2021年9月26日「キリストに結ばれた者として」

2021926日 花巻教会 主日礼拝

聖書箇所:テサロニケの信徒への手紙二3613

キリストに結ばれた者として

 

 

感染者数が全国的に減少傾向

 

この2週間ほど、新型コロナの感染者数が全国的に大幅に減少の傾向にあります。私たちの生活する岩手では感染者数は一昨日はゼロ、昨日は1人でした。今月末をもって、すべての地域で緊急事態宣言とまん延防止等重点措置も解除される見通しです。感染者数が減少し、皆さんも久しぶりに少しホッとした気持ちを取り戻していらっしゃるのではないでしょうか。

ただ、懸念されるのは次の第6波がどうなるかということです。このまま少しずつでも収束へ向かってゆくことを願うものですが、感染対策に関する最新の情報を収集しつつ、次の第6波に備え、出来る範囲で感染防止に努めてゆきたいと思います。

療養中の方々、いま困難の中にある方々の上に主の癒しと支えがありますよう祈ります。

 

 

 

「働かざる者食うべからず」……?

 

いまご一緒にテサロニケの信徒への手紙二3613節をお読みしました。テサロニケの信徒への手紙二は伝統的に使徒パウロが記したとされてきた手紙です。その中に、《働きたくない者は、食べてはならない》という言葉がありました。10節《実際、あなたがたのもとにいたとき、わたしたちは、「働きたくない者は、食べてはならない」と命じていました》。「働かざる者食うべからず」の表現で知られる一節です。

 

働きたくない者は、食べてはならない》(働かざる者食うべからず)。生活の糧を得る労働の大切さを説くこの言葉は、キリスト教の労働の捉え方に少なからぬ影響を与えてきたものです。ただ、現代に生きる私たちにとっては受け止め方が難しい言葉の一つでもあります。私たちの社会には、様々な事情によって働いていない・働くことができない方々がいます。仕事をしていない人々が生活の糧に与る資格がないかと言うと、もちろんそんなことはありません。この言葉が言わんとするところを理解するためには、文脈や当時の時代状況を踏まえる必要があるでしょう。文脈から切り離して用いることに注意が必要な聖書の言葉の一つであると思います。

 

まず踏まえておきたいのは、ここでの《働きたくない者》は何らかの事情によって働くことができていない人々のことを指しているのではないことです。「労働をする意志を持たない人」のことを言っていると受け止めることができるでしょう。

しかしそれでも問題は残ります。働く意志を持たない人は日々の糧に与るに資格がないかと言うと、そうではありません。働いているか・いないか、働く意志があるか・ないかに関わらず、生きるに必要な衣食住が確保されていることは、人として当然の権利です。このことは社会福祉においても前提となっている事柄ですね。必要な支援を受けること、人間らしい生活を送ることは、すべての人に等しく与えられた権利です(日本国憲法第25条参照。《すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する》)

 

もちろん、もともとの手紙の文脈においてはそのようなことまで念頭に置いて語られているわけではありません。手紙の著者パウロは(本日の説教では手紙の著者がパウロであるというかたちで進めています)何らかの理由によって、「労働する意志を持たない人々」に対して注意を喚起しているのだと受け止めることができます。

 

 

 

テントづくり職人としてのパウロ

 

 ここには、パウロ自身の労働についての考え方が関係しています。パウロは教会の指導者として大きな働きをした人ですが、同時に、普段は職人として働いていた人でもあります。パウロが従事していた仕事は天幕(テント)づくりでした。パウロはテント(皮製のテントです)を製作して生計を立てている職人さんでもあったのですね。

 当時、教会の指導者たちの多くは教会のメンバーの支援によって生活をしていました。説教や指導をすることで報酬を得ることもあったようですが、いずれにせよ他の仕事は持たず、福音の宣教に専念していたのです。対して、パウロは他の指導者たちとはまた違った考えを持っていました。教会のメンバーに負担をかけないよう自分の生活は自分で支えるという信念を持っていたようなのです。現代の用語を用いれば、パウロは自分の生活についてはあくまで「自助」の姿勢に徹していたと言えるでしょう。

 

テントづくり職人としてのパウロに焦点を当てた『天幕づくりパウロ その伝道の社会的考察』というユニークな著作があります(R・F・ホック著、笠原義久訳、日本基督教団出版局、1990年)。この本の中で、パウロがいかに日々の時間の多くを仕事に費やしたか記している箇所がありますのでご紹介したいと思います。

 

《パウロ自身の言明によれば、彼はテサロニケでは、また多分その他のところでも「夜となく昼となく」働いたのである(第一テサロニケ二・九)。これらの事実は、パウロが時間のいかに多くを仕事に費やしたかを、我々に想起させるものである。「夜となく昼となく」…という表現は、…「夜や昼の適当な時に」という意味である。この表現は、パウロが日の出前から働き始め日中ほとんど働き続けた、ということを示唆している》5253頁)

 

ここでも語られているように、パウロは日々の生活の多くの時間を働くことに割いていました。その上で、イエス・キリストの福音を人々に伝える活動をしていたのですね。何とか自足できるくらいの収入はあったようですが、時に経済的に困窮することもあったようです。先に紹介した本の中では、新約聖書に収録されているパウロの手紙の中には、一人の職人としての生活の苦労を示唆する言葉が含まれていることが指摘されています。「飢えと渇き」「寒さ」「裸」「疲れ」などの文言です59頁)

 

働きたくない者は、食べてはならない》(働かざる者食うべからず)は、そのように日々懸命に働きつつ伝道をしていたパウロならではの言葉であると受け止めることができるでしょう。パウロの日々の実感が込められた言葉、パウロの信念が込められた言葉でもあるのです。

 

 

 

十字架のキリストと結ばれて

 

パウロが「自助」に徹したのは、教会の人々に負担をかけたくないとの配慮とともに、勤勉に働くことでキリスト者としての模範を示したいとの意図もあったでしょう。またそして、その労苦がイエス・キリストのお苦しみに倣うもの、つらなるものとなるという感覚もあったのではないでしょうか。

 

職人として生きるパウロが経験していた労苦は、その仕事内容の大変さだけではなかったようです。当時の社会において、職人の仕事は偏見のまなざしで見られていました。たとえばテントづくり職人であるパウロは皮を細工する仕事をしていたわけですが、それは《奴隷のように卑しい職業だと見做されていた》ようなのです60頁)。『天幕づくりパウロ』の著者は、パウロが一部の人々から軽んじられ、侮辱されたのは、彼の職業がその一因としてあったのではないかと述べています62頁)パウロはその職業ゆえに、時に周囲から差別的な扱いを受け、精神的に激しい苦痛を被っていたことが伺われます。

パウロはもしかしたら、いま自分が経験しているそれらの苦難に、イエス・キリストの苦難と十字架を重ね合わせていたのかもしれません。苦難を通して、十字架におかかりになったキリストが自分と確かに結びついて下さっていること(テサロニケの信徒への手紙二312節)を実感していたのかもしれません。イエス・キリストこそ、自らを低くし、人々に「仕える」存在となってくださった方であるからです。時に人々から差別や攻撃を受けながらも、すべての人の「僕(奴隷)」となってくださった方であるからです。そしてすべてをささげた末、最後にはその命をもささげてくださった方であるからです(参照:マルコによる福音書104345節)

 

 

 

現代を生きる私たちが考えるべきこと ~《自立とは「依存先を増やすこと」》

 

以上、《働きたくない者は、食べてはならない》(働かざる者食うべからず)の言葉の背景にある事柄について述べてきました。生活の糧を得るためのパウロの懸命なる努力、そしてパウロの主イエスへの愛と信仰についても想いを馳せました。パウロの懸命なる努力、そのキリストへの愛と信仰を敬意を持って受け止めつつ、労働についての考え方を巡っては、現代を生きる私たちはその不十分である点を補ってゆく必要があるでしょう。

 

パウロはその職業ゆえに時に周囲から差別的な扱いを受けたことを述べましたが、まず第一に言えることは、職業によって人が差別されることは決してあってはならないということです。しかし残念ながら、現代の私たちの社会においても、学歴や職業における差別は存在しています。労働の尊厳を回復することは、いまの私たちの社会の喫緊の課題です。

 

もう一つ、考えたいことがあります。パウロが提示したキリスト者としての「自立」した生き方についてです。パウロは経済的な面において、教会の人々に極力負担をかけまいとしました。自分の存在が重荷にならないようにとの配慮をしていました。けれども、その発想自体がいまを生きる私たちからすると再考の余地があるのではないでしょうか。

 

私たちはそもそも、他者に依存をして生きているものです。人に頼り、周囲や社会の援助を受けて生活をしているものです。そしてそれはお互いさまです。他者の援助を受けて生活していることを「人に迷惑をかけている」「人の重荷になっている」と思う必要はありません。つい自分に対してそのように思ってしまうこともありますが、そのときは、私たちはみな互いに支え合うことで生きていることを思い起こしたいと思います。

 

ご自身も手足に脳性麻痺による障がいがある東京大学先端科学技術研究センター准教授の熊谷晋一郎先生は、《自立とは「依存先を増やすこと」》だと語っています。《「自立」とは、依存しなくなることだと思われがちです。でも、そうではありません。「依存先を増やしていくこと」こそが、自立なのです。これは障害の有無にかかわらず、すべての人に通じる普遍的なことだと、私は思います》(全国大学生活協同組合連合会websiteより、https://www.univcoop.or.jp/parents/kyosai/parents_guide01.html

 

もちろん、パウロが身を以って示したキリスト者としての「自立」した生き方は尊いものです。と同時に、すべての人がパウロと同じような生活をする必要はありませんし、それを求めることも適切ではないでしょう。いまを生きる私たちは、「誰にも頼らずに、いかに自分一人の力で生きてゆけるか」を問うよりも、熊谷先生がおっしゃっているように、「いかに依存先を増やしてゆけるか」、「互いに援助し合い、支え合ってゆけるか」を考えてゆくことが肝要ではないでしょうか。

 

 

 

「ぶどう園の労働者」のたとえ ~神さまの恵みは私たちの努力や功績を超えて

 

 礼拝の中で、マタイによる福音書20116節の「ぶどう園の労働者」のたとえを読んでいただきました。このたとえ話では、ぶどう園で朝早くから働いていた人だけではなく、昼遅くや夕方から働いた人にも等しく一デナリオンの賃金を支払った主人の姿が描かれています。

私たちの日常の視点からすると、朝早くから働いていた人も夕方から働いた人も同じ賃金である、というのは不公平であるように思えます。ただ、これは「神の国(天の国)のたとえ」として語られているものであり、単に「労働とその対価」についての話ではないことを踏まえる必要があるでしょう。ぶどう園の主人は神さま、労働者は私たち一人ひとり、そしてぶどう園は神の国を表しています。

 

このたとえ話からはさまざまなメッセージを汲み取ることが可能であり、解釈も多様にできることでしょう。メッセージのはじめの方で、生きてゆく上で必要なものに与ること、必要な支援を受けることは、すべての人に等しく与えられている権利であることを述べました。このことと「ぶどう園の労働者」のたとえ話をつなげますと、私たちの努力や功績を超えて、神さまは私たちに大いなる恵みを与えて下さるのだと受け止めることができます。私たちがどれだけ働いたかというのは、神さまの恵みを左右するものとはならないのです。

神さまの恵みは、私たち人間の努力や功績を超えているものです。私たちにできることは、この神さまの愛と恵みを信頼し、神さまの前に立つことです。イエス・キリストに結ばれた者として、あるがままのこの私で、神さまの前に進み出ることです。主人からの賃金を受け取るために、監督の前に並んだ雇われ人たちのように――。この神の国には、何ら分け隔てはありません。パウロが伝えたかったものも、キリストを通して示されたこの神さまの恩寵であったでしょう。

 

 

私たちが何を成し遂げてきたからではなく、いま何をしているかでもなく、これから何を成し遂げることができるからでもなく、神さまはご自分の目に価高く貴い(イザヤ書434節)存在としていつも私たちに愛と恵みを与えて下さっていることをご一緒に心に刻みたいと思います。