2024年6月2日「御言葉はあなたの近くにあり」

202462日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:申命記6章1725節、ヨハネによる福音書3115節、ローマの信徒への手紙10517

御言葉はあなたの近くにあり

 

 

 

昨日、能登半島地震より5か月を迎えました。災害関連死が認定された30名を合わせ、この度の地震により260人の方々が亡くなっています。石川県の避難者は現在3319人、この内1736人は1次避難所に身を寄せ、1530人はホテルや旅館などへの2次避難を余儀なくされているとのことです参照:日本経済新聞Websitehttps://www.nikkei.com/article/DGXZQOUE012300R00C24A6000000/

いまも深い悲しみの中、困難の中にある方々を覚え、引き続き、ご一緒に祈りを合わせてゆきたいと思います。

 

 

 

《信仰は聞くことにより》

 

 いまお読みしましたローマの信徒への手紙10517節の最後に、《実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです》という言葉がありました17節)。パウロという人が、ローマの教会の信徒に宛てた手紙の一節です。聖書における信仰にとって、「きく」ということがとても大切なことを伝える言葉です。本日はこの「きく」という言葉を巡って、お話をしてみたいと思います。

 

 

 

「聞く」と「聴く」

 

「きく」と表記するとき、私たちは普段、二通りの表記を使っていますね。一つは「聞く」。もう一つは「聴く」(音声としては同じ音ですので、スク―リンのスライドをご覧ください)

 前者の「聞く」は、たとえば、「ある人からこんな話を聞いた」というような時に用います。私たちが音声や情報を受け取る際、一般的に使われるのがこの「聞く」です。

後者の「聴く」は、より限定的な状況において使われます。たとえば、「音楽を聴く」あるいは「大学の講義を聴く」など。私たちは普段、どのようにこの二つの表記を使い分けているでしょうか。

 

 辞書によりますと、前者の「聞く」は音声が自然と耳に入ってくる場合に使う表記であるようです。日常生活で私たちが経験することが多いのはこちらの「聞く」ですね。人との会話をはじめ、私たちは一日の中で、さまざまな音や声を「聞いて」います。

対して、後者「聴く」には、注意深く耳を傾けるという意味が込められています。ただ音が耳に入ってくるというだけではなく、注意深く耳を傾け理解しようという意識的・積極的な姿勢が表されている言葉です。

NHK放送文化研究所のウェブサイトでは《ただ単に「きく」場合は一般に「聞く」を使い、注意深く(身を入れて)、あるいは進んで耳を傾ける場合には「聴く」を使います》と説明がされていましたhttps//www.nhk.or.jp/bunken/summary/kotoba/gimon/151.html。皆さんも普段、自然とそのように両者の表記を使い分けていらっしゃるのではないでしょうか。

 

改めてこの二つの表記の意味の違いを確認してみますと、私たちが日常生活で経験している「きく」は、圧倒的に前者の「聞く」ことであるが分かります。もちろん、「聞く」と表記をしたからといって、私たちが必ずしも注意深く耳を傾けていないことにはならないでしょう。一方で、私たちが普段、多くの言葉を聞き流してしまっていることも事実です。「右から左に聞き流す」と言う言葉もありますね。誰かからの大事な要件、メッセージを心に留めず、聞き流してしまっているのではないかと自らを省みずにはおれません。

 

 

 

神さまの言葉を注意深く「聴く」

 

冒頭で、《実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです》という言葉をご紹介しました。新共同訳聖書では基本的に「きく」は「聞く」で統一されていますのでここでも「聞く」が用いられていますが、意味としては明らかに「聴く」と表記するのがふさわしいものでしょう。信仰は、「聴く」ことによって始まる。キリストの言葉を「聴く」ことによって始まる――。聖書の言葉をただ「聞く」のではなく、「注意深く耳を傾ける」姿勢が重要であることが語られています。

 

 聖書において繰り返し強調されるのは、神さまの言葉を注意深く「聴く」ことです。私たちが自分なりの考えを述べるよりも先に、まず神さまの言葉に耳を傾けること、それが重要であることが語られています。

たとえば旧約聖書の申命記の有名な一節、《聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。/あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい(申命記645節)。ここでは《聞け》、と力強い命令形をもって語られています。もちろん、意味としては「聴け」ですね。神がこれからお語りになることに注意深く耳を傾け、全身全霊で受け止めるよう命じられています。

 

 

 

《聞く耳のある者は聞きなさい》(!?)

 

一方で、聖書には、そのように神さまから命じられながらも、神さまの言葉を「聴く」ことができない人々の姿も率直に記されています。大切な言葉を聞き流してしまう私たちの姿も記されているのですね。注意深く耳を傾けるべき肝心なところで、右から左へ聞き流してしまっていることは、私たちには多々あることでしょう。

 

福音書において、イエス・キリストも聴衆にさまざまな教えを説いた後、印象的な一言を付け加えておられます。《聞く耳のある者は聞きなさい(マルコによる福音書49節など)。どこかユーモアも感じさせる面白い表現ですが、この最後の一言からも、集まってきた人々全員が必ずしもイエスさまの言葉に注意深く耳を傾けていたわけではなかったことが伺われます。イエスさまの話を聞きながらも、心ここにあらず。イエスさまの言葉を右から左へ聞き流してしまっていた人もいたかもしれません。

 

 

 

「心の耳を傾けている」姿勢

 

以上のことからも、聖書が伝えようとしているのは、私たちが「心の耳を傾けている」という姿勢であることが分かります。身体の事情や年齢によって、どうしても私たちの聴力は弱まっていってしまうものです。また、聴覚に障がいがある方もいらっしゃいます。

聴覚障がいの方の中には、両耳が聞こえない「ろう者」の方、中途失聴の方、片耳を失聴している方、また、難聴の方、老人性難聴の方など、さまざまな相違があります。難聴にも軽度から高度まであり、どのような音が聞こえるか、聞こえないかも一人ひとり異なります。いま「聞こえない」「聴こえづらい」ことの不自由さを覚えつつ生活している方もいらっしゃることと思います。私たちもお互いの困りごとを理解し合い、配慮し合ってゆければと思います。

本日の聖書箇所で言われているのは、身体ではなく、心の耳を傾けていることです。神さまの言葉に注意深く、心の耳を澄ませている姿勢が大切であるのだとご一緒に受け止めたいと思います。

 

 

 

「わたしはあなたを愛しています」という一言を

 

 本日は「きく」ことについて少しお話をしました。「聞く」と「聴く」の意味の違い。聖書においては後者の「聴くこと」が大切なこととされているとお話ししました。神さまの言葉に対して注意深く心の耳を傾けている姿勢が大切であることをお話ししました。

 確かに、聖書には難解な言葉がたくさんあります。そのすべてに私たちは注意深く心の耳を傾けることができるかというと、難しいことでもあるでしょう。先週もお話ししましたが、聖書の中には、読んでも意味が分かりづらい言葉がたくさんあります。

 けれども、神さまが聖書全体を通して私たちにお語りになっている根本のメッセージは、決して難しいものではありません。たくさんの勉強や知識が必要とされるものでもありません。その神さまのメッセージとは、突き詰めて言うと、「わたしはあなたを愛しています」という一言です。

私の目に、あなたは価高く貴い。わたしはあなたを愛しています(イザヤ書434節)。この一言を伝えるため、神さまはイエス・キリストを私たちのもとにお送りくださいました。この一言を私たちに伝えるために、イエスさまご自身もその全生涯を費やしてくださいました。そしてその生涯の最後には、私たちのために御自分の命をささげてくださいました。十字架におかかりになりながら、イエス・キリストはそのお姿そのものを言葉として、私たちに神さまの愛を伝えてくださいました。そしていまも伝え続けてくださっています。

 

 

 

《御言葉はあなたの近くにあり》 

 

「わたしはあなたを愛しています」。この神の愛の言葉は、私たちが心の耳を傾ける・傾けないに関わらず、いつも私たちに向けて発されています。私たちが心の耳を傾けるから、神さまは私たちにお語りになられるのではない。私たちが心の耳を傾けようとする前から、神さまは私たちに語り続けてくださっています。愛の言葉で私たちを包んでくださっているのです。

 

本日のパウロの手紙の中に《御言葉はあなたの近くにあり、/あなたの口、あなたの心にある》という旧約聖書からの引用がありました8節。申命記301114節の引用)。神さまの愛の言葉はいつも私たちの近くにあります。私たちの口に、私たちの心の内にあります。けれども、いつの間にか私たちはこの言葉を忘れてしまっている。私たちに向けて語られている神さまの愛の言葉を聞き流してしまっているのではないでしょうか。

 

 

 

「聞く」ことから「聴く」ことへ ~神さまの声をよりはっきりと聴き取ることができるよう

 

 改めて、先ほどのパウロの言葉を見てみたいと思います。《実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです》。

 私たちが信仰を持ち、キリストを信じるから、神さまは私たちに愛を注いてくださるのではありません。私たちがキリストを知る以前から、神さまは私たちを知っていてくださり、かけがえのない存在として重んじてくださっています。神さまの愛の前では、信仰の有無、思想信条、国籍、性別、セクシュアリティ、心身の状態、私たちの経歴や過去も、一切問われていることはありません。そのことで、私たちが判断されたり、差別されたりすることは一切ありません。神さまは私たちをあるがままに重んじてくださっている方です。

 では、信仰とは、私たちにとって何なのでしょうか。それは、私たちの心の耳の状態を「聞く」ことから「聴く」ことへと変えるもの、そして「わたしはあなたを愛しています」という神さまの声をよりはっきりと聴き取ることができるようにするものであると本日はご一緒に受け止めたいと思います。

 

 

 

神さまの声がよりはっきりと聴こえるようになるように

 

 先々週、私たちはペンテコステを迎えました。ペンテコステ(聖霊降臨日)はイエス・キリストが復活され天に挙げられた後、弟子たちのもとに聖霊がくだったことを記念する日です。

私の目に、あなたは価高く貴い。わたしはあなたを愛しています」。この一言を私たちに伝えるために、神さまは弟子たちのもとに聖霊を送って下さいました。この一言をすべての人々に伝えるために、教会が誕生し、聖霊の導きのもと、世界中に広がってゆきました。

 

 

 ここに集った一人ひとりが、神さまの愛の言葉を共に受け止めることができますよう、聖霊に導きを祈り求めたいと思います。またそして、いますでに私たちの間に響いているこの神さまの声が、私たちの働きを通して、私たちの存在を通して、よりはっきりとこの社会において聴こえるようになるように、ご一緒に祈りを合わせてゆきたいと思います。