2021年10月17日「目から涙がぬぐわれるとき」
2021年10月17日 花巻教会 主日礼拝
聖書箇所:ヨハネの黙示録7章9-17節
「目から涙がぬぐわれるとき」
台風19号から2年
先週10月12日、東日本の広範囲に甚大なる被害をもたらした台風19号(令和元年東日本台風)から2年を迎えました。各地で追悼の祈りがささげられたことと思います。台風19号の被害により亡くなられた方は関連死を含め120名以上、10万棟以上の住居に被害が確認されました。特に宮城県と福島県では阿武隈川流域の河川の氾濫により大きな被害がもたらされました。いまも全国で5000人以上の方々が仮住まいの状況であるとのことです。
ご遺族の皆さまの上に、いまも困難の中にいる方々の上に、主の慰めと支えがありますようご一緒にお祈りしたいと思います。
この1年9か月を振り返って
この1ケ月ほど、全国的に新型コロナウイルスの感染は落ち着いている状況にあります。私たちの住む岩手ではこの1週間、9日の1名を除いて、感染者数ゼロが続いています。15日時点の県の公表では、現在入院中の方が1名、宿泊療養中の方が1名であるとのことです。いま療養中の方々の上に主よりの癒しがありますように、また退院・回復された方々のその後の心身の健康が守られますように祈ります。
なぜ急激に感染者数が減少したのか、皆さんも不可思議に思っていらっしゃるのではないでしょうか。専門家の方々も要因として考えられる事柄を幾つか挙げていらっしゃいますが、はっきりとした理由は分からないというのが実際のところであるようです。
一方で、ロシアでは新型コロナの感染者数が過去最多を記録したと報じられていました。15日の1日当たり新規感染者数は3万2000名以上であったとのことです。国や地域によって感染状況に相違があることが分かります。それぞれの国や地域に適した対策を講じることが必要であるでしょう。
感染が落ち着いた状況にあるいま、私たちは改めて私たちの国におけるこの約1年9カ月の新型コロナへの対応を振り返り、より良い、適切な対策を講じてゆくことが求められているのではないでしょうか。感染拡大から1年半以上が経ち、新型コロナウイルスが未知のウイルスではなくなった現在、これまでの対応を検証するための材料もだんだん増えてきたように思います。「この対応は良くなかった」「この対応は妥当ではあった」と判断をすることが徐々に可能になってきています。
新型コロナの世界的な感染拡大が始まった当初は、いわば「緊急事態」として新型コロナへの対応が最優先の事項とされました。しかし、本来「短期集中」的であるべきその対策は短期的なものとはならず、事態は収束に到らぬまま、長期化してゆきました。応急処置的な対応が長期化してゆく中、本来社会において最大限に尊重されねばならないさまざまな事柄が犠牲になってゆきました。
10月14日付の朝日新聞で、2020年度の小中学生の不登校が昨年より8.2パーセント増加の19万6127人で過去最多であったと報じられていました。大変心痛むことに、小中高から報告された児童生徒の自殺者数も415人で最多であったと報じられていました。《コロナ禍による休校など生活環境の変化で、多くの子どもが心身に不調をきたしたことが浮き彫りになった》(朝日新聞、2021年10月14日付、1面)。
新型コロナ対策が最優先され続けてきたことの深刻な影響の一端が、この調査報告にあらわれています。この調査報告を受けても、この1年9カ月のコロナ対策には大きな問題・課題があったと言わざるを得ないのではないでしょうか。「感染防止」という命題の下、本来最大限に尊重されるべきものをないがしろにしてきてしまったのではないかと思わされます。
人間らしい生き方をすることは私たちの基本的な権利
この1年9カ月を通して私たちが改めて確認したことは、新型コロナは50代以上の世代、特に70代以上の高齢の方々にはリスクが高いウイルスである一方で、子どもや若い世代にとってはリスクは少ないウイルスであることです。もちろん、若年層でも深刻な後遺症が残る事例は報告されており、その影響が懸念されることには変わりありません。ただ、子どもや若い世代においては感染してもそのほとんどが無症状または軽症で回復に到ることも事実です。
ある世代の人々にはリスクが高く、ある世代の人々にとっては必ずしもそうではない。世代間でリスクに相違があるこの度の特殊なウイルス。この新型コロナウイルスの「感染防止」の命題の下、私たちの社会は子どもや若者たちに対しても様々な制限を強いてきました。いま振り返ると、私たち大人のために、若い世代の方々に犠牲を強いてきた側面があったのではないかと思わざるを得ません。子どもたち・若者たちの当たり前の日常を奪い、本来与えられるべきかけがえのない経験、遊びや学びの場、その居場所や人間関係を失わせてきました。
この日本という国の感染状況において、これまでの私たち社会の対応は果たして適切であったのか。適切でなかったとしたら、どこを改める必要があるのか。マスメディアの報道の仕方も含め、私たち社会は検証し、考えてゆく必要があるでしょう。
たとえ「緊急事態」であっても、人として大切にしなければならないことの価値判断は揺らいでしまってはならない。いや、「非常時」であるからこそ、人として大切にしなければならないことを堅持しなければならないことを改めて思わされています。緊急時の第一の務めは命を守ることですが、それとともに、人間らしい生活を守ること、人間の尊厳を守ることも忘れてはなりません。命と尊厳とは切っても切り離せないものであり、いついかなる状況においても尊厳ある生を送ること、人間らしい生き方をすることは私たちの基本的かつ根本的な権利です。
ワクチン接種を巡って
モデルナ社のワクチンの接種後、若い世代を中心にごくまれに心臓の炎症(心筋炎や心膜炎)が起こる恐れがあるという心配なニュースも報じられています。そのことを受け、厚生労働省は、10代・20代の男性にはファイザー社の接種を推奨する方向で検討を始めました。ただ、モデルナ製よりも頻度は少ないもののファイザー製でもやはり心臓の炎症が起こるケースがあることを受け、ファイザー製を「推奨」ではなく「選択可」とするよう微調整することとなったようです。
この度初めて使用されることとなったm(メッセンジャー)RNAワクチンの副反応・副作用の危険性については昨年からずっと指摘されていることですが、この度日本でもはじめて公的な対応がなされることとなりました。海外ではモデルナ社のワクチンに対してより厳しい対応をしている国もあります。たとえばスウェーデンでは30歳以下の世代に対して、デンマークでは18歳未満にモデルナ社ワクチンの接種を停止しています。
ワクチン接種を巡っては様々な考え方があり、なかなか難しい問題です。私個人としては、この度のワクチン接種に関しては慎重な立場を取っています。心臓の炎症に限らず、mRNAワクチンの健康への影響の不安を――中長期的な影響を含め――払しょくできないというのがその理由の一つです。もちろん、ワクチン接種自体を否定しているわけではありません。コロナに感染した場合のリスクが高い方は打った方が良い場合もあることと思います。何が「正解」であるのか、いまを生きる私たちにははっきりと断定することはできません。基本的に、それぞれが懸命に考え判断したことを、敬意をもって尊重したいと思っています。
ただ、ワクチンを打っていない人の中には、事情があって打てない方もいます。アレルギーがあるなどして、打てない方も多くいらっしゃることでしょう。ワクチン接種の有無で人を判断したり、分け隔てするようなことがないよう気を付けたいと思います。ワクチン接種を他者に強要したり、接種していない人を差別するようなことはあってはならないことはもちろんのことです。
答えが見えない状況の中で
この1年半、私たちは正解が見えない、答えが見つからない困難な状況の中に直面し続けています。私自身、正解が見えない中で迷い続けています。日々新しい情報にさらされる中で、正解がなかなか見いだせない状況の中で、自問自答し続けているというのが実際のところです。
感染対策の仕方やワクチン接種について、私たちにはそれぞれ自分なりの考えや立場があります。考えや立場の違いはあるにせよ、いまの感染状況が収束へ向かうこと、一人ひとりの命と尊厳が守られることは、私たちの共通の願いです。自分自身と愛する人々の幸せを願って、誰もが日々懸命に考え、行動をしています。「自分が感染しなければ、他の人はどうなっていい」などとは私たちの周りにいる人の誰も思っていないでしょう。
たとえ意見は相違していても、私たちの願いは共通していることを改めて思い起こしたいと思います。感情的に反応し合うのではなく、まずは相手の気持ち――特に不安な気持ちを受け止め、相手の考えや意見を丁寧に聞き合う姿勢が求められています。
またそして、異なる視点から意見を出し合い知恵を出し合ってゆくことで、私たちはこの困難な局面を乗り切る力も与えられてゆくのではないかと思います。答えが見えない状況の中にあって、より良い未来を選び取ってゆくこともまた可能となるのではないかと思っています。
目から涙がぬぐわれるとき
冒頭でヨハネの黙示録7章9-17節をお読みしました。最後の部分に次の言葉がありました。《彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、/太陽も、どのような暑さも、/彼らを襲うことはない。/玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、/命の水の泉へ導き、/神が彼らの目から涙をことごとく/ぬぐわれるからである》(16-17節)。
終わりの日において、小羊なる主イエスが私たちを命の水の泉に導いてくださる、神さまが和私たちの目から涙をことごとくぬぐってくださることを述べている箇所です。
ヨハネ黙示録の著者は《もはや飢えることも渇くこともなく……》と語ります。ここで前提となっているのは、いまは私たちの内外には飢え渇きがあることです。苦しみや悩み、困難が私たちを取り囲んでいることです。私たちが涙を流し続けていることです。
しかしいつの日か、主が私たちの内外から飢え渇きを取り除き、私たちを命の泉に導いて下さる。私たちの目から涙をぬぐってくださる、その希望を聖書は私たちに伝えています。
主は私たちと共に涙を流しながら
またそして聖書が私たちに証しているのは、神さまはどこか遠く離れたところから私たちを見守っておられるのではないということです。神さまは私たちのすぐ傍らにいてくださっています。私たちのすぐ近くで、共に喜び、共に涙を流しながら、私たちの目から涙をぬぐおうとしてくださっているのです。
ヨハネによる福音書には、愛する者の死に立ち会った主イエスが涙を流される様子が記されています。《マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。/イエスは彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、/言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、ご覧ください」と言った。/イエスは涙を流された》(ヨハネによる福音書11章32-35節)。
愛する友の死を前に、マリアや大勢の人の悲しみを前に、主イエスも共に涙を流してくださった。私たちと同じように悲しみ、苦しみ、涙を流してくださることを通して、主は共にいようとしてくださっているのだとご一緒に受けとめたいと思います。共に涙を流しながら、主は私たちのこの目から涙をぬぐおうとしてくださっています。
私たちの目の前には様々な困難な状況があります。なかなか答えの見えない状況があります。日々悩みつつ、時に涙を流しつつ、それぞれが懸命に生活をしています。そのような私たちの傍らで、主もまた共に涙を流しつつ、一歩一歩、私たちと歩んでくださっていることを心に留めたいと思います。たとえまだ答えが見えなくても、はっきりとした光は見えなくても、私たちはもはや絶望をすることはありません。どんなときも、主が共にいてくださるからです。
主がいつも共にいてくださることを支えとし、そしていつの日か私たちの目から涙がぬぐわれるときが来ることを希望とし、これからも一歩一歩、ご一緒に歩んでゆきたいと願います。