2021年6月27日「主に在って一つ」

2021627日 花巻教会 主日礼拝

聖書箇所:使徒言行録43237

主に在って一つ

 

 

猫を見ていて思うこと

 

表の通りからは見えませんが、教会の建物のすぐ裏に私が生活する建物があります。牧師館と呼ばれる、牧師とその家族が生活するための住居です。現在、その牧師館にて、妻と猫3匹と生活をしています。

 

皆さんの中にも猫を飼っている方がいらっしゃると思います。私は子どもの頃は犬を飼っていましたが、花巻に来て猫を飼うようになって、すっかり猫も好きになりました。緊張を伴う仕事を終えた後は、彼らのモフモフした体に顔をうずめることが心の癒しとなっています。

同居している猫は3匹ともオスで、名前はミシェル、ジャン、エマと言います。ミシェルは耳が垂れているのが特徴のスコティッシュフォールドの猫。ジャンは最もよく目にするタイプのキジトラ。3匹目はエマはサバシロの猫です。

 

 猫を飼っている人が共通して言うのは、「猫は自由に生きているところが良い」ということです。気の向くままに自由に生きていて、人間によって飼い慣らされるということはありません。もちろん、人懐っこい猫もいれば、そうではない猫います。一匹いっぴき個性がありますが、野生が多分に残っている点は同じでありましょう。その意味で、私も猫を「飼っている」というより、猫と「同居している」と表現した方がしっくりくる気がいたします。

 

「自由に生きている」と言えば、特に、3匹目のエマがそうです。エマはもともと野良であったところを保護した猫です。一緒に生活して既に4年が経ちましたが、いまだ人に慣れない部分があります。ゆっくり顔を近づけるのは平気ですが、手を伸ばすとサッと逃げてしまいます。人間を恐れているわけではないのですが、何か自分より大きなものが近づいてくると、反射的に逃げてしまいます。エマの中にあるこの野生の部分は、きっとずっと消えないのでしょうね。

 

 猫と人との間には、独特の距離感があります。同じ空間を共有しながらも、過度には干渉し合いません。ある意味、互いに棲み分けができていると言えます。

 猫を見ていて思うのは、命は本来、私たちがコントロールできないものだということです。猫をはじめ、命は私たち人間の意のままにはならないもの。そのことを忘れて、無理矢理自分たちのコントロール下に置こうとすることは、その命が生きている領域を侵害することを意味しているのかもしれません。

 

 

 

私たちの内にある《強欲と悪意》

 

 さて、冒頭に猫のお話をしたのは、命とは本来コントロールできないものであることを確認したかったからです。私たちは日々の生活の中で、気が付くとそのことを忘れてしまっていることを思わされます。私たちは気が付くと、対象を支配し、コントロールしようとしてしまうものです。それはきっと誰しもがそうでありましょう。

 

 イエス・キリストは、人は心の中に《強欲と悪意》を隠しもっているのだと述べています。《実に、あなたたちファリサイ派の人々は、盃杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている(ルカによる福音書1139節)

表面上はいかにもいい人を装っているが、その内面は《強欲と悪意》に満ちている、と厳しく指摘していらっしゃるのですね。元来の文脈はファリサイ派と呼ばれる人々への批判として語られたものですが、私たち一人ひとりの率直な姿を指摘したものだと受け止めることができるでしょう。

 

 対象を自分の意のままに支配し、コントロールしようとする《悪意》は、多かれ少なかれ、誰しもの心の内にあるものです。そうして対象を自分の所有物にしてしまおうとする《強欲》もやはり私たちの内に存在しています。

 

 この何十年も喫緊の課題であり続けている環境問題も、この《強欲と悪意》が関わっています。地球温暖化をはじめとする環境問題は、突き詰めてゆくと、私たちの《強欲と悪意》が関係している、それらによって引き起こされていると言えるのではないでしょうか。私たち人間が自然界の一部であることを忘れ、自然界を意のままにコントロールし、所有しようとした結果、様々な問題が引き起こされている現状があります。

 

 この問題は、私たちの人間関係においても当てはまることでしょう。対象を支配し、コントロールしようとすることは、私たちの人間関係において絶えず起こり続けていることです。人間関係において何か問題やトラブルが生じるとき、多くの場合、私たちの内にあるこの《強欲と悪意》が関わっているのではないでしょうか。

昨今切実な問題として取り上げられているハラスメントの問題も、私たちの内にあるこの《強欲と悪意》が深く関係しています。ハラスメントの本質にあるものもまた支配とコントロールであるからです。

 

 

 

命の尊厳

 

他者を支配しコントロールすることはゆるされない――。私たちは今一度この視点に立ち戻る必要があることを思わされます。それは私たち人間関係においてもそうですし、他の生き物たちに対してもそうです。

 

聖書は、神がこの世界の一つひとつの存在を、一つひとつの命をお創りになったことを伝えています。そうしてお造りになったすべてのものを「極めて良い」ものとして祝福して下さったことを伝えています。創世記131節《神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった》。

命は、神ご自身がお創りになったもの。私たちが自由にすることはできない、かけがえのないもの。命は、私たちが支配し、コントロールすることは本来ゆるされていないものなのです。

 

私たちが一方的に侵害してはならない領域、それを本日は「尊厳」という言葉で呼びたいと思います。尊厳とは言い換えると、「かけがえのなさ」ということです。この世界には、神さまが与えて下さっている「命の尊厳」の領域があります。

 

この命の尊厳への感受と対極にあるものが、先ほど述べた《強欲と悪意》であるでしょう。命のかけがえのなさへの感受性を見失い、対象を自分にとって都合の良い所有物としか見ないときとき、私たちは時に大きな暴力を振るってしまう場合があります。自分では気づかない内に相手の尊厳を侵害し、深い傷を負わせてしまう場合があるのです。

 

主に在って一つなる共同体として、いま私たちは神さまがお与え下さった命の尊厳について、改めて受け止め直すことが求められているように思います。

 

 

 

誕生して間もない頃のキリスト教会

 

 本日の聖書箇所である使徒言行録43237節は、誕生して間もない頃の教会の様子を私たちに伝えています。冒頭の32節には次のように書かれていました。《信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた》。

 

 誕生して間もない頃の教会は、心も思いも一つにするのみならず、持ち物をみなで所有していたようです。財産を私有するのではなく、共有のものとしていたのですね。現代に生きる私たちはこの部分の記述をそのままに実践することはもはや難しい部分がありますが、当時の人々が「所有することへの欲求」から自由になっている点には学ぶことが多々あるように思います。

 当時の一部のクリスチャンたちは、財産を占有することの欲求から解放され、自由になっていました。そしてそのことは、他者を自分の所有物にする欲求から解放されることともつながっていたでしょう。

私たちはいかにしたら対象を支配しコントロールしようとする《強欲と悪意》から自由になってゆけるのか。そのための一つのヒントを、原初の教会の在り方から私たちは学んでゆくことができるかもしれません。

 

 

 

「愛すること」を神さまに祈り求める歩み

 

フランスの思想家シモーヌ・ヴェイユは、《他の人たちがそのままで存在しているのを信じることが愛である》と記しました(『重力と恩寵』、ちくま学芸文庫、田辺 保訳、1995年、109頁)。いま目の前にいる人をあるがままに受け止め、尊重しようとすることが愛である、ということでしょう。

 

愛をいつも心に留めておきたいと思うと同時に、なかなか愛を実践することができないのが私たちです。

愛とは反対に、相手をあるがままに受け止めることができず、相手を自分の思い通りにしようとしてしまう。自分の期待通りに相手を動かそうとし、そして相手がそのように動かなかったら激しく怒りをぶつけてしまう。私たちは誰しも多かれ少なかれ、他者を支配しコントロールすること、他者を自分の所有物にすることへの強烈な欲求を心の内に隠し持っています。

 

そのような想いが生じること自体が悪いことなのではありません。人として生きている限り、そのような欲求はどうしても生じてしまうものです。それは私たちの意志によって簡単に消すことができるようなものではありません。だからこそ私たちは悩み、苦しみ続けています。

 

私たちにできることは、その葛藤の中で、のっぴきならない状況の中で、それでも立ち止まってみること、そして祈りの中で、自らの心に問いかけてみることではないでしょうか。「自分はいま、相手を神さまからの尊厳をもった存在として、大切にすることができているだろうか」、「自分はいま、目の前にいる相手をかけがえのない存在として、愛することができているだろうか」……と。心の内の欲求のままに行動するのではなく、祈りの中で立ち止まり、自らの在り方を顧みることが重要です。そうして神さまに助けを祈り求めることが重要です。

もしも自分が何らかのかたちで相手の主体性を奪ってしまっていたり、相手の意に反して自分の想いを押し付けてしまっているのだとすると、相手を尊厳をもった存在として大切にできていないことになります。

 

相手をそのままに受け止めることがなかなかできない私たち。その悩みや葛藤に押しつぶされそうになりつつ、それでも、「愛すること」を祈り求める歩みにこそ、貴いものがあるように思います。愛することができるようにと神さまに祈り求めるとき、すでに私たちは愛の道を歩み始めています。

 

私たちが互いの尊厳を重んじ、愛をもって歩んでゆくことができますよう、主の助けを祈り求めたいと思います。