2021年3月21日「仕えられるためではなく仕えるために」

2021321日 花巻教会 主日礼拝

聖書箇所:マタイによる福音書202028

仕えられるためではなく仕えるために

 

 

 

サービス ~人への奉仕、神への奉仕

 

いまお読みしましたマタイによる福音書202028節の中に、「仕える」という言葉が出てきました。2627節《あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、/いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい》。

「仕える」は「奉仕する」とも言い換えることができる言葉です。「奉仕」は教会の中でもよく使われている言葉ですよね。礼拝の司式や奏楽者を「礼拝奉仕者」と言ったり、教会の活動に携わることを「奉仕活動」と呼んだりします。

 

「奉仕」は英語にすると「サービス(service)」です。サービスは日常的によく使われる言葉ですよね。

いま述べた奉仕の意味の他に、顧客の需要に応えるサービス業務を示す言葉として使われたり、様々なビジネスの場面で使われたりします。日本では「値引き」や「無料」の意味で使われることもありますね。経済用語としてのサービスは「売買した後に形の残らない無形の財、価値」を意味する言葉です。

 

 本日はご一緒に聖書におけるサービスとはどのようなものかを考えてみたいと思います。まず確認したいのは、聖書におけるサービスには二つの側面があることです。一つは、「隣人へのサービス」です。もう一つは、「神へのサービス」です。言い換えますと、人への奉仕と、神への奉仕――聖書においてはこの二つが最も重要なこととされているのですね。

 

 

 

礼拝 ~神への奉仕、神からの奉仕

 

 英語のサービス(service)には「礼拝」という意味もあります。たとえばクリスマス・イブの燭火礼拝を英語でキャンドル・サービスと言いますよね。日常生活で使っている意味でのサービスは礼拝とは結び付かない言葉のように思えますが、「神への奉仕」の意味でこの言葉を捉えてみると、納得することができるのではないでしょうか。礼拝とはすなわち、神へのご奉仕であるからです。

 私たちはいまご一緒に礼拝を行っています。日曜日の朝、共に会堂に集まり、礼拝をささげる。心をあわせて賛美歌を歌ったり、心を開いて聖書の御言葉を共に聴いたり――。それは礼拝を通して、神さまに仕えている、奉仕していることを意味しています。

 

 と同時に、英語のサービス(service)が「礼拝」を意味することに関して、もう一つ、大切な側面があることを多くの人が指摘しています。それは、礼拝は私たちによる「神への奉仕」であると同時に「神からの奉仕」であることです。神さまが私たちに奉仕をしてくださっている、それが礼拝であるのだ、と。

 私たちは礼拝を通して、神さまから様々な言葉をいただいています。それらの言葉は私たちのうなだれていた魂を立ち上がらせてくださいます。飢えていた魂に糧を与え、干からびていたようであった魂に潤いを与えて下さいます。そのように、神さまはこの礼拝の時間を通して、私たち一人ひとりに命の糧を給仕して下さっているのだと受け止めることができるでしょう。

 

奉仕を意味するギリシャ語「ディアコニア」の言葉が元来持つイメージは、「食卓で給仕をする」ものであるそうです。そこから拡大され、広く「仕えること」「奉仕すること」を意味する言葉となっていったようなのですね。

 神さまは毎週の日曜日の礼拝を通して、私たちのために命の糧を給仕して下さっている――私たちのためにご奉仕をしてくださっていることを思い起こし、共に感謝をしたいと思います。

 

 

 

仕えられるためではなく仕えるために

 

 本日の場面では、《あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、/いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい2627節)とのイエス・キリストの言葉が記されていました。

これは、「主が王座に着かれるときはその左右に座らせてほしい」と願う弟子のヤコブ・ヨハネ兄弟とその母に対して言われた言葉です。他の人々より上に立ちたいと願う弟子たちに対して、「上に立ちたいと思う者はむしろ皆に仕える者となりなさい」と主イエスはおっしゃいました。上に立ちたいと思う人こそ、人に仕える奉仕の精神を忘れてはならないとおっしゃったのですね。

 

 また、続けてこのようにおっしゃいました。《人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように28節)

《人の子》とは主イエスご自身のことです。主イエスご自身が、《仕えられるためではなく仕えるため》に私たちのもとへ来て下さったことが語られています。

 私たちは福音書の記述を通して、すべての人の上に立つべき神の子イエス・キリストが、すべての人に仕える方になってくださったことを知らされます。苦しむ人々を自ら訪ね、その痛みと悲しみに寄り添い、癒しと解放へと導いて下さった主イエス。主イエスはそのご生涯を通して、「隣人への奉仕」はいかにあるべきかを私たちに示してくださっています。

 そしてそのご生涯の最後に、主イエスは私たちのためにご自分の命をささげて下さいました。十字架の上で裂かれたお体を命のパンとして、流された血を命の水として、私たちに与えてくださいました。

十字架の上で、ご自分の命をささげてくださった主イエス。まさにその命を懸けて、主は私たちのために奉仕(給仕)をして下さったのです。

 

 

 

サービスを人に強要することがないように

 

本日はご一緒に聖書におけるサービス(奉仕)とはどのようなものかを考えてきました。

聖書におけるサービスには二つの側面がある、一つは、「隣人へのサービス」、もう一つは、「神へのサービス」。サービスは「礼拝」の意味ももっており、週ごとの礼拝では私たちが神さまに奉仕していると同時に、神さまの方が私たちに奉仕をしてくださっていることを思い起こしました。そして主イエスがそのご生涯を通して、徹底して、私たちのために仕える方となってくださったことを確認しました。

 このように、聖書においてはサービス(仕えること、奉仕すること)が非常に大切なものとされていることをご一緒に心に留めたいと思います。

 

 と同時に、もう一つ心に留めたいことは、サービスを人に強要することにはなってはならないことです。聖書において奉仕がとても大切なものであるからといって、本人の意思を尊重することなくそれを強いることがあってはならないでしょう。この点をよくよく気をつけていないと、むしろ私たちは気が付かない内に、人に苦しい想いをさせてしまうのではないかと思います。

 

 

 

滅私奉公ではなく《活私開公》

 

 戦争中は「滅私奉公」の精神が重要視されていました。私を滅ぼして(殺して)、公=天皇と国のために仕えることが良しとされていた時代がありました。しかし、滅私奉公を強いることは戦時中に限ったことではなく、どの時代や場所においても起こり得ることではないでしょうか。現代においても、たとえば、会社のために自分を犠牲にして奉仕すること、ある組織のために自分を犠牲にして奉仕することが強制されることがあるでしょう。カルト的な宗教団体においては「神」や「教祖」のために自分を殺して――自分の自由や主体性をまったく犠牲にして――奉仕することが強制されることが起こってしまっています。

 

 東京基督教大学教授の稲垣久和先生が、これからは「滅私奉公」ではなく《活私開公》の実現が重要であると述べていらっしゃいました。滅私――私を滅ぼす方向ではなく、活私――私を積極的に活かすあり方です。また、「お上」に奉仕する奉公ではなく、「公共的なあり方」へと開いてゆくことが重要となります。

 

 稲垣先生のご指摘で重要であると思うのは、ここでの「私」は、「かけがえのない私」である点です。《ここで「私」の意味は「自己」であり同時に「個人」であるような人格ということです。かけがえのない私、他にかえがたい希少価値としての私、人権や権利の主体である私、ということです》(『改憲問題とキリスト教』、教文館、2014年、77頁)

 滅私奉公を他者に強いるとき、決定的に抜け落ちているのは、「神さまの目に、一人ひとりの存在がかけがえなく貴い」との視点でありましょう。私たち一人ひとりは神さまから見て、かけがえがない=かわりがきかない大切な存在であり、だからこそ、他者から奴隷やロボットのように支配されることがあってはならないのです。

 

 

 

主の愛と恵みに生かされながら

 神のため、人のため、そのすべてを与え尽くすことがおできになるのは、イエス・キリストお一人だけです。その身を命のパンとして、その血を命の水として差し出し、全人類のために奉仕をすることができるのは神の子イエス・キリストお一人だけです。私たちは主イエスのようにはなれないし、またなろうとするべきではないでしょう。

 

 主イエスのこのご奉仕を前に、私たちにできるのは、その大いなる愛と恵みに与ることです。あるがままの私で、その愛と恵みをただ、受け止ることです。

 

 その愛と恵みに生かされながら、私たち一人ひとりが自由に、自分らしく生きてゆくこと。そしてその喜びの中で、自分を活かしつつ隣人に奉仕し、神さまに奉仕してゆけることが、神さまの願いであると信じています。