2021年9月12日「人を分け隔てなさらない神」
2021年9月12日 花巻教会 主日礼拝
聖書箇所:ヤコブの手紙2章8-13節
「人を分け隔てなさらない神」
北海道胆振東部地震から3年、アメリカ同時多発テロから20年
先週の6日、北海道胆振東部地震から3年を迎えました。3年前の地震では最大震度7を観測、44名の方が亡くなられました。ご遺族の皆様の上に、被災した方々の上に主の慰め、お支えがありますよう祈ります。また、私たちも改めて次の地震への備えを意識してゆきたいと思います。
昨日11日、アメリカ同時多発テロから20年を迎えました。2001年9月11日、国際テロ組織「アルカイダ」が旅客機4機を乗っ取り、ニューヨークの世界貿易センタービルに2機が衝突、ワシントンの国防総省に1機が衝突、1機は農村地帯に墜落しました。飛行機2機が衝突した世界貿易センタービルでは、2977名の人が亡くなられました。皆さんも昨日は改めて当時のことを思い起こしていらっしゃったことと思います。
アメリカ同時多発テロの翌月、アメリカはアフガニスタンへの空爆を開始しました。アフガニスタン戦争は今年の8月まで続く、アメリカ史上最長の戦争となりました。同時多発テロの首謀者オサマ・ビンラディンをかくまっているとして、アメリカはタリバンとの交戦を開始したわけですが、20年を経て、アフガニスタンで再びタリバンが国家の実権を掌握したことは皆さんもご存じの通りです。この戦争は何であったのか、と多くの人が思っていることでありましょう。テロで警察官であった父親を亡くしたケイトリン・ランゴーンさんは、朝日新聞の取材に答え、《9・11は、憎しみと死をもたらした。なぜ、20年間もそれらが繰り返されてきたのか。そして結局、なにも達成されなかった》と語っています。戦争に踏み切る必要はなかったと強く思う、と(朝日新聞、2021年9月11日付、1面)。
また、世界貿易センターで勤務をしていた息子さんをテロで亡くした中村佑さんは、テロの翌月にアメリカがアフガニスタン空爆に踏み切ったことに対しては《無差別に命を奪うのはテロも空爆も同じ》と反対したとのことです。《米国もテロリストも正義を旗印にするが、本当の正義は人命や人権を尊ぶことではないか》。20年を経てタリバンがまた実権を握ったことを受けて、《力で抑え込んでも、争いはなくならない》との思いを強くしていると朝日の取材の中で語っています(同、33面)。
ご遺族の皆さまの上に、テロと戦争によっていまも心身に深い傷を抱えながら生活している方々の上に主の慰めがありますよう、ご一緒に祈りを合わせたいと思います。また《力で抑え込んでも、争いはなくならない》との言葉を胸に刻みたいと思います。イエス・キリストは《剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる》(マタイによる福音書26章52節)とおっしゃいました。憎しみはまた新たな憎しみを呼び、報復はまた新たな報復を招きます。憎しみの連鎖、報復の連鎖を私たちはいかにしたら断ち切ってゆくことができるのか、その平和と和解の道をご一緒に祈り求めてゆきたいと思います。
隣人愛の教え ~同じ一人の人間として
冒頭にお読みした聖書の言葉の中に、《隣人を自分のように愛しなさい》という言葉がありました。日本語としても定着している「隣人愛」という言葉は、この聖書の一節に由来しています。皆さんもよくご存じのように、イエス・キリストは最も大切な掟として、神を愛する教え(申命記6章4-5節)とこの隣人愛の教えを挙げられました。
《隣人を自分のように愛しなさい》。この隣人愛の教えはもともとは、旧約聖書のレビ記(19章18節)の中に記されているものです。この教えを私なりに言い直してみますと、「隣人を、あなたと同じ一人の人間として、大切にしなさい」となります。
「愛する」ではなく「大切にする」としたのは、この教えでは「好き」「嫌い」という心の中の感情よりも、相手を尊重するという具体的な行動が問われていると考えるからです。たとえいまは相手のことを心の中では好きになれなくても、それでも目の前にいる相手を自分と同じ一人の人間として尊重すること。同じ人間として、分け隔てなく接すること。少なくとも、相手のことが好きになれないからといって、その人を不平等に扱ったり、軽んじたり、尊厳を傷つけるようなことは決してしないこと。そのことを固く心に決めている姿勢が肝要であることを、この教えは私たちに伝えてくれています。
私たちの心の中にある感情自体は、無理やり変えることはできません。好きになれない相手を無理に好きになろうと自分に強制することは不可能なことですし、またすべきでもないでしょう。しかしその相手を、同じ一人の人間として尊重してゆくことはできます。私たちに問われているのはその姿勢なのではないでしょうか。
気が付くと人を分け隔てしてしまっている私たち
一方で、普段の生活を顧みます時、周囲にいる人々を自分と同じ一人の人間として見ることができていないことが多いことを思わされます。目の前にいる人もまた自分と同じように人格をもち、自分と同じように悩み喜びながら生きているという当たり前のことを、つい忘れがちになってしまうのですね。時に、周囲の人々が自分にとって「敵」のように見える時もあるかもしれません。または、人格のない存在に見える時もあるかもしれません。私たちはなかなか、目の前にいる人を同じ人間としてまことに尊重することは難しい。自分の身内だけ、自分と意見や気の合う人にだけ親切にしてしまうこともあるでしょう。気が付くと人を分け隔てしてしまっている私たちです。
さきほどお読みしたヤコブの手紙の中にも、そのような私たちに対する厳しい言葉が記されていました。《もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。/しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます》(ヤコブの手紙2章8-9節)。
「隣人を愛する」と口では言っていても、実際の振舞いがその言葉と相容れないものであるのなら意味がないと手紙の著者は率直に指摘をしています。
この手紙が書かれた当時、教会の中には、「隣人を愛する」と言いながら、実際には人を分け隔てしている人々がいたようです。具体的な例として、教会の会堂に立派な身なりの人が入ってきたら尊重するけれども、貧しい身なりの人が入ってきたら、軽んじる(1-4節)振る舞いをする人々が教会の中にいたことが挙げられています。確かに、「隣人を愛する」と言いながら、自分にとって都合が良さそうな人だけを重んじ、そうではない人々を軽んじているなら、隣人愛を実践していることにはなりません。
憐れみ ~人の痛みを分かろうとする心
本日の聖書箇所において、隣人を愛する上で大切なものとして挙げられているのが「憐れみ」です。13節《人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです》。
カトリックのフランシスコ会の本田哲郎神父はご自身が翻訳された聖書において、憐れみを「人の痛みが分かること」と訳されています。憐れみの心をもつこととは、すなわち、人の痛みが分かる心、分かろうとする心を持つこと。そう受け止め直してみると分かりやすいのではないでしょうか。
隣り人を、自分と同じ一人の人間として愛するために大切なこと。それは、同じ人間として、その人の痛みを理解しようとすること。もしも自分が相手の立場だったら、自分が同じような状況だったら――そのように想像力を働かせることにより、目の前にいる人がまた新たな姿で立ち現れてくることでしょう。
相手が自分と同じ人間であるということは、目の前にいるその人も自分と同じように人格をもち、自分と同じように日々悩み喜びながら生きているということです。自分と同じように痛みを感じ、日々懸命に生きている、ということです。私たちは時にこの当たり前のことを忘れてしまうことがあるように思います。そのことを忘れてしまうとき、私たちは時として自分の都合によって、人を分け隔てしてしまう。あるいは、隣人に対して非人道的な振る舞いを――自覚的にまたは無自覚に――行ってしまうのです。
他者の痛みを理解しようとする姿勢の大切さを、改めてご一緒に心に留めたいと思います。
神さまの目から見て、一人ひとりが貴いという真理を土台とし
「隣人愛」を実践するために、私が大切であると信じるもう一つのこと。それは、神さまの目から見て、一人ひとりがかけがえなく貴いという真理です。神さまは、私たちを分け隔てなさらない(ローマの信徒への手紙2章11節)。神さまこそは私たちに憐みをもって対峙して下さっている方です。主イエスはこの真理と福音を私たちに伝えて下さっています。
この主のまなざしに私たちのまなざしを合わせてみる時、私たちは少しずつ、目の前にいる人も自分と同じ一人の人間――またそして、自分と同じ神に愛された存在であることが少しずつ分かってきます。自分と同じ、神さまの目から見て、かけがえのなく大切な人であるのだということが分かってきます。
どうぞ私たちが痛みに対する感受性を取り戻してゆくことができますように。また、神さまの目から見て、一人ひとりが貴いという真理を土台とし、私たちも互いをかけがえのない存在として見つめ、尊重し合ってゆくことができますようにと願います。
本日はこれから、S・Hさんの洗礼式を執り行います。神さまがSさんのこれまでの歩みを支え、今日この日まで導いて下さったことを心より感謝いたします。どうぞSさんのこれからの新しい歩みの上に神さまの祝福がありますよう、私たちがキリストの愛の教えに則り、互いに尊重し合い支え合いながら歩んでゆくことができますように祈ります。