2021年1月3日「苦しみと慰めを共に」

202113日 花巻教会 主日礼拝

聖書箇所:マタイによる福音書21323

苦しみと慰めを共に

 

 

マタイによる福音書21323節《占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」/ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、/ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。/さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。/こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。/「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、/慰めてもらおうともしない、/子供たちがもういないから。」/ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、/言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」/そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。/しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、/ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった

 

 

 

新しい年のはじめに

 

新しい年のはじめ、ごいっしょに神さまに礼拝をささげることができますことを、感謝いたします。今年一年、皆さんの上に、主の恵みとお守りがありますようにお祈りいたします。

昨年2020年は新型コロナウイルスの感染拡大により、本当に大変な一年となりました。いまもその困難は現在進行形で続いています。どうぞ一人ひとりの健康と生活とが守られますように、これからもご一緒に祈りをあわせてゆきたいと思います。

 

 

 

慰め ~そばにいること

 

先ほどコリントの信徒への手紙二1311節を読んでいただきました。その中に、《わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように3節)との一文がありました。

 注目したいのは、主なる神さまが「慰めを豊かにくださる方である」と語られているところです。本日は聖書が語る「慰め」について、ご一緒に考えてみたいと思います。

 

私たちにとって、どのようなことが慰めでしょうか。聖書の原文のギリシャ語では、慰めは「パラクレーシス」という言葉です。「パラ」は「そばに」の意味を、「クレーシス」は「呼び寄せる」の意味を持っています。この二つを合わすと「そばに呼び寄せる」との意味になります。そばに呼び寄せ、その人の傍らに立つこと。傍らに立って、語りかけること。そのイメージが、この「パラクレートス(慰め)」という言葉の成り立ちに含まれていることが分かります。

ここに、私たちは一つのヒントを見出すことができるのではないでしょうか。その人の傍らにいて、語りかけること。あるいは、誰かが自分の傍らにいて、語りかけてくれること。これが私たちの慰めとなる。共通しているのは、「そばにいる」姿勢です。それが私たちの慰めにつながっているのです。

 

またそして、たとえ言葉はなくとも、そばにいてくれること、それだけで私たちの慰めになることもあります。皆さんも、これまで自分自身の歩みを振り返ってみて、誰かがそばにいてくれたことそのことが、何よりの慰めとなった経験をお持ちではないでしょうか。

もちろん具体的なアドバイスを受けたり、解決策を与えてくれたり、励ましの言葉を受けることで元気が出るということがありますが、たとえ何も言葉がなくても、一緒にいてくれることが私たちの慰めとなることがあります。言葉を超えて、その人の存在自体が、私たちに何ごとかを語りかけてくれているのです。

ギリシャ語の「パラクレーシス」が持っているニュアンスにヒントを得て、聖書が語る慰めとはまず第一に「そばにいる」ことであると本日はご一緒に受け止めてみたいと思います。

 

 

 

共にいる ~たとえ距離は離れていても

 

ただ、様々な事情でそばにいることができないことも私たちにはあるでしょう。特に昨年は新型コロナウイルスの影響により、互いに一緒にいたくてもそれができない状況が続きました。大切な人たちと会えないこと、同じ場に集まることができないことが、いかに私たちにとって辛いことか、そのことを私たちは改めて痛感いたしました。

そのような中、たとえ物理的な距離は離れていても、心の距離は遠くなってしまわないように、多くの新しいアイデアが考え出されました。オンラインを使ったコミュニケーションなど、様々な新しいコミュニケーションの手段も登場しました。昨年は人との距離が生じてしまった痛みを経験した年であると同時に、想いは物理的な距離を超えてゆく、その人の想いの強さを経験した年でもあったのではないでしょうか。

 

たとえそばにいることはできなくても、私たちは大切な誰かに寄り添うことができるでしょう。共に歩んでゆくことができるでしょう。

先ほど、慰めとはまず第一に「そばにいる」ことであると受け止めたいと申しました。たとえやむを得ない事情で「そばにいる」ことができなくても、私たちは「共にいる」ことができます。物理的な距離が離れていても、大切な誰かが確かに自分に寄り添い、共にいてくれると感じることができたとき、私たちは慰められるのではないでしょうか。生きる力が、勇気が湧いてくるのではないでしょうか。

 

 

 

インマヌエル

 

聖書が語る慰めとは、「そばにいること」「共にいること」であるとすると、パウロが記す「慰めを豊かにくださる」神さまとは、いつも「共にいてくださる」方であるということになります。

 

神さまが共にいてくださる方であることは、パウロだけはなく、聖書全体が証ししていることです。神さまはいつも私たちの傍らに立ち、語りかけてくださっている方である。いつも私たちと共にいてくださる方である。「神は私たちと共におられる」――これをヘブライ語にすると「インマヌエル」になります。インマヌエルは聖書が私たちに伝える最も大切なメッセージの一つです。

 

マタイによる福音書はイエス・キリストの誕生の場面において、このインマヌエルこそがイエス・キリストのもう一つの名前であると記しています。《見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。/その名はインマヌエルと呼ばれる123節)

インマヌエルを実現するために、人となって私たちの世界に来て下さったのがイエス・キリストである、そのようにマタイは語っています。神さまがいつも私たちと共にいてくださるようになるために。私たちがどんなときも自分は独りではないこと知るために、主イエスはこの世界に来て下さったのだ、と。

私自身、昨年のアドベントからクリスマスにかけて、インマヌエルの意味とその恵みを改めて実感しているところです。

 

 

 

幼児虐殺のエピソード ~母ラケルは慰めを拒む

 

メッセージの冒頭でお読みしたマタイによる福音書21323節はイエス・キリストの誕生の場面のすぐ後の場面です。平安と喜びに満ちた場面から一転、幼子イエスとその家族はエジプトに避難し、生まれて間もない幼子たちがヘロデ王によって殺されるという悲惨な場面が続きます。イエス・キリストの誕生後に挿入されているこの幼児虐殺のエピソードは、私たちの心に何か暗い影を落とすかのようです。

 

 幼児たちが殺されてしまった後、マタイは次の旧約聖書のエレミヤ書の言葉を引用します。1718節《こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。/「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、/慰めてもらおうともしない、/子供たちがもういないから。」

ラケルは創世記に登場する女性で、イスラエル民族の祖ヤコブと結婚した人物です(創世記291630節)。いわばイスラエル民族の母と呼ぶことができる人物で、母親を象徴する人物としてラケルが登場しているのだと受け止めることができるでしょう。ここでは、ラケルを象徴として、子どもたちを失った母親の嘆き悲しみが描写されています。

 

このエレミヤ書の一節では、母親のラケルが嘆き悲しみのあまり、《慰めてもらおうともしない》と記されているところが心に残ります。私たちは苦しい時、慰めを与えられることを求めますが、同時に、その苦しみがあまりに大きいとき、むしろ慰めを拒むことも起こるのではないでしょうか。

 

現代では、マタイによる福音書2章のこの幼児虐殺の出来事は史実として考えることは難しいとされています。それを知って、ホッとされる方もいらっしゃることでしょう。もちろん、マタイによる福音書の著者マタイは嘘を書いているのではありません。それは必ずしも歴史的な事実と合致しないかもしれませんが、マタイにとっての真実を記しているのだ、と受け止めることができます。マタイの信仰の目を通して捉えた、この世界の真実を記しているのです。本日の幼児虐殺の物語が私たちの心に残り続けるのは、私たちの生きる世界の真実を何らかのかたちで伝えているからではないでしょうか。

ラケルは子どもたちのことで泣き、もはや誰からも慰めてもらおうとはしません。愛する子どもたちがもうそばにいないからです。わが子を失った悲しみの中で、ラケルは他者から慰められることを拒みます。かつてエレミヤが聴き取ったこの嘆き悲しむ声は、いまも、私たちが生きる世界のあちこちで上がっているのではないでしょうか。

 

 

 

 

隠された後半部

 

マタイが引用しているエレミヤの預言には、続きがあります。マタイが引用しているのは半分だけであり、実際には次のような言葉が続きます。《主はこう言われる。/泣きやむがよい。/目から涙をぬぐいなさい。/あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。/息子たちは敵の国から帰って来る。/あなたの未来には希望がある、と主は言われる。/息子たちは自分の国に帰って来る(エレミヤ書311617節)

 

 私たちに慰めと希望を与えてくれるこの後半部は、本日の聖書箇所においてはあえて隠されています。マタイはおそらく意図的に後半部は記さずにあえて前半部だけを記したのでしょう。隠された後半部分はその後に続く出来事――イエス・キリストの十字架と復活の出来事を通して実現されるものであるからです。

 

 マタイによる福音書を締めくくるのは、復活の朝の出来事です。十字架の死から三日目に、残された人々はよみがえられた主イエスと出会います。驚きと大いなる喜びの中で、マリアたちはしっかりと主イエスの足を抱きしめます(マタイによる福音書28810節)。《主はこう言われる。/泣きやむがよい。/目から涙をぬぐいなさい。……》。エレミヤの預言の後半部がついに実現しました。私たちの目から涙がぬぐわれる日が来る、との預言が実現したのです。

 

 

 

共にいる ~死の陰の谷を行くときも

 

私たちにとって、大切な誰かがそばにいてくれること、共にいてくれることが慰めだと前半で申しました。その慰めを私たちから奪うもの、それが死であるということができます。死の別れほど、私たちが大切な人との大きな断絶・距離を感じるものはないでしょう。

私たちが生きてゆく中で出会うことのほとんどは、エレミヤの預言の前半部だけであるかもしれません。私たちの内にあるのはいまだラケルの嘆きであり、嘆き悲しみであるかもしれません。けれども聖書は、たとえ死をもってしても、インマヌエルなるイエス・キリストの慰めは失われることはないことを私たちに伝えています。なぜなら、イエス・キリストは死からよみがえられたからです。イエス・キリストが死からよみがえったように、私たちもまた復活の命に結び合わされているからです。

 

イエス・キリストのもう一つの名前はインマヌエル(神は私たちと共におられる)だと申しました。私たちが死の陰の谷を行くときも、主イエスは私たちと共にいてくださいます(詩編23編)。どんなときも――私たちと共に涙を流しながら――主は私たちと共におられます。そしてこの主イエスを通して、私たちは天にいる愛する人々とも結ばれています。どんなものも、この愛のきずなを断ち切ることはできないのだと信じています。

 新しい年の始まり、ここに集った皆さんの心に、インマヌエルなるイエス・キリストの恵みが届けられますようお祈りいたします。