2024年5月19日「聖霊の賜物」
2024年5月19日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:エゼキエル書37章1-14節、使徒言行録2章1-11節、ヨハネによる福音書14章15-27節
ペンテコステ(聖霊降臨日)
本日はご一緒にペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝をおささげしています。ペンテコステは、イエス・キリストが復活して天に昇られた後、弟子たちの上に聖霊が降ったことを記念する日です。聖霊とは、神さまの霊のことです。
「聖霊」と聞くと、皆さんはどのようなイメージを思い浮かべるでしょうか。「鳩」をイメージする人もいらっしゃることでしょう。福音書には、イエスさまが洗礼者ヨハネから洗礼を授けられたとき、聖霊が鳩のように降ってきたことが記されています(マタイによる福音書3章16節)。
また、聖霊を「風」や「火」のイメージで思い浮かべる方もいらっしゃるかもしれません。さきほど朗読していただいた使徒言行録2章1-11節には、弟子たちの上に聖霊が降ったとき、激しい風が吹いてくるような音が聞こえ、《炎のような舌》が一人ひとりの上にとどまった、と記されていました。
このように、聖霊なる神さまは様々なイメージで表されることがあります。そのお働きも多様であることが分かります。
精霊と聖霊
日本に住んでいる私たちにとって間違えやすいのは、「精霊」という言葉で捉えてしまうことですね。精霊は草木に宿る霊や、亡くなった人の魂を表わす言葉です。スクリーンに映しているのは、スタジオジブリの『もののけ姫』に出てくるコダマ(木霊)です(スタジオジブリ公式ホームページ「画像提供」より。https://www.ghibli.jp/works/mononoke/#frame)。とても可愛くて私も大好きですが、こちらのコダマ(木霊)は樹木に宿る精霊の一種です。
対して、教会で礼拝しているのは、神さまの霊を意味する「聖霊」です。「せい」の字の表記が違いますね。
キリスト教は伝統的にこの聖霊を、天の神さま、御子イエス・キリストと共に、信じる対象として大切にし続けてきました。目には見えないけれども、私たちと共にいて、絶えず私たちに働いてくださっているのが聖霊なる神さまです。
聖霊が一人ひとりの上に
先ほど朗読していただいた使徒言行録2章1-11節の場面を改めて思い起こしてみたいと思います。弟子たちに聖霊が降ったとき、《炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった》(3節)が記されていました。《炎のような舌》という不思議なイメージは、聖霊が降ったことのしるしです。
注目したいのは、この不思議な《炎のような舌》が「一人ひとりの上に」とどまったというところです。神さまは、弟子のリーダーであったペトロだけに聖霊をお遣わしになったのではありませんでした。神さまは、その場にいた弟子の全員に、ご自身の霊をお遣わしになったのです。聖霊は私たち一人ひとりに与えられているということを、本日はご一緒に心に留めたいと思います。
《弁護者》なる聖霊
メッセージの冒頭でお読みしましたヨハネによる福音書14章15-27節の中に、次のイエスさまの言葉がありました。《わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。/この方は、真理の霊である》(16、17節)。
また、次の言葉もありました。《しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる》(26節)。
このヨハネによる福音書では、聖霊が《弁護者》と呼ばれています。原語のギリシア語では「パラクレートス」という言葉です。イエスさまがこの世界を去られた後、弟子たちのもとに聖霊をお送りくださることをイエスさまは約束してくださっています。この聖霊がいつも共にいてくださるから、あなたがたは独りではない、とイエスさまはお語りになります(17、18節)。この《弁護者》なる聖霊は、《真理の霊》とも呼ばれています。
ヨハネによる福音書によりますと、この《弁護者》なる聖霊の根本なお働きは、私たちにイエスさまのことを「思い起こさせる」ことです(26節)。イエスさまの言葉を、そのご生涯を、十字架の死と復活を、その愛と真理の教えを、私たちに思い起こさせてくださる。
先ほど、聖霊は私たち一人ひとりに与えられているということを述べました。この《弁護者》なる聖霊は、私たち一人ひとりのもとに来てくださる。そうして、私たちがイエスさまの言葉を思い起こし、その言葉の意味をより深く理解することができるよう導いてくださることを本日はご一緒に受け止めたいと思います。たとえいまは分からないことがたくさんあったとしても、いつか、《弁護者》なる聖霊は私たちを真理へと導いてくださるでしょう。
そして私たちがイエスさまを思い起こすとき、イエスさまご自身も共にいてくださることをヨハネ福音書は証しています。だから、あなたがたは独りではない、とイエスさまは私たちに語りかけておられます。
聖書が語る根本的な真理の一つ ~神さまの目から見て、一人ひとりが、価高く、貴い存在である
聖書が語る根本的な真理の一つ、それは、「神さまの目から見て、一人ひとりが、価高く、貴い存在である」(イザヤ書43章4節)ことです。私たち一人ひとりには、等しく、神さまからの尊厳が与えられている。これが、聖書が語る根本の真理の一つです。
「尊厳」とは、言い換えれば「かけがえのなさ」ということです。私たち一人ひとりは、かけがえのない存在として神さまに創られた。だからこそ大切な存在なのです。聖霊は、私たちがこの真理をより深く理解することができるよう、そして私たちがこの真理に根ざして現実に生きてゆくことができるよう、導いてくださる方です。
「かけがえのなさ」の反対語は、「替わりがきく」でありしょう。私たちの間から神さまの《真理》が見失われてしまったとき、人は替わりがきく存在とされてしまいます。尊厳が軽んじられ、替わりがきく存在にされてしまうのです。
神さまの目から見た人間の尊厳
先週の礼拝メッセージでは、「人は、人間としての尊厳に渇いている」というマザー・テレサの言葉をご紹介しました。私たちは、人間として大切にされること、尊ばれること、そのことに渇いている。それは子どもも大人も同様でありましょう。いま、多くの人が人間の尊厳への渇きを覚えながら生活しています。
私たちの近くに遠くに、人々の生命と尊厳がないがしろにされている状況があります。人が軽んじられ、替わりがきく存在にされてしまっている現状があります。であるからこそ、私たちはいま、神さまの真理に立ち帰る必要があるでしょう。他ならぬ神さまの目から見て、一人ひとりが、価高く貴い存在であるということ。誰一人、軽んじられ、不当に傷つけられてしまってはならないこと。その存在が否定されてはならないこと。
そのためにも、私たち一人ひとりがイエスさまの教えをより良く、より深く理解することができるよう、聖霊のお働きを祈り求めることの大切さを思います。
私たちの内から《生きた水》が湧き出る
そして、この神さまの目から見た人間の尊厳を知ることを通して、私たちの内の渇きもまた癒されてゆきます。イエスさまはそのことを、私たちの内から《生きた水》が湧き出ると表現されています。《渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。/わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる》(7章38、39節)。
私たちの内から湧き出でた泉は、やがて、川となって流れ出るようになるともイエスさまはお語りになっています。私たちの内から溢れ出た水は、いま渇きを覚えている誰かに潤いを与える役割を果たすものとなるかもしれません。
神さまの愛と真理に根ざして
本日はペンテコステ礼拝をご一緒におささげしています。どうか私たちが神さまの愛と真理に根ざし、自分を大切にし、隣り人を大切にしてゆくことができますように。
私たちがイエスさまが教えてくださったように、互いを大切にし、互いに愛し合いながら生きてゆくことができますように、ご一緒に聖霊のお働きを祈り求めたいと思います。