2021年5月30日「イエス・キリストによって神の子に」

2021530日 花巻教会 主日礼拝

聖書箇所:エフェソの信徒への手紙1314

イエス・キリストによって神の子に

 

  

聖霊降臨節第2主日礼拝・三位一体主日

 

先週はご一緒にペンテコステ礼拝をおささげしました。ペンテコステは「聖霊降臨日」とも呼ばれ、イエス・キリストが復活し天に上げられた後、弟子たちの上に聖霊が降ったことを記念する日です。本日は聖霊降臨節第2主日礼拝をおささげしています。

 

キリスト教は伝統的にこの聖霊を、天の神さま、イエス・キリストと共に信仰の対象としてきました。神さまは、父・子・聖霊の三つなるお方であると同時に、一つなるお方である――この考え方を、少し難しい言葉で「三位一体(さんみいったい)」と言います。

本日の聖霊降臨節第2主日礼拝は、教会の暦で三位一体主日にあたります。三位一体を記念し、礼拝をささげる日です。

 

 

 

三位一体の教理 ~《三つにいまして ひとりなる》(!?)

 

 先ほど、ご一緒に讃美歌351番『聖なる聖なる』を賛美しました。『聖なる聖なる』は、三位一体を主題とした代表的な賛美歌の一つです。1節に、《三つにいまして ひとりなる》との言葉がありましたね。神さまは「父なる神、子なるキリスト、聖霊」の三つに区別されると同時に、ただ一人のお方であると謳われています。三位一体なる神を賛美する曲として世界中で歌い継がれている曲です。

 

 一方で、三位一体の教理はキリスト教の教えの中でも最も理解しづらいものの一つでもあるでしょう。聖書が語る神には、父なる神、子なるキリスト、聖霊の区別がある。この三つのお方は等しく神であり、それぞれ独自性をもったお方である。けれども、神さまは複数おられるわけではない。異なってはいるが、分離しているわけではない。主なる神はただお一人である。そう、《三つにいまして ひとりなる》――うーん、分かったようで、分からない……(!?)。クリスチャンの中でもそう感じている方は実はたくさんいらっしゃるのではないでしょうか。

 

 論理的に理解しようとすると、とても難しいのが三位一体です。だからこそ、私たち人間が理解し尽くせない事柄として、信仰の対象となってきたと言えるでしょう。他の宗教を信じている人々から見ると、最も不思議に思うキリスト教の教えの一つが三位一体であるかもしれません。イスラム教徒の方からするとキリスト教はもはや一神教ではなく、多神教になってしまっているように見えるとのことです。そのような疑問が生じることも、理解できることです。

 

 

 

聖書の言葉を種子として ~長い時間をかけて育まれた教理

 

 三位一体という言葉が使われ始めたのは、2世紀の終わり頃からであると考えられています。聖書本文の中に三位一体という言葉が出てくるわけではないのですね。新約聖書が記されてから後の時代に、長い時間をかけて育まれていったのが三位一体の教理です。

 

ただし、三位一体という言葉は出てきていなくても、その根拠となる言葉は新約聖書の中に含まれています。たとえば、パウロの手紙の中には《主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように(コリントの信徒への手紙二1313節)との挨拶があります。礼拝の最後の祝祷の言葉にもなっているものですね。この一文からも、新約聖書の中にすでに三位一体の教理が育まれてゆく種子のようなものが存在していることを見て取れます。

 

誕生して間もないキリスト教の固有性(=かけがえのなさ)を懸命に守り育もうとする中で、核になるものとして浮上していったのが三位一体の教えであると言えるでしょう。当時、キリスト教の固有性を形作る一番の大枠を提供していたのが三位一体の教理であったのですね。

 

頭で考えると理解しづらい三位一体ですが、先人たちが懸命に守り育んでくれた最も大切な教理の一つとして、いまを生きる私たちも敬意をもって受け止めることが必要であるでしょう。

 

 

 

多様な信仰のかたち

 

と同時に、いまを生きる私たちには、伝統的なキリスト教信仰とは異なる信仰理解をもっている人々を否定しない姿勢が求められています。

 

現代のキリスト教会の中には、三位一体の信仰を否定している教派もあります(たとえばユニテリアン教会)。または、あまり重視しない教派もあります。では、その人たちがキリスト教徒ではないかというと、決してそうではありません。三位一体を信じていなくても、同じクリスチャンであることに変わりはありません。それは、多面的なイエス・キリストのどの側面を特に重視しているかの違いでしかありません。

 

三位一体の信仰を否定している教派の方々がどこの側面を重視しているかというと、「生前のイエス」の側面です。一人の人間として、ナザレのイエスがどのように生きてゆかれたのか――その側面を特に重視する信仰を持っている場合、伝統的なキリスト教の信仰理解が背後に退く場合があります。これは、神の子キリストの側面を特に重視するか、人の子(人間)イエスの側面を特に重視するかの相違が関係しています。

 

ここにいらっしゃる皆さんの中でも、三位一体の教理が正直に言うとまだあまりピンと来ない、という方もいらっしゃるかもしれません。伝統的な教理の中に、どうしても実感ができない教えが含まれていることもあるかもしれません。でも、安心してください。それでいいのです。イエス・キリストが非常に多様な側面を持っていらっしゃるように、私たちそれぞれの信仰のかたちもまた多様であってよいのです。むしろその違いこそが大切なものであるのです。

私たちが気を付けねばならないのはむしろ、自分とは異なる思想信条をもつ他者を拒絶したり、攻撃したりしてしまうことなのではないでしょうか。

 

 

 

三位一体を否定すると迫害された時代

 

かつては三位一体の教理を否定するだけで、激しく迫害された時代もありました。たとえば宗教改革の時代1553年)、スイスのジュネーヴにて、三位一体を否定したミカエル・セルヴェトゥスという人が、火あぶりの刑に処せられ殺されるという痛ましい事件も起こっています。伝統的な三位一体の教理とは違う思想信条を表明しただけで、異端とされ、激しく迫害された時代もあったのですね。そしてセルヴェトゥスが火刑に処せられるに到る流れを作ったのが――間接的にではありますが――、ルターと共に代表的な宗教改革者に並び称されるジャン・カルヴァンでした。

 

その後、ジュネーヴ市当局とカルヴァンがセルヴェトゥスを火刑に処したことを批判する文書『異端は迫害さるべきか』1554年)が人文主義学者のセバスチャン・カステリョによって出版されるなどし、信教の自由と宗教的寛容を求める声がヨーロッパにおいて少しずつ高まってゆくこととなります。

 

現在、ジュネーヴのセルヴェトゥスが処刑された場所には、セルヴェトゥス事件が過ちだったことを告白する贖罪の碑文が立てられています1903年建立)

 

 

 

カルヴァンの厳しさの根底にあったもの

 

私は20代前半の頃、セルヴェトゥス事件のことを知りました。共感を覚えたのは信教の自由と宗教的寛容を求めたヒューマニストのセバスチャン・カステリョの考え方でした。反対に、まったく理解ができなかったのが、偉大なる神学者カルヴァンの考え方でした。いくら三位一体がキリスト教において重要な教理であっても、その教理を否定する人の命を奪うことまで容認するその考え方が理解できなかったのです。そこまでする、カルヴァンたちの「厳しさ」とは何なのだろう、と思いました。

 

その後、牧師になるために神学校に入りましたが、私はあえてそのカルヴァンと関係が深い神学校を選びました。自分には理解できない考えであるからこそ、理解したい、理解する必要があると思ったのです。

 

 そうして神学校に入って懸命に4年間の学びをする中で、自分なりにではありますが、カルヴァンの厳しさの根底にあったのは何であるか理解することができました。

 

私が理解したことは、カルヴァンの厳しさは、「徹底して神に栄光を帰そうとする」ことから来る厳しさであった、ということです。心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして主なる神を愛そうとするがゆえの厳しさです。そうして、その厳しさを堅持することによって、プロテスタントの改革運動が推し進められ、また、多くのプロテスタント諸教派が生まれ出ることができました。カルヴァン本人はおそらく意識していなかったでしょうが、徹底して神に栄光を帰そうとするその姿勢が、「生まれ出ようとするものを守るための厳しさ」につながったのだと私は受け止めています。ここでの生まれ出ようとするものとは、プロテスタントの諸教派です。生まれ出ようとしていたプロテスタントの諸教派は、カルヴァンら先人たちの毅然とした姿勢があったゆえに、この地上に産声を上げることができたのです。

 

 それらの多大なる功績を受け止めつつ、と同時に、カルヴァンたちが犯した罪責も私たちははっきりと受け止める必要があります。自分と異なる信仰理解をもつ相手を「異端」とみなし、敵対しあい、時には相手の生命と尊厳を奪った過ちです。その不寛容で、非人間的な姿勢は決して正当化することはできません。

この不寛容さと関係しているのは、自分たちの信仰だけが「正しい」とする姿勢です。ここには、自己を相対化する姿勢がまったく欠如しています。自分たちがキリストの体の一部分であることを忘れ、全体であると誤って認識しまっていたところに当時の宗教改革者たちの過ちがあり、また限界があります。

 

 

 

神への愛と隣人への愛のバランスの崩れ

 

徹底して神への愛に生きようとした宗教改革者カルヴァンたち。その神への愛は、確かに、信実なるものでした。一方で、神への愛を徹底するあまりに隣人への愛が背後に退いてしまっていた部分があったのではないかと思わざるを得ません。

聖書の教えにおいて本来、神への愛と隣人への愛は切り離すことはできず、順列も付けることはできないものです。しかし、当時の宗教改革者たちの間で、そのバランスに崩れが生じていた。「ただ神に栄光あれ!」――と神に栄光を帰することを重視するあまり、人間の尊厳への感受が希薄になってしまっていたのです。そしてその課題はいまも私たちプロテスタント教会に根強く影響を及ぼし続けているように思います。

 

いまを生きる私たちは、先人たちの営みに敬意を払いつつ、より良い在り方を模索してゆくことが求められています。より良い在り方とは、神への愛と隣人への愛がもはや切り離されるのではない在り方です。神に栄光を帰すことと、人に尊厳を確保することは本来、一つのことであるはずです。私たち日本のプロテスタント教会はいま改めて、人間の尊厳への感受を取り戻し、隣人への愛をその神学の土台として構築し直してゆくことが課題として求められているのではないでしょうか。

 

 

 

すべては、愛ゆえに

 

本日は三位一体主日ということで、三位一体の教理ついてお話しました。三位一体の教理を受け止めるにあたって改めて最後に心に留めたいのは、父・子・聖霊なる神さまを一つに結びつけているのは愛であるということです。三位一体の神さまの内にあるものは、愛の絆。そしてその愛を、神さまは私たち一人ひとりに注いでくださっていることを心に留めたいと思います。

 

本日の聖書箇所に、次の言葉がありました。エフェソの信徒への手紙145節《天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。/イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです》。

 

天地創造の前から、神さまは私たちを愛して下さっている。そしてその愛ゆえ、イエス・キリストを私たちのもとにお送りくださった。そうして神の子としてくださった。私たちがそのことを理解するため、聖霊をお送りくださっている。この《三つにいまして ひとりなる》神さまは愛なる神であり、その愛ゆえに、いまも私たちに働き続けて下さっているのです。すべては、愛ゆえのことであるのです。

 

 

この大いなる愛を受けているものとして、隣人を愛し、神さまを愛する道を共に祈り求めてゆきたいと思います。