2024年9月8日「主は羊飼い」
2024年9月8日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:詩編23編1-6節、ヨハネによる福音書10章1-6節、ペトロの手紙一2章11-25節
詩編23編 ~主は羊飼い
先ほど礼拝の中で、旧約聖書の詩編23編を読んでいただきました。詩編の中で最も有名なものであり、多くの方の愛唱聖句(大切にしている聖書の言葉)ともなっている詩編です。皆さんの中にも、この詩編23編を愛唱聖句にしている方がいらっしゃることでしょう。
この詩編23編においては、神さまが羊飼いとして表現されています。私たちはその羊飼いに導かれる羊です。《主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い/魂を生き返らせてくださる》(1-3節)。
羊飼いは日本に住む私たちにはあまりなじみがないものですが、聖書の舞台であるパレスチナにおいてはとても身近な存在でした。羊飼いは、群れをなす羊を守り、養い、導く存在です。羊飼いは一匹一匹の羊に心を配り、ふさわしい時に休息を与え、食物と水を与えます。ちなみに、「牧師(pastor)」という職務の名称は、この羊飼いに由来しています(ラテン語の『羊飼い』に由来)。
2018年に出版された聖書協会共同訳では、この冒頭部は《主は私の羊飼い。私は乏しいことがない。/主は私を緑の野に伏させ/憩いの汀に伴われる》と訳されています。新共同訳が「主は羊飼い」と訳しているところを、「主は私の羊飼い」としています。これはヘブライ語の原文もそのようになっています。神さまは他ならぬこの私の羊飼いである――そのことを心に留めつつ、詩編23編の内容を改めて振り返ってみたいと思います。
《死の陰の谷を行くときも》
続きの3、4節をお読みいたします。《主は御名にふさわしく わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。/あなたがわたしと共にいてくださる。/あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける》。
ここでは、羊飼いなる神さまが私たちを導いてくださる方であることが語られています。羊が道を逸れ迷子にならないよういつも気を配ってくださっている。また、狼などの外敵に襲われないよういつも見張ってくださっている。羊飼いが所持する鞭と杖は、けものを追い払うための道具です。
《死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。/あなたがわたしと共にいてくださる》という一文が印象的ですね。死の陰の谷とは、「暗い谷間」とも訳すことのできる語です。羊飼いと羊の群れは時に、そのような危険な場所を行かねばならないときがあるかもしれない。けれども、その暗い谷間を行くときも、私は災いを恐れないと詩編23編は謳います。なぜなら、羊飼いなる神さまが共にいてくださるからです。ここでは「あなたがわたしと共にいてくださる」と、神さまに「あなた」と直接呼びかけているところも心に残ります。
この詩編23編は、ご葬儀の時に読まれることも多い聖書箇所の一つです。私たちは誰もが、人生の最後に、暗い谷間――死の陰の谷間を歩むことになります。しかし、私たちがこの生涯を終える時も、その後も、羊飼いなる神さまは共にいてくださる。死も、どんなものも、羊飼いなる神さまから私たちを引き離すことはできない。その神さまの愛への信頼をもって、キリスト教の葬儀の際にこの23編が読み上げられます。
《恵みと慈しみはいつもわたしを追う》
5、6節《わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。/わたしのあたまに 香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。/命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。/主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう》。
《恵みと慈しみはいつもわたしを追う》という言葉がありました。「慈しみ」という言葉は、旧約聖書(ヘブライ語聖書)においては、神さまの約束(契約)と関連して使用されることがある言葉です。ここでは、私たちが神さまの約束を信じるのではなく、神さまの約束がいつも私たちを追う、と表現されています。とても印象的な表現ですね。たとえ私たちが神さまの約束を忘れても、神さまは私たちへの約束を忘れない。神さまの恵みと慈しみは私たちを追いかけ、必ずその約束を果たしてくださるのです。
神さまの約束とは何でしょうか。その約束とは、私たちに「永遠の命」が与えられることであると、本日はご一緒に受け止めたいと思います。
永遠の命の約束
先週の礼拝メッセージでは、聖書が語る「永遠の命」についてお話をしました。「死はすべての終わりではない」こと、私たちがこの地上での生涯を終えた後も、「わたし」は神さまの命の中を生き続けること。イエス・キリストに結び合わされた私たちは、永遠の命にも結ばれていることをお話ししました。
永遠の命は、多くの人にとって、経験的に理解しているものというより、約束として信じているものです。永遠の命がどのようなものではあるか、いまだ地上にいる私たちにははっきりとは分かりません。しかし、私たちはその約束を信じています。なぜなら、その約束は、イエス・キリストを通して与えられた約束であるからです。
私たちは時に、「復活」や「永遠の命」への信頼を見失ってしまうことがあります。たとえ私たちが永遠の命の約束を忘れても、神さまはその約束を忘れない。その命の約束はいつも私たちを追いかけ、必ず私たちを永遠の命に結び合わせてくださる。その神さまの約束への信頼をご一緒に新たにしたいと思います。
まことの羊飼いなるイエス・キリスト
「主はわたしの羊飼い、わたしには何も欠けることがない」――。ご一緒に詩編23編を振り返りました。イエス・キリストの命の約束との関わりの中で、詩編23編を受け止めました。新約聖書では、イエス・キリストがまことの羊飼いとして形容されます。《わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている》(ヨハネによる福音書10章14節)。イエス・キリストご自身が、ご自分はまことの羊飼いであり、私たち一人ひとりのことをよく知っていてくださっていることをお語りになっています。またそして、私たちもまことの羊飼いなるイエスさまのことを知っている。私たちはイエスさまの声を知っており、その声を聴き分けることができるのだとお語りになっています。
先ほど礼拝の中で読んでいただいたヨハネによる福音書10章1-6節に、そのことが記されていましたね。ヨハネによる福音書10章3、4節《門番は羊飼いに門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。/自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く》。
羊たちはなぜ、羊飼いであるイエスさまの声を聞き分けることができるのでしょうか。私たちの社会は、様々な声が飛び交っています。人を軽んじる、心無い声も無数に飛び交っています。あるいは、勇ましい言葉や感動的な言葉を巧みに織り交ぜて人々の関心を引こうとする声も飛び交っています。たくさんの声の中から、私たちはなぜ《良い羊飼い》の声を聞き分けることができるのでしょうか。
それは他でもない、その声が、まことの愛から発されている声であるからではないでしょうか。私たちは、自分を重んじ、大切にしてくれている方の声は、はっきりと分かります。たとえ多くの声に紛れているようであっても、はっきりと分かります。そしてその声が私たちに命を与え、力を与えます。
テレビをつけると、様々な指導者・リーダーたちの顔が画面に映し出されます。いったい誰が、私たちにとって「良い」指導者であるのか、私たちは見極めることが求められているでしょう。
《良い羊飼いは羊のために命を捨てる》
ヨハネによる福音書には、《わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる》(10章11節)というイエスさまの言葉もあります。イエスさまは私たちを愛するゆえ、極みまで私たちの存在を重んじてくださるゆえ、その命までも捨ててくださいました。それが、十字架の出来事です。
歴史上、「私のために生命を捨てろ」と人々に命令した指導者はたくさんいたでしょう。自分たちが属する組織や国家のために命をささげることを強要した指導者はたくさんいた(いる)ことでしょう。しかし、イエスさまはその真逆です。イエスさまは「あなたのために生命を捨てる」とおっしゃってくださいました。そうして事実、十字架の上でご自身の命をささげてくださいました。
この神の愛を完全なかたちで実現することができる方は、ただイエスさまお一人のみです。まことの羊飼いはイエス・キリストただお一人のみ。そして私たち一人ひとりは、そのまことの羊飼いに導かれる存在です。
ここで、イエスさまは、「だからあなたも誰かのために生命を捨てよ」とおっしゃっているのではありません。「あなたという存在が決して失われることがないために、私が生命をささげる」とおっしゃってくださっているのです。永遠の命の約束を果たすため、イエスさまは十字架上で「ただ一度きり」の犠牲をささげてくださいました。
ですので、私たちはもはや、生命と尊厳を犠牲にする必要はありません。私たちがなすべきことは、イエスさまのこの大いなる恵みと慈しみを、ただ全身で受け取ることです。
イエスさまの恵みと慈しみはいつもわたしを追う
最後に、もう一つの本日の聖書箇所であるペトロの手紙一のみ言葉をお読みします。このペトロの手紙でも、まことの羊飼いであるイエス・キリストについて語られていました。2章24、25節《(キリストは)十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。/あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです》。
《牧者》と訳されている言葉が「羊飼い」です。あなたがたは迷える羊のようにさまよっていたが、今は羊飼いなるイエス・キリストのもとへ戻ってきたのだと語られています。しかしそれは何か私たちが懸命に追いかけたことによって、イエスさまのもとに戻って来ることができたということではありません。むしろ私たちは自らイエスさまの恵みと慈しみを見失い、道を逸れて、迷子になってしまっていた。イエスさまはその迷い出た羊となった私を追いかけ、探し求めてくださった(マタイによる福音書18章10-14節)。迷い出た私を追いかけて、イエスさまのもとに戻ることができるようにしてくださったのです。
「私について来い」と強要する指導者はたくさんいた(いる)ことでしょう。しかしまことの羊飼いなるイエスさまはご自分から、私たちのもとに来てくださる方。迷子になった私たちを追いかけ、見つけるまで探し求めてくださる方です。
神の目に大切なあなたが決して失われることがないように。イエスさまはこの世界に来てくださいました。人間としてお生まれになってくださいました。あなたという存在が決して失われることなく永遠の命に結ばれるために、十字架におかかりになってくださいました。そして三日目に死よりよみがえり、いつまでも私たちと共にいるようにしてくださいました。
イエスさまの恵みと慈しみは、いつもわたしを追ってくださるのです。イエスさまはいつも、私たちの傍らで、「わたしはここにいる、わたしは永遠の命である」と約束の言葉を語り続けてくださっています。
《命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。/主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう》――。イエスさまの恵みと慈しみにいま、ご一緒に立ち帰りたいと思います。