2021年4月18日「新しい命」
2021年4月18日 花巻教会 主日礼拝
聖書箇所:マタイによる福音書12章38-42節
「新しい命」
復活節第3主日礼拝 ~新しい命
私たちは現在、教会の暦で復活節の中を歩んでいます。復活節はイエス・キリストの復活を心に留めて過ごす時期です。本日は復活節第3主日礼拝をごいっしょにおささげしています。
日本ではキリスト教の祭日と言えばクリスマスが有名ですが、イエス・キリストの復活を記念するイースターもだんだんと浸透してきているかもしれません。イースターの時期になると、よく目にするものがあるのですが、お分かりになるでしょうか。この会堂のあちこちにも飾ってあります。そう、タマゴですね。イースターの時期に飾られるタマゴはイースター・エッグとも呼ばれます。今年は新型コロナウイルス感染対策のために残念ながら中止となりましたが、教会では伝統的に、イースターにきれいに飾り付けをしたゆでタマゴを礼拝に来てくれた人々に配る風習があります。
タマゴには、「新しく生まれる」というイメージがあります。殻をやぶって、中から新しい命が生まれる――。そのイメージと、イエス・キリストが墓の中からよみがえられたイメージとが結び合わされ、伝統的にタマゴがイースターのシンボルとして用いられるようになりました。
タマゴのほかに、イースターの時期になると登場する動物がいます。そう、ウサギですね。イースターのシンボルとして登場するウサギはイースター・バニーとも呼ばれます。
ウサギは春先になるとたくさん子どもを産みます。ヨーロッパでは新しい命をイメージさせる動物であるそうで、タマゴと共にイースターのシンボルとして用いられるようになったという説があります。
新しい年度の歩みがはじまり、3週間が経とうとしています。新型コロナウイルスの感染拡大など様々な困難がありますが、復活の命の光を希望とし、ご一緒に一歩一歩、歩んでゆきたいと思います。
《預言者ヨナのしるし》 ~イエス・キリストの死と復活を指し示すものとして
本日の聖書箇所マタイによる福音書12章38-42節はイエス・キリストがご自身の死と復活とを前もって予告されたと受け止められている箇所です。40節《ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる》。
復活を指し示すものとして挙げられているのは、旧約聖書のヨナ書の物語です。ヨナ書の中には、ヨナが海に投げ込まれて巨大な魚に呑み込まれる、よく知られた場面があります。ヨナは魚のお腹の中で三日三晩過ごしたのちに、また陸地へと吐き出されます。物語としても面白い、教会学校でも親しまれている場面ですね。
この場面が、イエス・キリストの死と復活を指し示す場面として取り上げられています。ヨナが大魚のお腹の中にいたことが、主イエスが暗い墓の中に横たわっておられたことと重ね合わされているのですね。そして、ヨナが3日の後に神によって魚の中から陸地へと吐き出されたことと、主イエスが3日目に神によって墓の中からよみがえらされたこととが重ね合わされています。
主イエスはこのヨナ書の出来事を《預言者ヨナのしるし》(39節)と呼び、ご自分の死と復活を指し示すものとして受け止めておられたことが分かります。
陰府とはどんな場所……?
ヨナ書の2章には、ヨナが大魚のお腹の中にいるときに神にささげた祈りが挿入されています。《ヨナは魚の腹の中から自分の神、主に祈りをささげて、/言った。
苦難の中で、わたしが叫ぶと/主は答えてくださった。/陰府の底から、助けをもとめると/わたしの声を聞いてくださった》(2章2-3節)。
旧約聖書の詩編の嘆きの詩にも通ずる、心打たれる詩文です。
この中に、「陰府(よみ)」という言葉が出てきました。地下の世界のことを指す言葉です。日本語で「黄泉(よみ)」というと、死んだ後の世界、死者たちのいる世界のことをイメージするかと思います。聖書の陰府も死んだ後の世界(あの世)を指すこともありますが、それだけではありません。たとえ本人は生きていても、陰府に落ち込んだと表現されることがあります。たとえばこのヨナ書において、この時点でまだヨナは生きているわけですが、自分が《陰府の底》に落ち込んでしまっていると認識しているわけですね。
聖書における「陰府」とはどのようなところか。それは広義において、「神から断絶された場所」を指していると受け止めることができるでしょう。神さまの恵みの光が届かない場所、神さまから断絶された場所、そこが陰府であるのですね。またそこには、親しい人々からも断絶されること、それまでの当たり前の生活から断絶されることも含まれています。
そのような断絶された感覚、孤立感の中で、人は次第に光を見失い、暗闇が自分の周囲を覆っているように感じてゆきます。自分が深い穴の底に落ち込んでしまっているように、または大海の底に沈んでしまっているように感じてゆきます。
このように非常に辛い状況を、古代イスラエルの人々は陰府に落ち込んでいると形容したのです。
困難な現実のただ中に放り込まれ
このように「陰府」を受け止めるとき、それは私たちとも無関係の場所ではないことを思わされます。生きてゆく中で、私たちもまたそのような心境に追いやられることがあるように思うからです。
神さまの愛と恵みの光から断絶されてしまっているような心境。親しい人々からも断絶され、それまでの当たり前の生活からも断絶されてしまっている心境。自分の周囲は暗闇に覆われており、まるで自分が光の届かない淵の底か、大海の底に沈んでしまっているかのように感じる……。そのような辛い心境になることがあるのではないかと思います。
先ほどご紹介したヨナの祈りも、そのような困難な状況の中で懸命に紡ぎ出されたものでした。
大きな魚に呑み込まれたヨナ。その状況もまた、一つの比喩として受け止めることができるでしょう。私たちは時に、困難な現実のただ中に突如放り込まれ、呑み込まれてしまうことがあります。
特に現在、新型コロナウイルスの感染が収束に向かう兆しがいまだ見えない状況をそこに重ね合わせることができるかもしれません。私たちはこの1年、新型コロナウイルス・パンデミックという大きな困難の中に呑み込まれ、そのただ中で忍耐をし続けています。
神が与えて下さる「陰府から帰る=陰府がえり」の力
ヨナの切なる祈りは、しかし、最後には信頼と感謝の祈りへと変わります。7節《……しかし、わが神、主よ/あなたは命を/滅びの穴から引き上げてくださった》。そうしてヨナは大魚の腹の中から陸地へと生還します。
ここに、古代イスラエルの人々の神さまへの信仰が表されています。たとえいまは陰府の中に落ち込んでしまっているとしても、神は必ず自分を引き上げて下さる。暗い淵の底から引き上げてくださる、そう信じ祈り続けているのです。
そしてその祈りは、私たちの復活のイエス・キリストへの祈りともつながってゆきます。たとえいまは暗い穴の中に落ち込んでいるのだとしても、神は必ず私たちをよみがえらせてくださる。その暗い場所から引き上げ、再び立ち上がらせてくださる。イエス・キリストを暗い墓の中から復活させられたように――。
神さまはイエス・キリストを通して、私たちに「陰府から帰る=陰府(よみ)がえり」の力を与えて下さることを信じ、共なる希望としてゆきたいと思います。
主イエスは自ら「陰府」にまで降り
本日はご一緒に、イエス・キリストの死と復活を指し示すものとして、ヨナ書の物語をご一緒に参照しました。聖書における「陰府」は死後の世界のことを指すだけではなく、神さまから断絶された場所のことを指すことも確認しました。
最後にもう一つ、ご一緒に確認したいのは、イエス・キリストがその十字架の死を通して、自ら陰府の世界にまで降ってきてくださったことです。
主イエスは自ら、暗い穴の中に落ち込んでいる私たちのところまで降りてきて下さいました。そうして暗闇の中で私たちと共に苦しむことを通して、私たちを光へと導こうとして下さいました。そこまでして、私たちと結びつこうとしてくださいました。いまも、困難な現実の中でもがき苦しむ私たちと共にいて、祈っていてくださいます。
イエス・キリストの十字架と復活とを知らされた私たちが確信していること――それは、私たちが光の中を歩いてときも、暗い穴の中に落ち込んでいるときも、どんなときも主イエスは共にいてくださるということです。そのインマヌエルなる光は決して失われることはありません。
最後にローマの信徒への手紙の御言葉をお読みいたします。《わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、/高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです》(ローマの信徒への手紙8章38-39節)。