛みをご自分の痛みとしてくださっている方です。ヨハネ福音書は、愛する者の死を前に涙を流されたイエスさまの姿を証ししています(11章35節)。
私たちと共に涙を流しながら、イエスさまは私たちの名前を呼んでくださっています。あなたの名前を呼んでくださっています。私たちの心の向きを変えるよう、促してくださっています。暗い墓穴の方ではなく、復活されたイエスさまの方へ。死ではなく、復活へ。終わりではなく、はじまりへ――。
いま、復活されたイエスさまの方へ、共に私たちの心を向けたいと思います。