2021年5月9日「だから、こう祈りなさい」

202159日 花巻教会 主日礼拝

聖書箇所:マタイによる福音書6115

だから、こう祈りなさい

  

 

「あなたは悪くない」というメッセージを

 

一昨日、11日までの期限とされていた緊急事態宣言が31日まで延長することが決定されました。また対象であった4都府県に新たに愛知県と福岡県が加えられ、計6都府県が宣言の対象となることが発表されました。その他、まん延防止の対象となる地域も拡大されています。場当たり的な対応とも思える政府の決定には様々な意見があることと思いますが、少しでも感染拡大が収束へと向かうよう願うものです。

 

国内のみならず、国外でも極めて深刻な状況が続いています。特にインドでは極めて深刻な状況になっています。1日当たりの新規感染者は3日連続で40万人を超え、インド政府は昨日だけで新たに4178人の方々が亡くなったと発表しています。まさに想像を絶する状況で、心が痛みます。助けを必要としている人々に必要な治療がなされてゆきますようにと祈ります。

 

インドとは規模は異なるものの、国内でもまた感染者が拡大しています。昨日は各地で過去最多を記録、岩手でもこの1週間で過去最高の感染者数が確認されました。私たちも引き続き感染予防に努めてゆくと共に、感染した方々の心のケアが喫緊の課題になっていることを改めて思わされています。私たちは「あなたは悪くない」というメッセージを改めて発信してゆくことが求められているのではないでしょうか。感染したこと責めるようなことがあっては決してなりません。

たとえどれほど気を付けて生活していようと、感染するときは感染するのがウイルスです。感染するまでの経緯をたどってゆくと、確かに、「あのとき、ああしていれば良かった」ということはあるでしょう。でも、「あのとき、ああしていれば良かった」ということが一つもないような、非の打ちどころのない生活をしている人はいないでしょう。生きて生活をしている限り、私たちは常にウイルスに感染する可能性をもっています。

感染がまた拡大している状況の中にあるからこそ、互いに労わり合い、祈り合う姿勢を改めて意識したいと思います。感染した方々や関係者を批判し、追いつめることがあってはなりません。私たちは医療の専門家ではないので、感染した方々を直接手助けることはできません。その意味で、無力を覚えることもあります。しかし、感染した方々に対して「あなたは悪くない」とのメッセージを伝えてゆくことはできるでしょう。そしてその方々のために祈ることはできるしょう。感染した方々が回復へと導かれ、その後も心身の健康が守られてゆきますようご一緒に祈りを合わせてゆきたいと思います。

 

 

 

主の祈り

 

先ほどご一緒にマタイによる福音書6章をお読みしました。その中で、「主の祈り」が記されている箇所がありました。私たちが毎週、礼拝の中でご一緒にお祈りしている主の祈りです。

主の祈りは、イエス・キリストご自身が教えて下さった祈りです。主の祈りの「主」とは、イエス・キリストのことであるのですね。どう祈るべきか分からない弟子たちに、《だから、こう祈りなさい9節)とおっしゃって、主イエスが教えてくださったのが主の祈りです。現在も、世界中の教会の礼拝でこの主の祈りは祈られています。

 

改めて、主の祈りを引用してみましょう。《天にまします我らの父よ、/ねがわくはみ名をあがめさせたまえ。/み国を来たらせたまえ。/みこころの天になるごとく 地にもなさせたまえ。/我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。/我らに罪をおかす者を 我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。/我らをこころみにあわせず、悪より救いいだしたまえ。/国と力と栄えとは 限りなくなんじのものなればなり。/アーメン》。

 

 本日のマタイによる福音書6913節に記されているのは、この主の祈りの原型となったものです。新約聖書にはもう一箇所、同じく主の祈りの原型となった祈りが記されています(ルカによる福音書1124節)。この二つの祈りの文言をもとにして出来上がったのが、私たちが普段の礼拝の中で祈っている「主の祈り」です。

 

もととなったマタイによる福音書の「主の祈り」も見てみましょう。

6913節《天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。/御国が来ますように。/御心が行われますように、天におけるように地の上にも。/わたしたちに必要な糧を今日与えてください。/わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。/わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください》。

 

 表現の仕方がところどころ違っていたり、「国と力と栄えとは 限りなくなんじのものなればなり」という最後の部分の祈りがなかったり、などの点はありますが、内容としては礼拝の中で祈っている「主の祈り」と同じであることが分かります。

本来でしたら、一つひとつの祈りを皆さんとじっくり味わいたいところですが、時間の関係上、本日は第5番目の祈りを取り上げたいと思います。

 

 

 

《我らに罪をおかす者を 我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ》

 

5番目の祈りは《我らに罪をおかす者を 我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえです。口語訳バージョンでは《わたしたちに罪を犯した者を ゆるしましたから、わたしたちの犯した罪を おゆるし下さい》と訳されています。

 

この5番目の祈りでは、まず自分から相手の罪をゆるすことが言われています。「罪のゆるし」は聖書において最も重要な主題であると同時に、私たちにとって最も難しい主題であるでしょう。

 ゆるすことができないから苦しいのであって、簡単にゆるすことができるのであれば、そもそも私たちは苦しむことはありません。特に、自分に対してひどいことをした相手、自分を傷つけた相手をゆるすことは、私たちにとってなかなか難しいことですね。ゆるせない心は重荷のように私たちにのしかかり、私たちの日々の生活に暗い影を落としてゆきます。

 

この祈りの後半部では、《我らの罪をもゆるしたまえ》と述べられています。私たち自身も罪を犯していることが同時に告白されているのですね。私たちがまず相手をゆるすことと、私たち自身をゆるしてもらうことがセットになっていることが分かります。ただ順番としては、あくまで、私たちが相手をゆるすことが先になっています。

私たち自身の罪ということで言えば、相手にひどいことをしてしまった自分自身がゆるせないこともあるでしょう。過去に人を傷つけてしまった、この自分がゆるせない。そのゆるせない心を抱いたまま、日々、苦しみ続けている方もたくさんいらっしゃることでしょう。そのゆるせない心は、時に私たちを自暴自棄な生活へと向かわせてゆきます。

 

 

 

ゆるせない心を取り除くことの難しさ

 

ゆるせない心――この重荷を自分の力で取り除くことは難しいものです。人がゆるせない。または、他ならぬ、この自分がゆるせない。ゆるせないからこそ、苦しい。ゆるせないからこそ、辛く、悲しい……。しかしよくよく考えますと、私たちはむしろ本来的に、自身の力ではこの重荷を取り除くことはできないものなのではないか、とも思わされます。もちろん、様々な経験を経て、ゆるすことができるようになることもあるでしょう。それは私たちにとって、非常に重要なことです。一方で、ゆるすことができない心を抱いたまま、苦しんでいる人が大勢いることも事実です。

私たちは、自分の力では、ゆるせない心を取り除くことは難しい。そのことをまず、率直に受け止めたいと思います。しかし、聖書が語るのは、その重荷を共に負ってくださっている方がいるということです。

 

 

 

この重荷を共に負ってくださる方がいる

 

私たちが自身の力では取り除くことができない重荷、それを共に負ってくださる方がいる。その方が、主イエス・キリストです。聖書は、イエス・キリストが私たちの負いきれない重荷を負い、共に担ってくださっていることを語っています。

それは、私たち一人ひとりが、神さまの目に価高く、貴い存在であるからです。神さまの目に大切なあなたが、これ以上、ゆるせない心を抱いたまま苦しみ続けることのないように。これ以上、人を傷つけ、自分自身を傷つけ続けることがないように。あなたの心の荷物が少しでも軽くになり、その心が光で満たされてゆくようになるために……。主イエスは私たち一人ひとりの重荷を共に担ってくださっているのだと聖書は証しています。

 

私たちは自分の力ではゆるすことができなくても、共にこの重荷を担っていて下さる方がいることを信じることはできるのではないでしょうか。たとえゆるすことはできなくても、このことを信じることができるだけで、十分なのだと私は受け止めています。このことを信じ、自らの重荷を神さまの前にまるごと委ねることができただけで、私たちは神さまの目に十分なことをしたのです。

 

 

 

わたしのもとに来なさい ~ゆるせないあなたで、良い

 

主イエスは別の箇所で、このように語っておられます。《疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。/わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。/わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである(マタイによる福音書112830節)

重荷を負って苦しむ私たちへの、招きの言葉です。ゆるせなくても良い。ゆるせないあなたで、良い。そのままのあなたで、わたしのもとへ来なさい。そうして、その重荷をまるごと、わたしに委ねなさい――そう主イエスは私たちに語りかけて下さっています。

私たちが苦しみながら生きるのではなく、喜びをもって生きてゆくことこそ、神さまの願いであるのだと信じています。

 

 

 

愛とゆるしの光の中で

 

主イエスは、人をなかなかゆるすことができないこの私たちを、ゆるしてくださっています。ゆるせなくても、いい。ゆるせないあなたでもいい。そのままのあなたで、わたしのもとへ来なさいと招いて下さっています。

それは、私たち一人ひとりを、愛して下さっているからです。いまここにいる、あるがままの私たちを愛して下さっているからです。主イエスは十字架におかかりなった姿で、私たち一人ひとりに、「それでも、あなたは生きていて、良い」と語りかけて下さっています。

5番目の祈り《我らに罪をおかす者を 我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ》も、この主の愛とゆるしとを指し示す祈りであるのだと本日はご一緒に受け止めたいと思います。

 

 

この愛とゆるしの光の中で、私たちが抱える重荷はもはや単なる重荷ではなく、十字架の主と結ばれる「絆」となってゆきます。そしてこの主の愛とゆるしの中で、願わくは私たちが少しずつ、人をゆるし、自分をゆるすことができるようになってゆきますように。神さまが私たちにその力をもお与えくださることを信じ、ご一緒にお祈りをおささげいたしましょう。