2021年11月28日「わたしの正義は近い」

20211128日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:マルコによる福音書132137節、テサロニケの信徒への手紙一5111節、イザヤ書51411

わたしの正義は近い

 

 

アドベント

 

 本日から、教会の暦で「アドベント」(待降節)に入ります。アドベントは、ラテン語の「アドベントゥス」に由来し、「到来」という意味です。イエス・キリストの到来=誕生を待ち望み、そのための準備をする期間がアドベントです。アドベントは本日から1224日まで続きます。

 

 アドベントを迎えるにあたって、教会ではリースを飾ったり建物や木に電飾を取り付けたりする慣習があります。花巻教会でも昨日、有志の皆さんがリースづくりと飾り付けしてくださいました。皆さんも今朝、教会に来た際、庭のモミの木が綺麗に飾られ、クリスマスツリーになっているのに気づかれたことと思います。Nさんが脚立を使って飾り付けをしてくださいました。また玄関に大きなリースが飾られていることに気がつかれたことと思います。玄関のリースとこの講壇の前に飾っているリースも、昨日、教会の有志の皆さんが作ってくださったものです。

 

 講壇の前のこのリースはアドベントクランツと呼ばれます。クランツはドイツ語で「輪」を意味する言葉です。この輪はイエス・キリストの頭に被せられる「冠」を表しているという説があります。イエス・キリストが「まことの王」であることの象徴としての冠です。また、冬の間も葉を落とさない常緑樹で編まれた「輪」であることから、イエス・キリストが「永遠の命」であることの象徴であるとも言われます。花巻教会では毎年、教会墓地にあるモミの木とヒバの木の枝葉をリースの材料として用いています。

 

アドベントクランツの特徴は、ろうそくが立てられている点です。毎週1本ずつ、このろうそくに火をともしてゆきます。クリスマスには、4本のろうそくすべてに火がともされることになります。毎週一本ずつろうそくに火をともってゆく様子を通して、クリスマスがだんだんと近づいているということを実感することができますね。

これらろうそくの光は、イエス・キリストの「光」を指し示しています。聖書では、イエス・キリストは「世の光」であると言われます。《その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである(ヨハネによる福音書19節)。アドベントのこの時期、私たちは自分の心を顧みつつ、このまことの光の到来を待ち望む想いを新たにします。

 

 

 

今年の教会の歩みを振り返って

 

 私たち花巻教会はこの2021年度はコロサイの信徒への手紙314節を年間主題聖句として歩んでいます。《これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです》。愛こそが、すべてを結び、完成に導くきずな(帯)であることを語る御言葉です。今年度は聖書が語る愛について、改めてご一緒に考えてゆきたいと思い、この御言葉を選んでいます。

 

 私たちは今年、2名の教会員の方を神さまのもとにお送りしました。73日、H・Tさんが天に召されました。99歳でした。75日に当教会にてご葬儀を執り行い、今月の14日に教会墓地にて納骨式を執り行いました。

 今月11月、F・Nさんが天に召されました。87歳でした。1114日に当教会にてご葬儀を執り行いました。H・Tさん、F・Nさんのご遺族の皆さまの上に、主の慰めとお支えがありますようお祈りしております。

 

愛する方々を天にお送りした悲しみの中で、私たちは今年度、3名の方が受洗するという喜びも与えられました。

725日の礼拝ではO・Kさんの洗礼式を執り行いました。822日の礼拝ではT・Nさんの洗礼式を執り行いました。912日の礼拝ではS・Hさんの洗礼式を執り行いました。洗礼を受けられたOさん、Tさん、Sさんの上に神さまの祝福が豊かにありますように、またこれからの新しい歩みの上に主の導きがありますようにお祈りしています。

 

この1年の教会の歩みを振り返り、感染対策をしつつ会堂での礼拝を続けることができたことも感謝でした。今月の第1週には久しぶりに聖餐式を執り行うことができました。この2か月ほど、全国的に感染者数が大幅に減少する状態が続いています。このまま状況が収束へと至ることを切に願うものです。

 

 

 

尊厳ある生を送ることと隣人愛の精神を失わないこと

 

一方で、ヨーロッパでは感染が再び拡大していることが報道されています。南アフリカで新たな変異株(オミクロン株と命名)が出現したとの情報もあります。どうぞ療養中の方々の上に主の癒しがありますように、一人ひとりの健康と生活とが守られますよう祈ります。

また、たとえ日本においても今後新しい感染の波が来るとしても、過度に不安になることなく、心落ち着けて、目の前に状況に対処してゆきたいと思います。

 

この2年近くのコロナ禍を経験し、私が思わされていることは、非常時(緊急事態)だからこそ、尊厳についての感受を失わないことが大切であることです。イエス・キリストが伝えてくださっている愛の教えにしっかりと立とうとすることが大切であることです。切迫した状況にあるとき、私たちはつい尊厳についての感受を見失ってしまうものですが、困難の中にあっても、いや、困難の中にあるからこそ、尊厳ある生を送ることと隣人愛の精神を失わないことの大切さを改めて思わされています。

これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです》――引き続き、この聖書が語る愛の教えを心に留め、ご一緒に歩んでゆきたいと思います。

 

 

 

《目を覚ましていなさい》 ~イエス・キリストの到来に対して

 

 礼拝の中で、マルコによる福音書132137節を読んでいただきました。その中に、《目を覚ましていなさい》という一節がありました。1332節《その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。/気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである》。

ここでの《目を覚ましていなさい》は、眠らずにずっと起きている意味ではなく、「心の目を覚ましている」ことを示す言葉です。何に対して、心の目を覚ましているのか。それは、イエス・キリストの到来に対してです。イエス・キリストの到来が近いいま、心の目をぱっちりと覚まして、主を迎え入れる準備をしなければならないとの意味合いを込めて、アドベントの第1週によく読まれることがある御言葉です。

 

 

 

《目を覚ましていなさい》 ~痛みに対して

 

 年末になり、この2021年も締めくくりを迎えようとしています。皆さんもお忙しく過ごしていらっしゃることと思います。アドベントを迎えるにあたって、教会は飾り付けなどの準備をするということを申しました。その準備には、私たちが自分の心を整えること、そうしてイエス・キリストを迎え入れる準備をしてゆくことも含まれています。年末で慌ただしい中ではありますが、心を静かにしてご一緒に自らの心のありようを見つめ直してみる時を持ちたいと思います。そしてそのことが、「心の目を覚ましている」ことにもつながってゆくのではないでしょうか。余裕のない日々の中で、気が付くと心の中がまどろみの中に陥ってしまう私たちです。

 

 では、忙しい生活の中で、私たちの心のどの部分がまどろみに陥ってしまうのでしょうか。その一つに、「痛みを感じとる心」があるのではないかと思います。他者の痛みを感じとる心、また自らの痛みを感じとる心です。余裕のない日々の中で、この心が見失われてしまうこと(=まどろみに陥ってしまうこと)がしばしばあるように思います。

 目の前の人が辛い思いをしているのに、気が付かずにそのまま通り過ぎてしまう。あるいは、自分自身が辛い思いをしているのに、その想いを自分で受け止めることをせず、見過ごしてしまう。痛みを痛みとして感じとる心がまどろみ眠り込んでしまっているからです。このまどろみが、私たちの内外に、光とは正反対の「暗さ」をつくりだしてゆきます。

 

 

 

私たちの苦しみ ~痛みが「なかったこと」にされること

 

私たちの近くに、遠くに、さまざまな痛みがあふれています。顧みられることなく、見過ごされている多くの痛みがあります。そのことが、私たちの社会のある種の「暗さ」をつくりだしているといってよいでしょう。

 

痛みを「なかったこと」にされてしまうこと、それは私たちにとって最も大きな苦しみの一つなのではないでしょうか。私たちはそれぞれ、自分に固有の痛みを抱えながら生きています。もしその痛みが周囲からあたかも存在しないかのようにされてしまうとしたら。それは私たちにとって大変な苦しみです。

私たちの社会には、時に、意図的に他者の痛みをなかったことにしようとする悪しき力が働くことがあります。そのような不正義が、悲しむべきことに、いまの私たちの社会では至るところに存在しているというのが現状のように思います。

 

気をつけて、目を覚ましていなさい》――。このイエス・キリストの言葉を、本日「痛みに対して目を覚ましている」ことを示す言葉としても受け止めてみたいと思います。痛みに対して目を覚ましていることが、主の到来に対して目を覚ましていることとつながっていると思うからです。

 

 

 

《わたしの正義は近い》

 

聖書が私たちに伝えていること、それは、神さまは私たちの痛みを決して見過ごしにはなさらない方であることです。私たちの痛み、苦しみを決して「なかったこと」にはなさらない方であるということです。この神さまの正義への信頼が、聖書全体を貫いています。

 

冒頭で、旧約聖書のイザヤ書51411節をお読みいたしました。神さまのその正義が、まもなくこの世界に到来することを告げる預言の言葉です。私たちキリスト教会は伝統的に、このイザヤの預言の言葉をイエス・キリストの到来を指し示すものとして受け止めて来ました。

改めて45節をお読みいたします。わたしの民よ、心してわたしに聞け。わたしの国よ、わたしに耳を向けよ。教えはわたしのもとから出る。わたしは瞬く間に/わたしの裁きをすべての人の光として輝かす。/わたしの正義は近く、わたしの救いは現れ/わたしの腕は諸国の民を裁く。島々はわたしに望みをおき/わたしの腕を待ち望む》。

神さまはここでイザヤの口を通して、「わたしの正義は近い」とお語りになっています。神さまの正義は近い――まもなく来られるイエス・キリストを通して、神さまの正義が示される。御子イエス・キリストを通して、神さまの正義とその光がこの世界に照り輝くことが予告されています。

 

 

 

御子は来られる ~あなたの痛みを光で照らすために

 

 その光は《すべての人の光として》輝く光です。《わたしは瞬く間に/わたしの裁きをすべての人の光として輝かす4節)。一部の選ばれた人々のためだけの光ではなく、一人ひとりを照らす光として、主イエスはわたしたちのもとに来られます。

 他でもない、あなたの痛みを光で照らすために、御子は来られます。あなたの痛みを「なかったこと」にしないために。あなたの痛みを受け止め、そして、共に癒してゆくために。

 

 あなたのために、暗闇の中に輝く光として、主はここに来られます。イザヤは11節でその喜びについてこう語ります。《主に贖われた人々は帰って来て/喜びの歌をうたいながらシオンに入る。頭にとこしえの喜びをいただき/喜びと楽しみを得/嘆きと悲しみは消え去る》。主によって自由にされた人々は帰って来て、喜びの歌を歌いながら聖なる都に入るのだとイザヤは語ります。そこにはあるのは、喜びと楽しみです。嘆きと悲しみは過去のものとして、背後に退いてゆきます。

 

 

 私たちは本日から、教会の暦でアドベントを迎えます。アドベントのこの時、神さまが私たちの痛みを受け止めてくださるように、私たちも互いの痛みを受け止め合ってゆくことができますように。心にともし火をともし、主の到来に対して目を覚ましていることができますようにと願います。