2021年2月7日「あなたの願いどおりになるように」

202127日 花巻教会 主日礼拝

聖書箇所:マタイによる福音書152131

あなたの願いどおりになるように

 

 

マタイによる福音書152131節《イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。/すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。/しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」/イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。/しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。/イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、/女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」/そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。/

イエスはそこを去って、ガリラヤ湖のほとりに行かれた。そして、山に登って座っておられた。/大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえたので、イエスはこれらの人々をいやされた。/群衆は、口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を賛美した

 

 

 

「未来」のイメージ

 

皆さんは、「未来」という言葉を聞いて、どのようなイメージを思い浮かべるでしょうか。光り輝くイメージでしょうか。それとも、いまはそのような前向きなイメージを思い浮かべることは難しいでしょうか。

幼い頃は、私たちは未来に対して、希望に満ちたイメージを持っていたかもしれません。けれども、だんだんと年を重ねるにしたがって、未来について前向きなイメージを持てなくなくなってゆきます。それは生活してゆく中で、様々な困難な現実に直面してゆくからでもあるでしょう。

私たちがいま生きている現実は確かに、困難に満ちています。なかなか先のことに希望が持てないというのが、私たちの率直な想いなのではないでしょうか。特に現在、新型コロナウイルス感染拡大の困難のただ中にあって、どうしても悲観的な気持ちになってしまうことがあるでしょう。いまだ先のことが見えてこない状況の中で、私たちは現在、「希望がある」とはなかなか簡単には口にすることができない心境でいます。

 

 

 

運命論

 

 古代から人々の心を捉えてきた考え方に、「運命論(宿命論)」というものがあります。「この世界に起こる出来事は初めからそうなるように定められている、それを私たち人間の意志や力で変えることはできない」との考え方です。私たちの心が悲観的な気持ちで占められてしまうとき、その否定的な気持ちの結びつきやすいのがこの運命論ではないでしょうか。

 

 私たちの社会に問題が絶えないことは、大昔から同様であったでしょう。私たちが不条理な現実と遭遇することも、大昔から同様であったでしょう。そのような中、運命論が人々の心を捉えてきたのも理解できることです。

 たとえば、古代世界では、人の階級は生まれながらに決められていました。奴隷の家に生まれた人は生涯、奴隷として強制的に働かされました。それは生まれた時からそう定められているのであり、その境遇を変えることはゆるされませんでした。もちろん、奴隷制度ははっきりとした人権侵害であり、現代の社会においては決してゆるされてはならないものです。

 

このような身分制度の問題をはじめ、私たちは生きてゆく中で、さまざまな不条理と出会います。そのような不条理な現実を、天が定めた宿命だとすれば、少しは受け入れることができるようになるのかもしれません。「仕方がない」ものとして受け入れ、微かにでも慰めを感じることもできるのかもしれません。「すべては運命なのだ」との考えは、確かに、現状を耐え忍ぶためには有効に働くことがあるでしょう。

一方で、「すべては運命なのだ」と受け入れることには、注意すべき点もあると思います。それは、運命論は、現状を変えてより良い未来を求めてゆくことにはつながってゆかない、という点です。先ほど奴隷制度を例に挙げましたが、運命論を受け入れてしまったままでは、そもそも人間の歴史に奴隷解放運動というものも起こり得なかったでしょう。

 

 

 

聖書は運命論に基づいて書かれていない……?

 

では、聖書はどうでしょうか。聖書は「神さまの計画」について記している書です。このことから、聖書は運命論的な視点に基づいて書かれているとの印象を受ける人もいるかもしれません。「この世界に起こる出来事は初めから神さまによってそうなるように定められている。よって私たち人間の意志や力でそれを変えることはできない」のだと。確かに、聖書の中にはそのようなニュアンスで書かれている物語もあります。

しかし一方で、聖書は、神さまが人間に「自由意志」を与えたことを語っています。神さまは、私たち人間に、自由にものごとを考え、自由に決定をすることができる自由意志をお与えになった。もしすべてのことが神さまによってはじめから決定づけられているのなら、そもそも私たちに自由意志が与えられていることの意味は失われてしまうのではないでしょうか。

 

 私自身は、「聖書は運命論に基づいて書かれてはいない」と考えています。むしろ、聖書は私たち人間の主体的な意志決定を重んじている書であると受け止めています。

この世界に起こる出来事は初めから神さまによってそうなるように定められているのではない。そうではなく、むしろ未来は私たち人間の態度によって刻々と変わってゆく。私たちが心の持ちようを変え、その生き方を変えてゆくことによって、私たちの未来もまた変わってゆく。どんなに困難な現実が目の前にあろうとも、私たちの内にはそれをより良い方向へ変えてゆく可能性が秘められているのだと受け止めています。

 

 

 

ヨナ書の一場面から ~未来はいまだ「白紙」

 

運命論とは異なる考え方をもって書かれている書の一つとして旧約聖書のヨナ書が挙げられるでしょう。簡単にそのヨナ書の該当場面を紹介したいと思います。

 

アッシリアの首都ニネベの町に住む人々は、神の目に悪い行いをし続けていました。神さまはニネベの人々の不義なる行いを嘆き悲しみ、主人公のヨナを通して町の人々に警告を発します。「あと四十日すれば、あなたたちの都は滅びるであろう」(ヨナ書34節)。その警告を聞いたニネベの人々自分たちの悪行を悔い改め、結果、ニネベは滅亡を免れます3510節)。このヨナ書の場面から、ニネベの未来は初めから定められているのではなく、そこに住む人々の主体的な意思に委ねられていたことを読み取ることができます。もしニネベの人々が「あと四十日すればニネベの都は滅びる」との宣告を運命として受け入れてしまったら、悔い改めは起こらず、本当にニネベは滅亡へと向かっていったかもしれません。

 

ヨナ書のこの一場面は、私たちが自分の心の向きを変え、生き方を変えてゆくことにより、未来もまた変わってゆくことを示しています。つまり、私たちの未来はいまだ「白紙」であるとも言えます。そのまっさらなページに何を書き込んでゆくかは、それは私たち一人ひとりの自由な意志に委ねられています。

 

 

 

主イエスとカナンの女性の物語

 

改めて本日の聖書箇所マタイによる福音書152128節をご一緒に見てみたいと思います。本日の聖書箇所に登場するカナンの女性は新たな未来を切り開いて行こうとする意志をもった人として、私たちの前に登場します。

 

物語の舞台となっているティルスとシドンは現在のレバノンの南西部に位置している地域です。ティルスとシドンがある地域は、ユダヤの人々からすると自分たちとは異なる宗教、文化をもつ人々が暮らしている地でした。主イエスはこの時、故郷を離れて外国の人々が住む町を訪れておられたのですね。

 

 この地方にたどり着くと、一人の女性が主イエスの前にやってきました。先ほどご紹介したカナン(フェニキア)の女性です。女性は主イエスに対し、《主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています22節)と訴えました。この女性には悪霊に取りつかれて苦しんでいるお嬢さんがいました。

ここでの《悪霊》が何を示すのか、現在の私たちにははっきりとは分かりません。何かの病気であったのかもしれません。女性は主イエスが娘に取りついている悪霊を追い出してくれるかもしれないという切なる想いをもって、主イエスのもとに駆けつけてきたことが分かります。

 

「主よ、どうか助けて下さい」と訴え続ける彼女に対し、主イエスは不可思議な返答をなされます。《子供たちのパンを取って子犬にやってはいけない26節)

どう解釈したらよいのか難しい言葉ですが、教会では伝統的に、ここでの《子供たち》とはユダヤの人々を意味し、《小犬》とは外国の人々を意味すると解釈してきました。《パン》は神さまの救いを意味しています。その解釈を踏まえて主イエスの発言を捉え直しますと、「まずユダヤの人々に救いを与えねばならない。ユダヤの人々から救いを取り上げて、外国の人々に与えてはいけない」となります。つまり、主イエスはここで女性の願いを間接的に斥けていることになります。女性はユダヤ人ではなく、外国人であるからです。

主イエスがなぜこのように突き放すような言い方をなさったのか、私たちにははっきりとは分かりません。その意図は分かりませんが、ここで福音書が記しているのは、それでも、女性はあきらめることをしなかったということです。

 

 

 

新たに書き変えられた「神さまの計画」

 

「神さまの救いはまず同胞のユダヤ人に与えられることになっている。外国人であるあなたがたの順番はまだ来ていない」。そうはっきりと宣告されたら、多くの人は「それならば、仕方がない」とあきらめてしまうのではないでしょうか。しかしカナンの女性はそれでもあきらめませんでした。それでもなお、主イエスにお嬢さんへの切なる想いを訴え続けたのです。

 

彼女は主イエスの言葉を受けて、さらに言葉を返します。《主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです27節)。女性はそう言って、先ほどの言葉の内容を、見事に肯定的な意味へと方向転換させました。「同胞の人々にまず救いの手を差し伸べねばならないのは、ごもっとものことです。しかし、外国人である私たちも同時に、その神さまの満ちあふれる恵みに与ることができるのだと私は信じています」と。

女性のこの言葉を受けて、主イエスはお答えになります。《婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように28節)。娘への切なる想いと神さまの恵みへの全幅の信頼が主イエスを動かし、女性の目の前に新しい未来を切り拓いたのです。そうして女性の娘は癒されました。「神さまの計画」とされていたことが、この瞬間、新しく書き変えられました。

 

 

 

現代の運命論に抗して

 

本日のカナンの女性の姿から、「神さまのご計画」とされていることにただ従順であるだけが、信仰者の姿ではないということを知らされます。天によって決定づけられていると思われることも、私たち人間の意志によって、修正され得ることであるかもしれないからです。私たちが大切な誰かのために懸命に祈り行動する時、決定づけられていたような現実が動き、より良い未来が切り拓かれてゆくということもまた起こり得るのではないでしょうか。

 

また、私たちの生きる社会では、一部の人々によって物事がすでに決定づけられているということが多々起こっています。私たちの主体的な意志とは関係なく、また私たちの意志に反して物事が決められ進められてゆくことが起こっています。「これはこういうことに定められています」と、ものごとが進められてしまっている現状があります。そのような中、多くの人が苦しめられ、そして泣き寝入りを強いられている現状があります。まるで一種の運命論に基づいて、社会が動かされてしまっているかのようです。

そのような問題ある現状を「仕方がない」ものとして受け入れてしまっているのだとしたら、私たち自身もまた、運命論にコントロールされていることになるでしょう。いま目の前に人々の尊厳がないがしろにされる現実があるのであれば、私たちはその現実を「仕方がない」ものとして受け入れてしまってはなりません。私たちは現代の運命論に抗ってゆかねばなりません。

 

 

 

あなたの願いどおりになるように

 

動かし難く決定づけられているように見える現実も、私たちの祈りに基づいた言動と、そしてイエス・キリストの助けによって動かされてゆきます。

主イエスはカナンの女性に対して、《あなたの願いどおりになるように》とおっしゃってくださいました。あなたが願っているとおりになるように――あなたが心から祈っていることが実現するようと祈ってくださったのです。あなたが心から願っていることを手助けするため、主はいまも共にいて、支えて下さっています。

 

 

私たちの生きる社会が、少しでも、より良いものとなってゆきますように。私たちの未来が、より良いものとなってゆきますように。私たちが大切な人々と共に、喜びをもってこの人生を生きてゆくことができますように、ご一緒に祈りを合わせてゆきたいと思います。