2022年1月16日「弟子への招き」
2022年1月16日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:エレミヤ書1章4-10節、使徒言行録9章1-20節、マルコによる福音書1章14-20節
「弟子への招き」
大学入学共通テスト、阪神・淡路大震災から27年
先週は雪の多い一週間でした。特に日本海側では記録的な大雪となり、生活や交通にも様々な支障が出ています。私たちの住む花巻市も日本海側と比べると降雪量は少ないものの、それでも連日、たくさん雪が降りました。皆さんも家の周りの雪かき作業が大変だったのではないでしょうか。週の後半は晴れ間が続き、少しホッとしているところです。
昨日と本日にかけて、大学入学共通テストが行われています。大雪による交通の影響やオミクロン株の感染拡大が不安視される中での、受験です。また昨日は東大の試験会場の近くで受験生が刃物で切り付けられるという痛ましい事件がありました。受験生の皆さんの心身の健康が支えられ、これまで準備してきた成果を発揮し、最善を尽くすことができますように祈ります。
明日1月17日、阪神・淡路大震災から27年を迎えます。大震災では、関連死を含め6434人の方々が亡くなられました。被災をした方々の上に、いまも深い悲しみを抱えながら懸命に生活をしておられる方々の上に、主のお支えがありますように祈ります。今後も、国内ではまた新たな巨大地震が発生することが予想されています。昨晩はトンガ沖で起きた海底火山噴火の影響で、8県の市町村で、およそ23万人に津波警報と注意報に伴う避難指示も出されました。県内でも津波警報が出され、警報の音にびっくりして目を覚ました方も多くいらっしゃったことと思います。いまのところ大きな人的な被害は報告されていないとのことですが、改めて、私たちも日頃から災害への備えをしてゆきたいと思います。
「悔い改め」という言葉
冒頭でお読みしましたマルコによる福音書1章14-20節の中に、次の言葉がありました。15節《時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい》。イエス・キリストが公の活動を開始するにあたり、最初に発された言葉です。
この中に、「悔い改め」という言葉が出て来ました。「悔い改め」は、教会の中でも耳にすることがある言葉ですね。「悔いる」という言葉が入っていますので、「自分のこれまでの悪行を悔いて、心を入れ替えること」を指す言葉として、この言葉を受け止めている方もいらっしゃることと思います。実際、キリスト教でもそのような意味でこの言葉が用いられることがあります。
ただ、もとのギリシャ語の言葉においては、必ずしも「悪行を悔い改める」というニュアンスが含まれているわけではありません。日本語で「悔い改め」と訳されている言葉は、もともとのギリシャ語ではメタノイアという言葉です。この言葉がもつ元来の意味は、「心の向きが変わる」です。すなわち、「方向転換」を意味する言葉です。
では、何に対して心の向きが変わるのか。それは、神さまの方へ、です。私たちの心が「自分自身から神さまの方へ方向転換する」ことを表す言葉として、マルコ福音書はこのメタノイアを用いています。
「回心」と「改心」の違い
「回心」という言葉がありますね。「心が回る」と書いて回心。つまり、方向転換としての、回心です。もう一つ、同じ読みで「改心」という語があります。「心を改める」と書いて、回心です。この二つ目の改心には「悪行を悔い改める」意味合いが含まれることもあるでしょう。
本日のイエス・キリストの言葉において言われているのは、前者の方の「回心」です。私たちの心が、神さまの方へ向き直ることとしての回心。この回心が、聴く者たちに対して呼びかけられています。
先ほど礼拝の中で司式の方に使徒言行録9章1-20節を読んでいただきました。「目からウロコのようなものが落ちる」(9章18節)の表現で良く知られる、いわゆる「パウロの回心」の場面ですが、この場面で描かれているのも、方向転換としての回心です。キリスト教徒を迫害していたパウロは、復活したイエス・キリストと出会い、心の向きを変え、新たに生き方を方向転換して、キリスト教徒となりました。
心が過去から現在へと向き直る
聖書における「悔い改め」とは、私たちの心が「自分から神さまの方へ向き直る」ことであることを確認しました。言葉で説明するのは簡単ですが、しかし、それを私たち自身が実際に実行するのはなかなか難しいことであるようにも思えます。それまで当たり前のものとしていた心の状態を変えてゆくことは、私たちにとって大変なことであるからです。パウロのように、劇的な経験によって一気に心の向きが180度方向転換するということは、滅多に起こらないのではないでしょうか。むしろ私たちは、少しずつ、心の向きを変えてゆくことが大切なのかもしれません。
そのために、たとえば、「悔い改め」ということを、まず自分の心が「過去から向き直る」こととして捉えてみたらいかがでしょうか。心が「神さまの方へ向き直る」こととしていきなり捉えるのではなく、自分の心が「過去から現在へと向き直る」こととして、まずこの悔い改めという言葉を受け止めてみると、どうでしょうか。
後悔と反芻思考
私たちは日々の生活の中で、さまざまな失敗をします。「どうしてあんなことをしてしまったのだろう」、「どうしてあんなことを言ってしまったのだろう」と、思い返すと今も落ち込んでしまうような失敗を、私たちは即座に幾つも思い出すことができることと思います。
そのような過去の失敗や過ちの記憶を一度思い出し始めると、私たちの頭の中はどんどんそのことでいっぱいになっていきます。心からは穏やかさが失われ、代わりに不安や無力感が生じてきます。自分にとってこの後ろ向きな思考は不快であるのに、でも、そのことを考え続けずにはおられません。
すでに起きてしまった過去を繰り返し思い起こしてしまう――私たちはしばしば、この「後悔」という状態に陥ります。頭の中を過去の出来事がぐるぐると駆けまわり、それが離れてゆかない。過去のことを繰り返し思い起こすことを精神医学の用語では「反芻(はんすう)思考」とも言うそうですが(分かりやすく表現すると、ぐるぐる思考)、ネガティブなぐるぐる思考に陥っているとき、私たちの心と体からは、だんだんと健やかさが失われてゆきます。反芻思考があまりに持続化すると、場合によってはうつ状態へつながってしまうこともあります。
このように、私たちが過去の記憶に囚われすぎている状態は、私たちの心と体の健康に大きな負荷がかかることです。私たちの心が「過去から現在へと向き直る」ことは、私たち自身の心身の健康にとっても大切なことであると言えます。
自分を大切にすること
教会ではよく、「神さまのために」と言われます。何をするにあたっても、私たちは神さまのためにそれを行うのだ、と。宗教改革の時代には「ただ神に栄光のために(ソリ・デオ・グロリア)」との言葉がスローガンとして掲げられたこともありました。神の栄光のために働こうとするその姿勢は、もちろん素晴らしいし、信仰者にとってとても大切なものです。
と同時に、「自分を大切にする」姿勢も、私たちは忘れてはならないと思います。私たちは、自分自身をまことに大切にすることができたとき、神さまと隣人を大切にすることもまた、少しずつできるようになってゆくのではないでしょうか。
次のような言い方をすると少し語弊があるかもしれませんが、私たちが「心の向きを変える」ことは、私たち自身のためにも、大切なことです。過去から現在――いまこの瞬間――へと心の向きを変えることは、私たち一人ひとりの健やかさが守られるためにも、大切なことです。
そしてそこに、神さまご自身の願いがあるのではないかと思います。あなたの心と体が守られること。あなたが自分自身を大切にして、この人生を、喜びをもって生きてゆくこと。それこそ、神さまが私たちに願ってくださっていることなのだと私は受け止めています。
かけがえのないあなたが守られるために
旧約聖書のイザヤ書には次のような言葉があります。《わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し/あなたの身代わりとして人を与え/国々をあなたの魂の代わりとする》(43章4節)。神さまの目から見て、イスラエルの民がどれほど大切な存在であるかが語られている言葉です。「わたしの目にあなたは価高く、貴い」――この言葉はいま、私たち一人ひとりに語りかけられている言葉として受け止めることができます。これが、イエス・キリストが私たちに伝えてくださっている、福音(良い知らせ)です。
神の目にそれほどまでに大切な存在が、もしも過去ばかりに目を向け、自らの心と体を軽んじ、傷つけ続けているとしたら、どうでしょうか。きっと神さまは悲しまれることでしょう。そしてそのような状態から抜け出すことを願ってくださっていることでしょう。
かけがえのないあなたが守られるために。かけがえのないあなたの心と体と魂が守られるために、神さまは、私たちに心の方向転換を求めておられるのだと、本日はご一緒に受け止めたいと思います。
イエス・キリストはおっしゃいました。《時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい》(マルコによる福音書1章15節)。あなたの心を、わたしの方に向けてほしい。そして、「神さまの目から見て、あなたは価高く、貴い存在である」との言葉を信頼し、その福音の力にあなたの全身をゆだねてほしい、と主イエスは呼びかけておられいます。
「誰かのために」でなくてもいい、「社会のために」でなくてもいい、「神さまのために」でなくてもいい。他ならぬ「あなた自身のために」。
まなざしが「生きる」方へ
心に方向転換が起こり始めたとき、私たちは自分がしてしまった失敗や過ちにも、客観的に向かい合うことができるようになってゆくのではないでしょうか。過去に心がとらわれ、後悔を繰り返しているとき、私たちは物事を客観的に見つめることはなかなかできません。しかし神さまの愛によって私たちの心に方向転換が起こり始めたとき、少しずつ、目の前の現実を冷静に受けとめることができるようになってゆきます。過去のことは過去のこととして、少しずつ、受け止めることができるようになってゆきます。そして何より、自分自身を、そのままに受け止めることができるようになってゆきます。
そのとき、八方ふさがりに思えた状態の中に、小さな抜け道が見え始めます。真っ暗なように思えた状態の、その向こうにかすかな光が見えてきます。私たちのまなざしは新しく、「生きる」方へと向き直り始めます。
弟子への招き
《時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい》、この宣言のもと、主イエスはガリラヤ湖のほとりで、ペトロを始めとする漁師たちをご自分の弟子とされてゆきました。本日の聖書箇所であるマルコによる福音書1章14-20節の後半部分では、その場面が描かれていました。
主イエスは《わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう》と言って、ペトロたちをご自分のもとに招かれました。「人間をとる漁師にしよう」という言葉には、「いまあなたたちが網を投げ、魚を網の中に招き入れようとしたように、これからは、人々を神の国に招き入れる漁師にしよう」とのメッセージが込められています。
神の国とは、私なりに表現すると、「一人ひとりがかけがえのない存在として大切にされている場」のことを指しています。一人ひとりがかけがえのない存在として守られ、その生命と尊厳が大切にされる場が、神の国です。この神の国はいままさに、地上に近づいている。主イエスと共に、地上に到来しようとしている。神の国の到来のために、私と共に働いて欲しいと主イエスはおっしゃってくださっているのです。
私たち一人ひとりもまた、主の弟子として働くよう招かれています。そしてそのために、本日は「自分自身を大切にする」視点を、改めて思い起こしたいと思います。「神さまの目から見て、あなたは価高く、貴い存在である」――この主の言葉を信頼し、その福音の力に私たちの全身をゆだねてゆくことができますようにと願います。