2021年1月24日「宣教の始まり」

2021124日 花巻教会 主日礼拝

聖書箇所:マタイによる福音書41825

宣教の始まり

 

 

マタイによる福音書41825節《イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。/イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。/二人はすぐに網を捨てて従った。/そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。/この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。/

イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。/そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。/こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った

 

 

 

「あなたは悪くない」という声かけを

 

 新型コロナウイルスの感染拡大に歯止めがかからず、皆さんも不安の中を過ごしていらっしゃることと思います。静岡県や都内ではイギリスで見つかった変異型のウイルスが確認されたと報道されていました。花巻市内でもクラスターが発生しています。いま療養中の方々の上に主の癒しがありますように、一人一人の健康と生活とが守られますようご一緒に祈りを合わせてゆきたいと思います。

 

 一昨日、新型コロナに感染し、自宅で療養しておられた東京都の30代の女性が自ら命を絶ったとの悲しいニュースが報じられました。「迷惑をかけて申し訳ない」という内容のメモが残されていたとのことです。この出来事を受け、東京都の小池知事も「健康だけではなく心のケアを求められていると強く感じた」とおっしゃっていました。

現在、人々の心のケアが――特に、新型コロナに感染した方々の心のケアが喫緊の課題となっています。感染した方に対して、「あなたは悪くない」という言葉をかけること、また互いに「あなたは悪くない」と言葉をかけあうことを意識的に行ってゆく必要があることを改めて思わされています。周囲の人が繰り返し「あなたは悪くない」と声をかけることの重要性が現在、さらに増していっているように思っています。

 

 私事になりますが、先週、フィッシング詐欺メールにひっかかってしまいました。スマホのSMS(ショートメール)に不在通知を装ったメールが届き、詐欺に気づかずにクリックしてしまったのです。すると、グーグルChromeというアプリにそっくりな画面が出てきて、アップデートする必要があるとあったので、うっかり本物だと勘違いし、googleアカウントの個人情報を入力してしまいました。

 その直後、知らない人からたて続けに電話がかかってきました。私のことを宅配業者だと思っている電話でした。どうやら私の携帯番号で、見知らぬ方々に不在通知を知らせるショートメールが届いてしまっているようなのです。明らかにおかしいと思い、ネットで調べてみると、先ほどクリック・入力してしまった不在通知メールは、現在被害が多発しているフィッシング詐欺メールであったことに気が付きました。そして私のスマホが乗っ取られてしまい、勝手に色々な人に同じ内容の詐欺メールを送信してしまっていることに気づきました。花巻警察署にも連絡し、担当の方にアドバイスをいただきながら、とりあえずスマホを強制的に初期化することで対処をしました。皆さんも不在通知を知らせる内容のショートメールが来ても、決してクリックしないようお気を付けください。

 

 それから間もなくして友人に用事があって電話をしたのですが、フィッシング詐欺メールにひっかかりスマホが乗っ取られてしまった旨を伝えると、「大変でしたね。それにしてもそんな風に人を騙すなんて、悪い人たちですね」という趣旨のことを言ってくれました。その言葉を聞いて、私はハッとしました。(そうか、悪いのは確かに、騙した人たちの方だな)、と。

その言葉を聞くまでは、そのような詐欺メールに引っ掛かってしまった自分が「悪い」と思ってしまっていたのです。少し考えたらおかしいとすぐ気づくような詐欺に引っ掛かってしまった自分を恥ずかしく思い、責める気持ちが心のどこかにありました。でも悪いのは騙された人ではなくて、騙した人の方ですよね。私も普段は当たり前のこととしてそう捉えていましたが、いざ被害にあってみると、「騙された自分が悪い」と思ってしまう自分がいることに気づきました。見知らぬ方々に迷惑をかけてしまい申し訳ない、そんなことをしてしまった「自分が悪い」という意識がありました。

 

 このことから思ったことは、新型コロナに感染した方々の中にはいま、「感染した自分が悪い」と思い自分を責めてしまっている人がたくさんいるだろう、ということでした(人から人へと拡大してゆく点においても、詐欺メールとウイルスは似ているところがあります)。周囲から冷たい対応を受けるだけではなく、他ならぬ、自分で自分を一番責めてしまっている。特に他の誰かに感染させてしまった人のその自責の念はどれほど激しいものだろう、と思いました。(あのとき外出しなければ。あのとき会食しなければ。あのときああしなければ……)、病院や自宅で療養している間、そのようにずっと自分を責め続けてしまっているのではないでしょうか。

けれども、たとえ本人がどれほど気を付けていたとしても、感染するときには感染するのがウイルスというものです。そもそも、ウイルスの感染という現象は、個々人の責任の範疇をはるかに超えています。だからこそ、先ほど申しましたように、「感染したあなたは悪くない」とのメッセージを私たちが互いに伝え合うことが非常に重要であると思います。感染したことも、感染させてしまったことも、その人のせいではない。私たちがなすべきことは、感染した方の体調が回復することを祈ること、互いに労わりあい、支え合ってゆくことです。

「あなたは悪くない」――そのメッセージを改めて伝え合ってゆきたいと思います。

 

 

 

ガリラヤ湖のほとりでの出会い

 

本日の聖書箇所は、パレスチナの北部にあるガリラヤ湖が舞台です。ガリラヤ湖は、上空から見ると楽器の竪琴(ハープ)のようなかたちをしています。その大きさは南北に21キロメートル、東西に13キロメートルで、湖のまわりに町が点在しています。福音書の舞台となるカファルナウムやマグダラ、ベトサイダなどはみな湖のすぐ近くに位置する町です。人々は舟にのって、町から町へ移動することができました。

ガリラヤ湖には多くの魚が棲んでおり、漁業もさかんです。本日登場するシモン・ペトロと兄弟アンドレは、このガリラヤ湖で漁業を営む漁師でした。

 

本日の聖書箇所は、イエス・キリストがこのガリラヤ湖のほとりを歩いておられる場面から始まります。ガリラヤ湖の北部に位置するベトサイダの町がおそらくその舞台であると思われます。その日、主イエスは丘を下って、湖のほとりを歩いておられました。

18節《イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった》。

主イエスは波打ち際で網を打っているシモンと兄弟アンデレの姿を御覧になりました。シモンというのは後のペトロのことです。これが、主イエスとペトロたちとの初めての出会いでした。

 

ペトロたちが行っていた網の打ち方は、おそらく湖に向かって網を投げるやり方であったのではないかと考えられます。周囲に重りがついた網は水の底に沈み、付近に泳いでいる魚を中に招き入れながら、岸に引き上げられます。主イエスはペトロとアンデレが湖に向かってちょうど網を投げるのを御覧になったのでしょう。

主イエスは二人に近づいてゆかれ、そしておっしゃいました。19節《わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう》。

突然の言葉です。まさにいまから漁をしようとしている二人に向かって、主イエスは「わたしについて来なさい」とおっしゃいました。「ちょっと用事があるから来てください」ということではなく、今までの人生に区切りをつけて、私について来なさい、というのです。初対面の相手に向かって突然、大きな決断を迫る言葉を、主イエスは投げかけられました。まるで網を投げ入れて魚を捕らえるように、主イエスはペトロとアンデレに向かって言葉を投げかけられました。

 

 

 

神の国 ~一人ひとりが大切にされている場

 

 主イエスがここで、二人を招き入れようとしているのは「神の国」です。主イエスはペトロとアンデレを神の国に招き入れようとしてされ、そうして、二人もまた人々を神の国に招き入れるため働く者としようとなさいました。「人間をとる漁師にしよう」という言葉には、「いまあなたたちが網を投げ、魚を網の中に招き入れようとしたように、これからは、人々を神の国に招き入れる漁師なる」とのメッセージが込められています。

 

「神の国」は主イエスが繰り返し口にされる、重要な言葉です(マタイによる福音書では《天の国》と表現されていますが、同じ意味の言葉です)。本日の聖書箇所の直前には、次の主イエスの言葉が記されていました。《悔い改めよ。天の国は近づいた》(17節)。この宣言と共に、主イエスの宣教が開始されることとなります。

 

 神の国は「神さまの支配(愛のご支配)が満ちる場所」と説明されることがあります。私なりの表現をしますと、「一人ひとりが大切にされている場」のことです。神さまの目にかけがえのない一人ひとりが大切にされている場、それが神の国なのだと受け止めています。

 私たちが互いに互いを大切にしてゆくとき、少しずつ、神の国は実現されてゆきます。神の国は私たちの働きを通して、この地に実現されてゆくものでもあるのです。ペトロたちが主イエスに弟子として招かれたように、神の国の実現のために、私たち一人ひとりもまた招かれています。

 

 

 

主イエスの「後ろ」に

 

本日の聖書箇所でご一緒に注目したいのは、主イエスの《わたしについて来なさい》という招きの言葉です。この言葉を原文に即して訳し直しますと、「わたしの後ろについて来なさい」となります。原文では、「後ろに」という言葉が入っているのですね。主イエスに従うとは、主イエスの「後ろに」つき従うことであることが示されています。

 

主イエスの「後ろ」を歩むとは、自分自身の利益のみを求めて生きるのではなく、神の国を第一として生きる、ということを意味しています。言い変えれば、自分だけではなく周りの人もまた大切にされるあり方、一人ひとりが大切にされる在り方を祈り求めて歩んでゆくことです。それが、主イエスの歩まれるその「後ろ」に従って歩んでゆくことであると本日はご一緒に受け止めたいと思います。

神の国は私たち人間の働きを通してこそ実現されてゆくものでありますが、と同時に、主イエスの「後ろ」を歩むことによって、実現されてゆくものとなります。自分さえよければいいのだと私たちが考えてしまう時、私たちは知らずしらず、主イエスの歩まれる「前に」出てしまって神の国の実現を妨げていることになるのではないでしょうか。

 

 

 

主の弟子として

わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう》――。この主の呼びかけに、ペトロとアンデレはまっすぐに応えました。20節《二人はすぐに網を捨てて従った》。主イエスの招きの言葉に従って、主イエスの「後ろ」を歩む生き方へとその一歩を踏み出しました。

現代の小説なら、この決意に至る二人の戸惑いや葛藤などが描かれることと思いますが、福音書は二人の内面はいっさい記していません。簡潔に、「二人はすぐに網を捨てて従った」とだけ記します。漁師にとってなくてはならない網をその場に残し、今までの生活を断ち切って、ペトロとアンデレは主イエスの「後ろ」に従っていったことが記されています。

 その後、同じく漁をしていたヤコブとヨハネの兄弟も主イエスに声をかけられ、舟と父親をそこに残し、主の弟子としての新しい人生を始めてゆくこととなります。

 

 

 

自分を大切にし、隣人を大切にし、神さまを大切にする道を

 本日はペトロたちが主の弟子となる場面をご一緒にお読みしました。主イエスの招きの言葉は、過去のある時に語られた言葉であるではなく、いまを生きる私たちにも語られているものであると受け止めることができるでしょう。

 

「わたしの後ろについて来なさい」――。それは必ずしも、私たちが現在取り組んでいる事柄を放棄することを意味しているわけではありません。ペトロたちは網を捨てて主に従ってゆきましたが、私たちにはそれぞれ生活の場があるのであり、必ずしもそれを放棄して主に従うことが求められているわけではありません。

重要なのは、先ほど申しましたように、「神の国を第一とする」、すなわち一人ひとりを大切にするその姿勢でありましょう。それぞれの生活の場において、それぞれの現場で、一人ひとりを大切にするあり方を祈り求めてゆくことが大切であるのだと思います。

 

一人一人を大切にする――そのことの中には、もちろん、自分を大切にすることも含まれています。新型コロナによって様々な影響を受けているいま、自分自身を大切にする姿勢がとても重要になっているのではないでしょうか。まず第一に、自分の心を大切にすること。自分の体を大切にすること。自分を労わってあげること。このことの重要性を改めて思い起こしたいと思います。自分を大切にすることは、決して自分勝手なことではありません。自分を大切にすることが、周囲の人々を大切にすることにもつながっています。

 

メッセージの冒頭で、「あなたは悪くない」と伝え合うことの重要性を確認しました。私たちの前におられる主イエスは私たちに向かって、「あなたは悪くない。あなたは神さまの目に大切な人」と語りかけて下さっています。自分を大切にし、隣人を大切にし、そして神さまを大切にする道をご一緒に歩んでゆきたいと願います。