2021年3月14日「これはわたしの愛する子」

2021314日 花巻教会 主日礼拝

聖書箇所:マタイによる福音書17113

これはわたしの愛する子

 

 

マタイによる福音書17113節《六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。/イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。/見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。/ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」/ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。/弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。/イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」/彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。/一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。/彼らはイエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。/イエスはお答えになった。「確かにエリヤが来て、すべてを元どおりにする。/言っておくが、エリヤは既に来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。」/そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った

 

 

 

東日本大震災と原発事故から10

 

先週の311日、私たちは東日本大震災と原発事故から10年を迎えました。国内外で追悼の祈りがささげられたことと思います。

皆さんも改めて、これまでの10年の歩みを振り返っておられたことと思います。様々な想いが胸の内を去来する中で、胸の内にいまも言葉にならない想いがあることを意識した方もいらっしゃるかもしれません。県内で生活する多くの方々の心の中に、いまも言葉にできていない痛み、語ることができていない痛みがあるのではないかと思います。

 

岩手で生活していますと震災関連のニュースに日常的に触れる機会がありますが、全国的には今後、東日本大震災がニュースで取り上げられることはかなり少なくなってゆくことでしょう。とりわけ原発事故関連のニュースはほとんど報じられることがなくなってしまうのではないかと案じています。

 10年を一区切りにするのではなく、10年の区切りが過ぎたこれからも、互いに労わりあい、支え合ってゆきたいと思います。震災と原発事故により、いまも困難の中、大きな痛みの中にある方々の上に、主のお支えがありますようお祈りいたします。

 

 

 

新型コロナウイルスの世界的感染拡大から1

 

新型コロナウイルスの世界的感染拡大からおよそ1年が経ちました。2020年度は新型コロナの影響により、本当に大変な1年となりました。

 

岩手県はここ最近は比較的落ち着いた状況にありますが、ご存じのように首都圏では321日を期限とした緊急事態宣言が出されています。毎日新聞が実施した世論調査では、「321日以降も延長すべきだ」と答えた人は57%に上ったとのことです。いまも予断を許さない状況が続いています。

医療機関のひっ迫、経済的な打撃はもちろんのこと、長引く自粛生活で多くの方が疲弊していらっしゃることと思います。特に都心部で生活している方は自粛による疲れが限界近くまで達していると感じる方が多くいらっしゃるのではないでしょうか。

一人ひとりの健康と生活が守られますように、また少しずつでも、状況が収束へと向かってゆきますよう願うものです。

 

 

 

受難節 ~大切にされてきた三つのこと

 

私たちは現在、教会の暦で受難節の中を歩んでいます。本日は受難節第4主日礼拝をご一緒におささげしています。受難節はイエス・キリストのご受難と十字架を心に留めて過ごす時期です。

 

キリスト教会において伝統的に、受難節の時期に大切にされてきた三つのことがあります。断食、祈り、そして他者への支援(慈善)です。

まず一つ目の断食について。これはまったく食事をしないということではありません。たとえば受難節の時期、お肉やアルコールを控えることがなされることがあります。もちろん、皆がそのように必ずしも節制しなければならないわけではありません。大切なのは、イエス・キリストのご受難を思い起こし、そのお苦しみにつながろうとする姿勢でありましょう。

二つ目の祈りについて。これは、皆さんもその通りだと納得されることでしょう。主のご受難を思い起こし、祈りつつ過ごすこと、これは受難節においてとても大切な要素です。

三つ目の他者への支援については意外に感じる方もいらっしゃるかもしれません。受難節というと部屋に籠って静かに祈りをささげるイメージがあるかもしれませんが、キリスト教では伝統的に、受難節の時期に積極的に他者を支援することが推奨されてきました。家の中で静かに過ごすだけではなく、助けを必要としている人々のために自分にできることをすることが大切なこととされてきたのですね。

 

先ほど東日本大震災と原発事故から10年が、新型コロナウイルス感染拡大から1年が経過したと述べました。震災と原発事故によっていまも多くの方が困難の中にいます。また新型コロナの世界的な感染拡大によっていま、多くの方が困難の中にいます。また私たち自身の内にも様々な辛さや苦しみ、悲しみがあるでしょう。

このような困難のただ中にいるからこそ、私たちは互いに支え合い、配慮し合ってゆくことが求められているのではないでしょうか。私たちも身近なところから、支えを必要としている人のために自分にできることを行ってゆきたいと思います。

 

 

 

山上の変容

 

本日の聖書箇所は「山上の変容(主の変容)」と呼ばれる場面です。イエス・キリストがペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子たちと共に山に登られた際、主のお姿が変わり、顔が太陽のように輝き、その服が光のように白くなったことを福音書は記しています。《イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった(マタイによる福音書172節)。何とも不思議な場面ですね。正教会では、この「山上の変容」はクリスマスやペンテコステと共に、祭日の一つとして祝われているとのことです。

 

主イエスが弟子たちと共に登られた山がどの山であるのかは分かりませんが、伝統的には「タボル山」とされてきました。タボル山はパレスチナにある、標高575メートルのなだらかなお椀型の山です。

 

また福音書は、主のお姿が太陽のように光り輝く中で、モーセとエリヤが現れて主と語り合っていたと記します。《見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた3節)。モーセとエリヤは、旧約聖書を代表する人物です。

弟子のペトロは何が起こっているのか分からぬままに、3人に話しかけます。《主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです4節)

 ペトロがこう話している内に、光が輝く雲が彼らを覆いました。すると、光り輝く雲の中から、次の声が聞こえてきました。《これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け5節)

 弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れを感じます。主イエスは近づき、彼らに手を触れておっしゃいました。《起きなさい。恐れることはない7節)。弟子たちが顔を上げてみると、主イエスのほかにそこには誰もいませんでした。

 

 

 

復活の朝の光をあらかじめ指し示すものとして

 

 先週の礼拝では、本日の聖書箇所の直前の場面であるマタイによる福音書161328節をご一緒にお読みしました。そこでは、イエス・キリストのご自分の死と復活を予告する場面が記されていました。またご自身の受難を予告された後、主イエスは弟子たちに、《わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい1624節)とおっしゃったことも記されていました。

 本日の聖書箇所は、先週のこの場面と密接に結びついています。先週の場面において主のご受難と十字架が予告されているのだとすると、本日の場面では主のご復活があらかじめ示されているのだと理解することができます。太陽のように光り輝く主のお姿――それは、復活の朝の光をあらかじめ私たちに指し示すものである、と本日はご一緒に受け止めたいと思います。

 

 

 

必ず朝は来る ~《これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け

 

 聖書は、十字架刑によって亡くなったイエス・キリストが三日目に復活したことを語ります。日曜日の朝、イエス・キリストが暗い墓の穴から立ち上がられた。暗い墓穴の中に、復活の光が輝き出たことを語っています。

 私たちの周囲をどれほど暗闇が覆っていようとも、必ず朝は来る。朝の光は必ず私たちを照らし出すことを語っています。本日の聖書箇所は、この朝の光をあらかじめ私たちに指し示してくれているのだとご一緒に受け止めたいと思います。

 

 復活の朝の光に全身を包まれる中で、弟子たちは神さまの言葉を聴きました。《これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け》。

 神の愛する独り子主イエスは、いま、私たちのすぐそばで、「朝は必ず来る」ことを語りかけて下さっています。復活の朝は必ず訪れる――。朝の光は必ずや私たちの全身を照らし出すことを約束して下さっています。

 

受難節のこの時、主のご受難と十字架を心に留めつつ、そして復活の朝の光を希望としつつ、共に歩んでゆきたいと願います。