2021年1月10日「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」

2021110日 花巻教会 主日礼拝

聖書箇所:マタイによる福音書31317

これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者

 

  

 

新しい年になり……

 

 新しい年になり10日が経ちましたが、年始はいかがお過ごしだったでしょうか。昨年に比べて、今年は雪が多い冬となりました。特に数日前から強い冬型の気圧配置により、日本海側を中心に記録的な大雪となっています。現在困難の中にある方々の上に必要な支援が行きわたりますよう、降雪による被害が最小限のものに食い止められますよう祈ります。皆さんも雪かきの際やお車の運転の際はくれぐれもお気を付けください。

 

 また、8日より、新型コロナウイルス対応の特別措置法に基づく緊急事態宣言が首都圏13県に対して発令されています。昨年4月~5月にかけての緊急事態宣言の発令に続き、二度目の発令となりました。年末年始にかけて感染者数は連日、過去最多を記録。皆さんも不安の中を過ごしていらっしゃることと思います。

13県に対する緊急事態宣言はとりあえず27日までを期限とするとされていますが、皆さんも良くご存じのように、1か月では十分ではないとの指摘もあります。関西の府県をはじめ、今後さらに緊急事態宣言の発令を要請する県が増えてゆくことでしょう。

引き続き、それぞれが感染予防に努めてゆくと共に、一人ひとりの健康と生活とが守られますようご一緒に祈りをあわせてゆきたいと思います。

 

 

 

洗礼について 

 

冒頭でご一緒にマタイによる福音書31317節をお読みしました。イエス・キリストが洗礼者ヨハネから洗礼を受けられる場面です。イエス・キリストは30歳になった頃、ガリラヤの村を出て、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられました。

洗礼者ヨハネは当時、ヨルダン川で洗礼(バプテスマ)を授ける活動をしていた人です。川で行っていたことからも分かるように、ヨハネが行っていた洗礼は、水の中に全身を沈めるやり方でした。

 

「洗礼を授ける」と訳されている語は、もともとのギリシア語では「水に浸す」という意味をもっています。よって、原語のニュアンスを尊重して「洗礼」とは訳さず、「浸礼」と訳している翻訳もあります(岩波訳聖書)。バプテスト教会などの一部の教会では現在も、この全身を水に沈めるやりかたを継承して洗礼を行っています。花巻教会もそうですよね。花巻教会はバプテスト教会の流れを汲んでいる教会ですので、いまも全身を水に浸す仕方で洗礼を行っています。

 

皆さんがいまご覧になっている位置からは見えませんが、私が立っている講壇の後方の床の下に、洗礼槽と呼ばれるスペースがあります。洗礼式の際は、ふたを開け、洗礼槽に水(お湯)を溜めて洗礼を行います。

洗礼槽がまだなかった時代は、川で洗礼を行っていたそうです。花巻教会も豊沢川で洗礼を行っていた時代があるそうです。夏以外の時期は、さぞかし冷たかったことでしょう。河原に火を焚いてはいたそうですが、洗礼志願者の方も牧師も、まさに決死の覚悟で川の水に浸かったこと思います。もしもこの冬の時期に川で洗礼を行うとしたら……想像しただけで身が凍ってしまいそう(!)ですね。

 

全身を水に浸すやりかたを「全浸礼(浸礼)」、水を頭に振りかけるやりかたを「滴礼」と言います。私自身は大学生の頃に、滴礼で洗礼を受けました。ですので、受ける方としては浸礼を経験したことはありません。浸礼ならではの感動もきっとあるのではないか、とも思います。ぜひ全浸礼で洗礼を受けてみたかったな、との気持ちもあります。

もちろん、どちらか一方のやり方が正しい、というわけではありません。花巻教会でも洗礼を志願される方のご事情によっては滴礼で洗礼を行うこともあります。水はあくまで目に見える「しるし」であり、大切なのは目には見えない神さまの愛と恵みです。

 

ちなみに、洗礼者ヨハネが行っていた洗礼にはまだ「クリスチャンになる」意味合いはありません。私たちは現在、洗礼を受ける=クリスチャンになるとの意味で受け止めていますが、ヨハネが行っていた洗礼は罪を「悔い改める」意味が込められているものでした。水の中で一度古い自分が死に、水から上がったとき、新しい自分が生まれる……。一種の「死と再生」の儀礼であったと言えるでしょう。洗礼者ヨハネが行っていた悔改めの儀式は当時、多くの人々の心をひきつけていたようです。

主イエスもそのように洗礼者ヨハネのもとに集う一人として、ある日、彼から洗礼を受けられました。

 

 

 

主イエスの洗礼

 

なぜイエス・キリストがヨハネから悔い改めの洗礼を受ける必要があったのか、と疑問に思われる方もいらっしゃるかもしれません。救い主である主イエスが悔い改めの洗礼を受けられる必要などないのではないか、と。

 マタイによる福音書では洗礼者ヨハネ自身、主イエスに洗礼を授けることを躊躇したと記されています。《わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか14節)。そのヨハネに対し、主イエスは答えられました。《今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです》(15節)。

 

そうして主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受け、水の中から上がられたとき、新しい事態が生じます。天が開き、神の霊(聖霊)が鳩のように主イエスの上に降って来たのです。

1617節《イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。/そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた》。

 聖霊が鳩のように主イエスの上に下ってきたとき、《これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者》という神さまご自身の声が天地に響き渡りました。主イエスが神の愛する独り子、救い主であることが公に現わされた瞬間です。

 

 

 

《これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者》

 

ここでご一緒に心に留めたいのは、《愛する子》という表現です。「神の子」であるというだけではなく、「神の愛する子」であることが述べられています。

この場面においては、神の言葉は主イエスお一人に対して語られたものです。その場にいた大勢の人々に対して語られた言葉ではなく、あくまで主イエスお一人に対して宣言されたものです。この後、主イエスが全身全霊でなさろうとしてくださったことは、この神さまの声を、私たち一人ひとりに対して語りかけられている声とすることでした。

 

これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者》――この神さまの声が、一人ひとりに語られているものとするため、主イエスはその公の活動を始められました。

 

 

 

かけがえのない=替わりがきかない存在として

 

イエス・キリストが私たちに伝えてくださっているメッセージ、それは、「神さまの目から見て、私たち一人ひとりの存在がかけがえなく貴い」ということです。神さまの目から見て、一人ひとりが、かけがえなく大切であることを主イエスは伝えてくださっています。  

「かけがえがない」という言葉は私たちも普段の生活の中で使うことがありますね。「かけがえがない」とは、「替わりがきかない」ということです。私たち一人ひとりはかけがえがない存在=替わりがきかない存在である。だからこそ、大切な存在であるのです。

 

 

 

キリストの愛に結ばれて

 

 キリスト教が誕生して間もない頃、洗礼式で実際に読まれていた信仰告白の言葉の一つをご紹介したいと思います。

そこでもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです(ガラテヤの信徒への手紙328節)

 この信仰告白文では、イエス・キリストに結ばれている人は、もはや国籍や人種からも、社会的な身分からも、性別や家庭の役割からも自由であることが宣言されています。

 

主イエスはあなたを生まれでは判断せず、職業でも判断せず、社会的な身分でも判断せず、性別でも、現在の心身の状態でも判断せず、家庭での役割でも判断されません。ただ、あなたをあなたとして、あるがままに受け止めてくださっています。あなたという存在を、世界にただ一人の、かけがえのない=替わりがきかない存在として受け入れてくださっています。「クリスチャンである」ということは、このキリストの愛といつも固く結ばれていることであると私は受け止めています。

 

イエス・キリストに結ばれて、一人ひとりが、かけがえのない「私」になってゆくこと。そうして互いに互いをかけがえのない存在として大切にしてゆくこと――。これが神さまのみ心(願い)であると信じています。

 

「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。この言葉を私たちの心に届けるため、主イエスはその生涯をささげてくださいました。そしていまも、私たちの傍らにいて、「あなたは神さまの目から見て、かけがえなく大切な人」だと語りかけてくださっています。

この主イエスの言葉を私たちがより深く受け入れられますように、より喜びをもって受け入れることができますように、ご一緒にお祈りをおささげいたしましょう。