2021年8月1日「平和の福音」

202181日 花巻教会 主日礼拝

聖書箇所:使徒言行録92631

平和の福音

 

 

首都圏3県と大阪府に緊急事態宣言が発出

 

明日82日より、緊急事態宣言の対象地域に千葉県、埼玉県、神奈川県、大阪府が加えられることが決定されました。期限は831日まで。すでに発出されている東京都、沖縄県も期限が延長されることとなりました。また、北海道、石川県、京都府、兵庫県、福岡県にまん延防止等重点措置を適用することも決定されました。私たちが生活する岩手県においてもこの1週間、感染が増加傾向にあります。

引き続き感染予防に努めると共に、感染した方々の上に主の癒しがありますように、医療に従事している方々の上に主のお支えがありますように、一人ひとりの健康と生活とが守られますように、ご一緒に祈りを合わせてゆきたいと思います。現在の感染拡大状況が少しでも収束へと向かうよう、切に願うものです。

 

 

 

平和聖日

 

本日はご一緒に平和聖日礼拝をおささげしています。私たち花巻教会が属する日本キリスト教団は毎年8月の第1週の日曜日を平和聖日と定めています。共に平和について考え、平和への祈りを新たにする日です。

 

 本日は週報の他に、教区で作成した『「平和聖日における祈り」のお願い』の用紙を皆さんにお配りしています。今年度の祈りの課題も記されていますので、どうぞ後でご覧ください。

 

 二つ目の祈りの課題として、《原発及び再処理工場等の『核燃料サイクル』への依存をやめ、原発に頼らない国作りのために》が挙げられています。私たちの属する奥羽教区(青森県・秋田県・岩手県で構成)には、六ケ所村の再処理工場(プルトニウムを取り出すことを目的としている施設)もあります。核燃料サイクルの問題は私たちの暮らしとも直結している、喫緊の課題です。

 先月の720日、八戸北伝道所牧師の岩田雅一先生が逝去されました。岩田先生は長年に渡り、核燃料サイクル問題に取り組み続けて下さった方です。私も一度、有志の皆さんと共に岩田先生に六ケ所村をご案内いただいたことがありました。岩田先生のこれまでのお働きに心より感謝すると共に、先生の想いを私たちも受け継いでゆかねばならない、と改めて思わされています。

 

 祈りの課題の最後には《天の神さまこそが有しておられる全き平和が、信仰者の祈りや働きを通しても地に広がること》とあります。私たちは神さまから、平和をこの地に実現してゆくための使命が与えられています。神さまの平和は、私たち一人ひとりの働きを通して、社会に広がってゆくのです。イエス・キリストは《平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる(マタイによる福音書59節)とおっしゃいました。私たちがそれぞれ、自分にできるところから、平和を実現するための役割を果たしてゆくことがますよう願います。

 

 

 

絵本『絵で読む広島の原爆』との出会い

 

『ズッコケ三人組』シリーズで知られる児童文学作家の那須正幹さんが、722日に逝去されました(享年79歳)。私も小学生の頃、『ズッコケ三人組』が大好きで、シリーズを夢中になって読んでいました。大好きなあまり、小学5年生の頃にファンレターを送ったこともあります。するとご丁寧にお返事を下さいました。郵便受けに那須さんからのお葉書を見つけたとき、飛び上がって喜んだことを覚えています。

いただいたお葉書にはファンレターへのお礼に続いて、「今度、広島の原爆の絵本が出ます。もし良ければぜひ読んでみてください」との言葉がありました。その絵本が出版されると、早速購入しました。『絵で読む広島の原爆』という絵本でした(文=那須正幹、絵=西村繁男、福音館書店、1995年)。いま皆さんにお見せしているのが、その絵本です。

那須正幹さんご自身も広島出身で、3歳のときに爆心地より3キロのご自宅で被ばくをされています。頭と足に軽傷を負ったとのことです。

 

『絵で読む広島の原爆』と出会ったことをきっかけとして、自分の内に少しずつ広島の原爆への関心が呼び覚まされてゆきました。この本が出版された年は1995年、ちょうど戦後50年の年でした。新聞やテレビでも盛んに戦後50年の特集が組まれていたことを記憶しています。

小学6年生だった私は、夏休みの自由研究で広島の原爆を取り上げました。当時私は大阪に住んでいましたが、母方の叔母が広島にいますので、叔母に案内してもらい実際に原爆ドームや原爆資料館(広島平和記念資料館)などを訪ねて歩きました。大阪に戻ると、撮った写真や自分の絵を織り交ぜながら、当時の私なりに理解した広島の原爆の全容をスケッチブック一冊にまとめました。もちろん、『絵で読む広島の原爆』を大いに参照させていただきました。

 

この小学6年生のときの広島訪問と自由研究はいまも私の中で大事な経験として残り続けています。核の恐ろしさを主体的に学び、「自分ごと」として考えてみる、その初めての経験であったかもしれません。

もちろん、戦争の悲惨さ、核兵器の恐ろしさは、それを実際に経験した方でないと分からないことです。私たちはそのすさまじい悲惨さ、恐ろしさを自分なりに想像することしかできません、しかし、そのように想像し、想いを馳せてみることが大切なのではないでしょうか。

自分がもしその人の立場だったら。自分がもしもそこにいたら。そのように想像してみることが、事柄を「自分ごと」として受け止めることに少しずつつながってゆくのだと思います。とりわけ他者の痛みを思い遣る、他者の痛みに対して想像力を働かせることが重要であるでしょう。

 

またそして、戦争と核問題は、私たち一人ひとりが当事者である、当事者になり得るものです。『絵で読む広島の原爆』が出版されてから16年後の2011311日、福島第一原発事故が起こりました。事故によって、天文学的な放射線が東日本の広範囲に降り注ぎました。いまも私たちはその影響にさらされ続けています。

 

私たちはある日突然、困難な出来事の当事者となることがある。そのことは、この度の新型コロナの感染拡大によって、私たちが改めて身をもって知ったことでもあります。だからこそ私たちは過去の歴史を学び、受け継いでゆくことが肝要であるのでしょう。そうして少しでも目の前にある問題を「自分ごと」として受け止め、自分にできることをしてゆくことが求められているのでしょう。私たち自身のため、そして未来の子どもたちのために――。

 

『絵で読む広島の原爆』を読み、広島の原爆を自由研究で取り上げたことを那須さんにもお手紙で報告しました。するとまた丁寧にお返事をくださいました。自由研究で広島の原爆を取り上げたことを喜んで下さり、「良い自由研究ができたことでしょう」とのねぎらいの言葉も寄せてくださいました。その後も何度か、那須さんとはお手紙のやり取りをしました。この度改めて小学生の頃のことを思い起こし、那須正幹さんへの感謝の想いと、敬意の念を新たにしております。

 

 

 

他者の痛みを思い遣る土台となるもの ~隣人愛の精神

 

先ほど、他者の痛みに対して想像力を働かせることが重要であることを述べました。その際、大切な土台となるものとして私が受け止めているのが、聖書の隣人愛の教えです。

イエス・キリストは最も大切な掟として、神を愛すること、隣人を愛することを挙げられました。《隣人を自分のように愛しなさい(マタイによる福音書2239節)、この隣人愛の教えは、隣り人を「自分と同じ人間として」大切にすることを伝えています。

この隣人愛の精神は、私たちが他者の痛みを思い遣る上での大切な土台となるものです。他者を自分と同じ一人の人間として受け止めることが、相手の立場に立ってものごとを考える姿勢にもつながってゆくと考えるからです。

 

 

 

恐れの感情

 

一方で、私たちが他者の痛みを思い遣ることを妨げるものもあります。その一つに、恐れがあるのではないでしょうか。恐れの感情は、時に他者への想像力を損ない、歪めてしまうことがあります。

 

恐れの感情が生じることは、生きてゆく上で不可欠・不可避なことです。生き物として、当然の反応であると言えるでしょう。恐れを引き起こす対象から自らが遠ざかる、または対象を遠ざけることによって、私たちは自分自身とその活動領域を守っています。

ただ、気を付けねばならないことは、私たちは対象をよく知らないまま、恐れを感じていることがあるということです。実は相手のことを良く知らないのに、やっかいな存在あるいは危険な存在として遠ざけ、さらには排除しようとしてしまうことが多々あるように思います。

そのような時、私たちはその相手に「敵」「(自分にとって)害のある存在」などのレッテルを貼り、自分の行為を正当化しようとします。差別の問題においても、この構造が要因の一つとしてあるのではないでしょうか。私たちは相手をよく知らないまま恐れ、相手をよく知らないままレッテルを貼っていることがあるのです。そのような状態の時、私たちの内にある他者への想像力はその働きをストップしてしまっています。

 

 

 

自分と同じ神に愛された人間であることを知る

 

本日の聖書箇所である使徒言行録92631節でも、キリストと出会って回心したパウロ(サウロ)を、はじめはエルサレムにいた弟子たちが恐れていたことが記されていました。26節《サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた》。洗礼を受ける前、パウロはキリスト教徒を迫害していたからです。弟子たちはパウロとは直接の面識はなかったけれども、その悪い評判を伝え聞いていて、彼がクリスチャンになったとは信じられずに恐れを感じていたのでしょう。エルサレムの弟子たちも、相手のことをよく知らないままに恐れ、レッテルを貼ってしまっていたのです。

 

この状況が変化するのは、バルナバという人物の行動によってです。バルナバはパウロを連れて使徒たち(主イエスの12弟子)のところに案内し、パウロの回心が真実なものであることを伝えました27節)。そのことによって、パウロは使徒たちや周囲の人々から理解されるようになり、主イエスの福音について恐れずに教えることができるようになりました。28節《それで、サウロはエルサレムで使徒たちと自由に行き来し、主の名によって恐れずに教えるようになった》。この28節からは、はじめはパウロ自身も恐れを感じていたことが読み取れます。仲間たちが自分に対して恐れを抱いていることを知り、パウロ自身も、恐れを感じてしまっていたのでしょうか。相手が自分のことを怖がっているのが分かると、私たち自身の内にも恐れや不安が生じるものです。

その恐れは、パウロと弟子たちが互いのことを知り、理解し合うことによって、少しずつ解消されてゆきました。そうして互いの間に愛と信頼が育まれてゆきました。パウロと弟子たちは、相手も自分と同じ一人の人間――自分と同じ神に愛された人間であることを理解していったのです。

 

教会において、相手を知るということは、相手を自分と同じように神に愛された人間であることを知ることが含まれています。いま目の前にいる相手を、神の目に大切な存在として受け止めることができたとき、私たちの心の内からは恐れが締め出されてゆくでしょう。《愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します(ヨハネの手紙一418節)

恐れではなく愛を私たちの土台として据えるとき、私たちの他者を思い遣る力、他者の痛みへの想像力もまた本来の働きを取り戻してゆくのではないでしょうか。

 

 

 

平和の福音を伝える

 

本日の聖書箇所において、教会の外にはパウロの命を狙っている人々がいることも記されています29節)。その意味で、パウロにはまだまだ困難な状況、平和ではない状況は続いてゆくことが示されています。しかしエルサレムの教会の内においては着実に平和の種が蒔かれようとしていました。

 本日の聖書箇所は次の一文で締めくくられています。31節《こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった》。エルサレム教会の平和は、やがて周囲にも波及していったことが分かります。私たちが目の前にいる人との間に平和を実現しようとするとき、それは少しずつ周囲にも波及してゆきます。

 

 

本日はご一緒に平和聖日の礼拝をおささげしています。私たちはそれぞれ、平和の福音を伝える役割を神さまから与えられています。平和の使者として、自分のこの足元から、できることを行ってゆくことができますように、聖霊なる主の支えと導きを祈り求めましょう。