2021年3月28日「十字架と復活への道」
2021年3月28日 花巻教会 主日礼拝
聖書箇所:マタイによる福音書27章32-56節
「十字架と復活への道」
十字架への道
私たちはいま、受難節の中をご一緒に歩んでいます。受難節は、イエス・キリストのご受難とその十字架への道行きに思いをはせる時です。特に今週は受難節の最後の週の「受難週」に当たります。木曜日には洗足木曜日礼拝を行い、イエス・キリストが十字架におかかりになった受難日の金曜日には受難日祈祷会を行う予定です。ご都合の宜しい方はご参加ください。そして受難日から三日目の4月4日(日)、私たちはイースター礼拝をおささげします。
本日の聖書箇所は、主イエスが十字架の道を歩んでゆかれる場面です。当時、十字架刑に処せられる者は、十字架の横木を背負って処刑場まで歩かされる慣習がありました。エルサレムの街中を、多くの人々が見物する中で処刑場のゴルゴタの丘まで歩かされる慣習があったようです。福音書は、たまたまそこに通りかかったキレネ人のシモンという人に主イエスの十字架を担がせた、と記しています(マタイによる福音書27章32節)。主イエスは御自分ではもはや十字架の横木を担げないほど、衰弱しきっておられたのでしょう。主イエスがこのとき十字架を背負って歩いたとされる道は、「悲しみの道」(ラテン語でヴィア・ドロローサ)と呼ばれています。
十字架刑
悲しみの道を歩み切り、主イエスは処刑場のゴルゴタの丘(されこうべの場所)にまでたどり着かれます。ゴルゴタの丘はエルサレムの街からもよく見える場所にあったそうです。十字架刑は、大勢の人々が見物する中の公開処刑でありました。そこには見せしめの意味もあったのでしょう。ローマ帝国に逆らった者はこのような目に遭う、との見せしめです。
十字架刑は、当時のローマ帝国が行っていた処刑法で、最も残酷な処刑法とされていた死刑の仕方です。ローマ帝国が行っていた処刑の中で最も《屈辱的かつ非人間的な処刑法》であるとされていたのが十字架刑でした(参照:佐藤 研氏「「洗礼」と「十字架」――訳語はこれでよいか?」、『聖書を読む 新約篇』所収、岩波書店)。
現在は、十字架はキリスト教のシンボルとして、一般に「きれい」「美しい」というイメージがありますが、もともとは「恐ろしいもの」「呪われたもの」「悲惨なもの」であるイメージだったのですね。
十字架刑があまりに苦痛を伴うものであったため、時に《にがいもの》(没薬)を混ぜたぶどう酒を飲ませることがあったそうです。麻酔の効果を狙ってのことと思われますが、主イエスはそれをお受けにならなかったとマタイ福音書は記しています(34節)。主イエスはそれをなめただけで、飲もうとはなされませんでした。
身体的な苦痛、尊厳のはく奪
マタイによる福音書には記されていませんが、マルコによる福音書は主イエスが十字架に磔にされた時刻が午前9時であったことを記しています。このことは、受難物語が単なる物語ではなく、歴史的な事実であることを私たちに示しています。
主イエスが十字架に磔にされたとき、その目の前でローマ兵士たちはくじ引きをして、主イエスの服を分け合いました(35-36節)。目の前に苦痛の極みにいる人間がいるのに、自分たちの遊びに熱中している兵士たちの姿は、他者の痛みに無感覚な私たちの姿の、その極みを表現しているように思います。
また、この描写が示すことは、主イエスは着ている服をすべてはぎ取られ、裸の状態で十字架に磔にされたということです。絵画では主イエスは腰に布があてがわれていますが、実際には何も身に着けない状態で公衆の面前にさらされました。
ある人は、当時のイスラエルの人々にとって、着物をはぎとるということほどの人間否定の行為はない、と指摘しています(佐藤司郎氏、『説教黙想アレテイア マルコによる福音書』、475頁)。それは今日の私たちが想像をはるかに越えた侮辱行為、相手の尊厳を傷つける行為であったそうです。主イエスは十字架の上で、身体的な苦痛のみならず、人間の尊厳がまったくはく奪される苦痛を経験されました。そしてその苦痛を目の前にしながら、兵士たちは何ら心を動かすこともありませんでした。痛みに対して、完全に無感覚でした。
まったくの無実であるのに
主イエスの頭の上には《これはユダヤ人の王イエスである》と書いた罪状書きが掲げられていました(37節)。これは主イエスが「ユダヤ人の王を自称した」罪で十字架刑に処せられたことを表しています。主イエスは裁判において、「ユダヤ人の王を自称し、民衆を扇動しようとした」罪、すなわちローマ帝国への反逆罪を犯したとして、死刑を宣告されました。しかしこれは、まったくの冤罪でした。主イエスがなさろうとしたのは、この地上に神の国を実現することでした。宗教的な権力者たちの策略により、まったくの無実であるのに、主イエスは死刑に処せられてしまったのです。
そのとき十字架刑に処せられたのは主イエスお一人ではなく、強盗の罪を犯した二人の人が、一人は右に、もう一人は左に、主イエスと共に十字架につけられました。旧約聖書の預言書イザヤ書53章には《彼は自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられた》との一文があります(イザヤ書53章12節)。主イエスはまさに人々から罪人の一人とみなされて亡くなられていったことになります。
十字架上の主の叫び ~「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」
3時間が経過した昼の12時になると、全地が暗くなり、それが3時まで続いたと福音書は記します(45節)。その「暗さ」とは、天候の悪化による暗さではありません。その「暗さ」は、私たちの世界から光が失われてゆくような暗さです。暗闇が世界を覆ってゆく有り様――。この恐ろしい暗闇は私たちに「世界の終わり」を想い起こさせるようです。
主イエスは十字架に磔にされてから、口をつぐみ続けておられました。すさまじい肉体の苦痛に伴う喘ぎ声は当然出されていたでしょうが、明確な言葉は発されることはなかった。そのような中で、福音書は、息を引き取られる3時に、主イエスが遂に言葉を発されたことを記しています。《エリ、エリ、レマ、サバクタニ》(46節)――これは、《わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか》という意味の言葉です。(マタイによる福音書においては、)この絶叫が主イエスの最期の言葉となりました。
「見捨てられた」という叫び
《わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか》。これがイエス・キリストの最期の言葉であるということは、私たちに衝撃を与えます。この主イエスの叫びをどのように受けとめたらよいのか戸惑いを覚える方もいらっしゃることでしょう。
受け止め方には人によって相違があります。この主イエスの叫びは、旧約聖書の詩編22編の冒頭と同じ言葉です。詩編22編は《わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか》との言葉で始まります(2節)。詩編22編はそのように深い失望の言葉から始まりますが、最後には神への信頼の言葉をもって終わります。このことから、主イエスは《わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか》という詩編22編の冒頭を引用することによって、最後まで失われなかった神への信頼を告白したのだとする解釈もあります。
一つの解釈だけが正しいということはないでしょう。私たちはこの主の十字架の死の場面からさまざまなメッセージを引き出すことが可能であるでしょう。さまざまな解釈が可能であることを踏まえた上で、本日は、《わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか》という主イエスの叫びを、それが意味する通りの言葉として受け止めてみたいと思います。すなわち、その言葉が意味する通り、「絶望の叫び」の言葉として受け止めてみたいと思います。
この言葉をその意味する通りに受け止めるとすると、主イエスは「見捨てられた」ことの叫びを叫ばれたということになります。弟子たちから、人々から、そして神ご自身から「見捨てられた」と感じることの叫びです。主イエスはすべてに見捨てられたと感じる苦痛の中で、息を引き取られたのだと本日は受け止めてみたいと思います。
私たちは世界に見放されても、ただ一人でも自分の味方になってくれる人がいれば、完全に絶望するということはないでしょう。しかし、主イエスは最期の瞬間、自分の味方になってくれる存在を見失われました。神からも、愛する人々からも拒絶されたとお感じになりました。愛する存在は遠く離れ、すべてに見放され、拒絶されたと感じる苦痛の中で、主イエスは生涯を閉じられたのです。
「あなたの痛みの中に、わたしは共にいる」
私たちもまた、生きてゆく中で、暗闇に向かい合わざるを得ない経験をします。見捨てられたと感じる経験をすることがあります。すべてが終わってしまったと感じる経験をすることもあるかもしれません。
誰からの慰めの言葉も届かないような場所、一切の光が届かないような深い暗闇。私たちは生きてゆく中で、このような暗闇に追い込まれてしまうことがあります。主イエスは一人の人間となって、その私たちの暗闇にまで、自ら降りて来てくださいました。ご自分が暗闇となりながら、暗闇に追い込まれた私たちと結びつこうとしてくださいました。何としてでも結びつこうとして下さいました。
主イエスご自身はすべてに見捨てられたと感じる苦痛を叫びながら、そのお姿を通して、私たちに「あなたは独りではない」と語りかけてくださっています。「あなたは独りではない、わたしはここにいる。あなたの痛みの中に、あなたの苦しみの中に、わたしは共にいる」、そう語りかけて下さっているのだと本日はご一緒に受け止めたいと思います。
復活への道
そうして主イエスが十字架の上で息を引き取られた直後、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた、とマタイ福音書は記します。続けて、マタイは印象的な場面を記します。他の福音書では描かれていない、マタイ福音書だけに記されている描写です。
51節b‐53節《…地震が起こり、岩が裂け、/墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。/そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた》。
墓穴をふさぐ石が裂け、眠っていた死者がよみがえる――。これら描写はこの十字架の死から三日目の復活の出来事を示唆するものとして受け止めることができます。マタイによる福音書は主の十字架への道を描きつつ、同時に、復活への道をも懸命に指し示そうとしているのです。
マタイによる福音書が十字架の死の場面の直後に、同時に、復活を示唆する出来事を付け加えたこと。それは、いまはどんな暗闇の中にいるようであっても、その先には復活の朝の光があることをも伝えたかったからではないでしょうか。どれほどの暗闇が私たちを覆っているように思えても、その先には、朝の光が輝いている。その光は、消え去ることのない光――いつも私たちと共におられる「インマヌエル」なる光であることをマタイは伝えてくれています。
私たちは今週、受難週の中を過ごしてゆきます。そして日曜日、イースターを迎えます。私たちの内外を覆う暗さから目を逸らすことなく、同時に、復活の光を希望としつつ、ご一緒に歩んでゆきたいと願います。