2021年11月7日「約束の言葉」

2021117日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:マルコによる福音書121827節、ヤコブの手紙21426節、創世記15118節(前半)

約束の言葉

 

 

聖書 ~約束の物語

 

 いまご一緒に創世記の15118節をお読みしました。神さまがアブラハムに約束を与える場面です。皆さんもよくご存じのように、アブラハムはイスラエル民族の父祖となった人です。このアブラハムと妻のサラから、イスラエル民族の歴史は始まってゆきます。

 

神さまがアブラハムに約束したのは、「子孫の繁栄」と「カナンの土地への定住」でした。改めてその約束の言葉をお読みしたいと思います。

 神さまはアブラハムを外に連れ出してこうおっしゃいました。155節《「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」》。天の星が数え切れないように、あなたの子孫も数え切れないほどになる。すなわち、天の星の数ほどにイスラエル民族が増え、繁栄してゆくことを神さまは約束してくださったのです。目の前にある現実は困難なものでしたが、アブラハムはその神さまの約束の言葉を信じました6節)

 

 もう一つの約束の言葉は最後の18節に記されています。18節《その日、主はアブラムと契約を結んで言われた。「あなたの子孫にこの土地を与える。…」》。神さまはアブラハムと契約を結び、カナンの地(現在のパレスチナ地方)を彼の子孫に与えることを約束されました1217節、131417節なども参照)。アブラハムの物語は、この神さまの約束の言葉への信頼・信頼の物語であるといえるでしょう。

この信仰・信頼は、アブラハムからその子どもたちへ、子孫から子孫へと受け継がれてゆきました。そうして紡がれてゆくのが旧約聖書の物語です。

 

皆さんもよくご存じのように、旧約聖書・新約聖書の「約」は契約・約束の「約」です。旧約聖書は「旧(ふる)い約束の書」、新約聖書は「新しい約束の書」を意味しています。古い約束は、いまご一緒に読みましたアブラハムに与えられた約束のことを指しています。新しい約束は、イエス・キリストを通して与えられた新しい約束のことを指しています。聖書とはすなわち、神と人間との約束の書であるのですね。いまお読みした創世記15118節はその約束の、まさに始まりとなった部分です。ユダヤ教にとってもキリスト教にとっても、とても大切な箇所です。

 

ちなみに、「旧約」「新約」という言葉はキリスト教固有の呼称です。私たちは普段、「旧約聖書」「新約聖書」というタイトルを当たり前のように使用していますが、ユダヤ教徒の人々はそのようには言いません。ユダヤ教徒の方にとっては私たちが旧約聖書と呼んでいる書のみが正典であるからです。ユダヤ教においては聖書は旧約聖書のことを指します。ですので、旧いも新しいもないわけですね。

このことを配慮し、近年は旧約聖書をヘブライ語聖書と言い換えることがあります(ヘブライ語で書かれているからです)。花巻教会では便宜上、「旧約聖書」「新約聖書」との表現を使っていますが、それらはあくまでキリスト教固有のものの見方・考え方に基づいた表現であることを、ご一緒に心に留めておきたいと思います。

 

 

 

先住民族との戦い

 

 さて、アブラハムが亡くなって後、子孫たちは神の約束を信じ、荒れ野での40年の旅の末、カナンの土地への定住を果たします。神さまがアブラハムに与えた約束が、長い年月を経て、遂に成就することになります。「子孫の繁栄」と「カナンの土地への定住」の約束が、遂に成就することとなったのです。これらの旅路は、旧約聖書の出エジプト記からヨシュア記にかけて、詳しく記されています。

 

 ただし、イスラエル民族が定住を目指すカナン(現在のパレスチナ地方。イスラエルとパレスチナ自治区に分割されています)は無人の地ではなく、先住民族たちが生活していた土地でした。そこにはすでに大勢の先住民族が住んでおり、たくさんの町が形成されていたのですね。カナンの地に入ってゆくということは、先住民族と戦争をすることを意味していました。イスラエル民族は先住民族との戦いに勝利することによって、カナンの地への入植を果たしてゆきます。

 

先住民族との激烈な戦いに勝利し、遂に彼らから得た土地を配分し終えた後、ヨシュア記はこのように語ります。《主が先祖に誓われた土地をことごとくイスラエルに与えられたので、彼らはそこを手に入れ、そこに住んだ。/主はまた、先祖に誓われたとおり、彼らの周囲を安らかに住めるようにされたので、彼らに立ちはだかる敵は一人もいなくなった。主は敵を一人残らず彼らの手に渡された。/主がイスラエルの家に告げられた恵みの約束は何一つたがわず、すべて実現した(ヨシュア記214345節)

 

 

 

伝統的なものの見方を一度離れてみること

 

キリスト教においてこれらの記述は、長らく何の疑問もなく「当たり前」のものとして受け止められてきました。神さまの約束の成就として、信仰をもって受け止めてきたのです。ただし、これらの記述に抜け落ちていることがあります。それは、もともとそこに住んでいた、先住民族の人々の視点です。

 カナンへの入植はイスラエル民族の人々の視点からすると「神さまの約束の実現」ですが、先住民族の人々の視点からすると「侵略」となります。それぞれの立場に立つことによって、これらの聖書の記述は見え方はまったく変わってきます(参照:村山盛忠氏『パレスチナ問題とキリスト教』、ぷねうま舎、2012年)

 

20世紀後半頃になってからようやく、イスラエル民族の視点だけではなくもう一つの視点――たとえばカナンの先住民族の視点から聖書の記述を読み直す、という試みもなされるようになってきました。キリスト教はこれまでの歴史において時に、傲慢なキリスト教中心主義、不寛容・排他的なキリスト教絶対主義に陥っていたのではないか。その反省に立った上での試みです。

 

キリスト教にはキリスト教固有の世界の見方や考え方があります。他の宗教とはずいぶんと違いがある部分が多々あります。キリスト教における「正義」や「当たり前」が、必ずしも他の宗教や文化にとって「正義」や「当たり前」であるとは限りません。伝統的なものの見方、その基点を一度離れて、これまでの在り方を見つめ直すことは、これからの時代にますます必要な作業になってくるのではないでしょうか。

 

 

 

自分のものの見方を絶対化してしまうこと

 

「自分の基点を一度離れてみる(視点を変えてみる)」ことは、聖書を読む際だけではなく、私たちが他者との関係を築いてゆく上でもとても大切なことですよね。

私たちはそれぞれ、自分固有の世界の見方、感じ方を持っています。それは一人ひとり違います。私たちのこの心、体、そして魂は世界でただ一つです。私たちは一人ひとり、内に自分だけの世界を携えながら生きているのだと言えるでしょう。

 

注意したいことは、生きてゆく中で、この自分のものの見方のみを「正しい」とみなしていってしまうことですね。自分のこのものの見方、世界の感じ方が「当たり前」であり、「正しい」ものとしてしまう。気が付くと、自分を中心に世界を見てしまっている私たちです。

他の人からすると、ものごとはまた違って見えている可能性があることを忘れないでいたいものです。自分にとっての当たり前は、必ずしも他者にとっての当たり前ではない。これはまた逆もしかりですね。他者にとっての当たり前は、必ずしもこの私の当たり前のこととはなりません。

 

もちろん、私たちはこの心と体と魂をもって世界と対峙しているわけですから、自分を基点にして世界を見てしまうことからは免れることはできません。どの人もそうなのであり、それは悪いことでもなく、責められるべきことでもありません。

気を付けたいのは、自分の見えている世界を絶対化してしまうことですね。自分は絶対に「正しい」、自分とは異なる相手は「間違っている」とみなしてしまう。そうして、その自分の感覚や考えを他者に押し付け、強要してしまう。あるいは、自分とは異なる他者を排除したり、不当な批判や攻撃の対象としてしまう。

 

そのとき、特に私たちの心の目に見えなくなっているのは、相手の痛みです。自分とは異なるその相手も、痛みや苦しみを抱きながら、日々懸命に生きている。そのことへの感受を、いつも忘れないようにしたいと思います。

 

 

 

神さまの愛と恵みを基点とする中で

 

 改めて、聖書に話を戻したいと思います。聖書は神と人間との約束の書である――。私たちキリスト教はそう受け止め続けてきました。いまも大切に受け止め続けています。ただし、その約束とは、私たち人間が考えるよりも、もっと大きく、広く、深いものなのではないでしょうか。私たちの固有の世界の見え方・感じ方だけでは把握しきれないもの、私たちの限定された「正義」の基準では測りきれないもの、それほどまでに深いものが、神さまの約束であり、その愛と恵みです。

 

 旧約聖書のイザヤ書に次の言葉があります。「わたしの目にあなたは価高く、貴い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ書434節)。神さまの目から見て、一人ひとりの存在がかけがえなく貴いものであることを告げる言葉です。これが聖書の根本のメッセージの一つであると私は受け止めています。自分自身を基点とするのではなく、この神さまの愛と恵みを基点とするとき、私たちはまた世界と他者が違って見えてくるのではないでしょうか。 

 この神さまの愛と恵みを基点とする中で、私たちが改めて問われてゆくこと。それが、神の目に尊い一人ひとりが、いかにしたら共に生きてゆくことができるか、支え合いながら生きてゆくことができるのか、という課題です。

 

 

一人ひとりが異なった固有の世界をもつ私たち。ものの見方や感じ方が異なり、思想信条も違う私たち。であると同時に、神の目に尊厳ある存在である私たち。その互いに異なり、互いに貴い私たちが、いかに支え合ってゆくことができるか。排除し合うのではなく、対立し合うのでもなく、共に生きてゆくことができるか。神さまの約束の言葉と、そこに現わされている愛と恵みにいま立ち還り、平和への道をご一緒に祈り求めてゆきたいと思います。