2022年6月5日「聖霊に満たされ」

202265日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:詩編12219節、マルコによる福音書32030節、使徒言行録2111

聖霊に満たされ

 

 

 

ペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝

 

 本日はペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝をご一緒におささげしています。ペンテコステはイエス・キリストが復活して天に昇られた後、弟子たちの上に聖霊が降った出来事のことを指します。聖霊とは、神の霊のことです。日本ではクリスマスやイースターに比べると知られてはいませんが、キリスト教においてはクリスマス・イースターと共に重要な祭日です。

 

「ペンテコステ」はギリシア語で、「50番目」を意味する言葉です。これは、ユダヤ教のお祭りである五旬祭に由来しています。過越し祭から50日目に行われる収穫のお祭りです。五旬祭のギリシア語訳が、ペンテコステなのですね。

キリスト教会にとって重要であるのは、その五旬祭当日が、イエスさまの復活を記念するイースターから、ちょうど「50日目(=ペンテコステ)」であることです。今年はイースター礼拝が417日(日)でした。417日から50日目は、ちょうど本日の65日になります。

 

 イースターから50日目のある日、不思議な出来事が起こりました。一つとなって集まっていた弟子たちの上に、聖霊が降ったのです。この出来事を記念する日が、ペンテコステです。

 

 

 

ペンテコステの場面

 

改めて、ペンテコステの場面がどのようなものであったか、振り返ってみましょう。

その日、エルサレムの街は五旬祭が行われ、大変な賑わいを見せていました。各地から巡礼者も大勢集まっていたことでしょう。活気とにぎわいがエルサレムを覆う中、弟子たちは家に集まって、一心に祈っていました。そこには弟子たちと共に、婦人たち、イエスさまの母マリア、イエスさまの兄弟たちもいたと考えられます。

一同が一つになって集まっていると、突然、激しい《風》が吹いてくるような音が天から聞こえ、家中に響きわたりました。そうして、《炎のような舌》が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった、と聖書は記します。この炎のような、舌のような不思議なものが、聖霊が降ったことのしるしです。

 

14節《五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、/突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。/そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。/すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした》。

 

この場面を描いた絵を観てみましょう。エル・グレコが描いた聖霊降臨の絵です(スクリーンの画像を参照)。母マリアや弟子たちの頭の上に、小さな《炎のような舌》が描かれていますね。この《炎のような舌》が、聖霊が降ったことのしるしです。

聖霊が降って、どうなったのでしょうか。聖霊に満たされた一同は、さまざまな国々の言葉で話し出したと聖書は記します。弟子たちの多くはパレスチナのガリラヤという地域の出身でしたので、そのガリラヤ地方の言葉ではない言葉を話し出した、ということになります。

 

周囲の人々はびっくりし、「何ごとか」と集まってきました。巡礼に来ていた人々は、そこで自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまいました。

 

56節《さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、/この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった》。

 

911節のところではさまざまな地名が出て来ますね。《パルティア、メディア、エラム》《メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア》……。これらは当時知られていた国々のリストです。いわば、世界中の国々のリストですね。祭りのために、各地からエルサレムに集まっていた人々は、そこで自分の故郷の言葉が話されているのを耳にして、驚きました。自分がよく知っている言葉、自分が分かる言葉が話されているのを聞いて、驚いたのです。

 

 

 

バベルの塔の物語 ~言葉の混乱

 

 このペンテコステの場面とよく対比されるものとして、旧約聖書(ヘブライ語聖書)の創世記のバベルの塔の物語があります(創世記1119節)。バベルの塔と町の建設を、神さまが人々の言葉を混乱させることにより中止させた、という物語です。ブリューゲルの絵が有名ですね(スクリーンの画像を参照)

 

 人々は天まで届く塔のある町を建設しようとしていました。その作業を中止させるために神さまが用いた手段が、人々の「言葉を混乱させる」ということでした。言い換えますと、「互いの言葉が聞き分けられないようにする」。というのは、そのときまで、人々は同じ一つの言葉を話していたからです。

確かに、周囲にいる人たちが突然知らない言語を話し出したら、びっくりしますよね。お互い何を話しているのか分からなくなったら、意思の疎通ができず、大混乱に陥ってしまいます。

 

「言葉が混乱する」ことによって人々の関係が引き裂かれ、町の建設は中止となりました。そうして、人々はその場所から全地に散らされてゆくこととなりました。

ちなみに、「混乱させる」ことをヘブライ語では「バラル」といいます。ここから、この町は「バベル」と呼ばれるようになったのだと創世記は記します。

 

 

 

ペンテコステの物語 ~教会の誕生

 

 このバベルの塔の物語とペンテコステの物語は、似ているようで、まことに対照的です。バベルの塔の物語では、言葉が混乱し、互いに「伝わらない言葉」を話し始めます。結果、人々の関係が引き裂かれ、バラバラになってしまいました。

 ペンテコステの物語では、弟子たちがさまざまな国の言葉を話し始めた点は似ていますが、集まって来た人々にとって、それらが「伝わる言葉」であった点が異なっています。結果、人々が一つに結び合わされてゆくということが起こってゆきました。

 

聖霊に満たされた弟子たちが語っていたのは、「イエス・キリストがどういうお方か」ということでした。イエスさまのご生涯について、そのご受難と死について、そして復活について1440節)――。その知らせに触れた人々は、深く心を打たれます。その結果、それまでバラバラになっていた人々が、一つに結び合わされてゆくということが起こってゆきました。その場にいた大勢の人は、洗礼を受け、仲間に加わったと使徒言行録は記します41節)。イエスさまについて語る言葉が、人々を一つに結びあわせていったのです。

このようにして誕生したのが教会です。ペンテコステは教会の誕生日と言われます。

 

 

 

言葉が伝わらない悲しみ

 

「言葉が混乱している」「言葉が伝わらない」という点において、いまの私たちの社会もバベルの塔の物語と似たような状況にあるかもしれません。たとえ同じ言語を話していたとしても、互いの考えや想いが伝わらない、ということがあります。すれ違うということがあります。そのことによって、さまざまな場面で対立や分裂が起こっています。

また、お互い言葉が通じ合っていたはずなのに、ある日を境に言葉が通じなくなり、想いが通じ合わなくなるということもあるでしょう。自分の言葉が伝わらない。または、相手の言っていることが分からない……。互いに言葉が伝わらないというのは、私たちにとって大変辛く、悲しい経験です。大昔に書かれたバベルの塔の物語に何か切実なものを感じるのは、私たちがいまも同様の経験をしているからかもしれません。

 

 

 

コロナ禍における経験

 

たとえば、私たちはこの2年半におよぶコロナ禍において、様々な場面で同様の経験をしてきたのではないでしょうか。それまでは意思の疎通ができていた人と、コロナとその対応を巡って、突然言葉が伝わらなくなり、互いに思いが通じ合わなくなってしまった経験。結果、互いの間に溝のようなものが生じてしまった経験。あるいは、悲しい対立や分断が生じてしまった経験。

この度のコロナ・パンデミックは、私たちの社会全体に対立や分断をもたらしました。その影響は、計り知れないものがあります。いまも多くの人が、様々な痛みや悲しみを抱えつつ生活をしていることと思います。

生活はだんだんと、コロナ以前の状態に戻ってきつつあります。しかし、一度亀裂が入ってしまった人間関係は、簡単に修復できるものではありません。一度バラバラになったものは、そう簡単に元に戻るものではありません。またそして、私たちの心の傷も、簡単に癒えるものではありません。それには、長い時間が必要です。私たちの社会はこれからも、コロナ禍によってもたされた様々な傷と痛みとを抱えつつ、一歩一歩、歩んでゆかねばならないことでしょう。

 

 

 

炎のような言葉 ~神さまの愛の言葉

 

ペンテコステの出来事において、弟子たち一人ひとりの上に《炎のような舌》がとどまったことを述べました。この《舌》という語は、原文のギリシア語では、《言葉》という意味ももっている語です。言い換えると、「炎のような言葉」です。

聖霊が与えてくださるこの「炎のような言葉」、それは、神さまの愛の言葉に他なりません。イエス・キリストを通してあらわされた、神さまの愛の言葉です。

わたしの目にあなたは価高く、貴い。わたしはあなたを愛している(イザヤ書434節)――。聖霊は私たち一人一人の内に、この愛の言葉を宿してくださっているのだとご一緒に受け止めたいと思います。この愛の言葉は、このわたしの存在が、あなたの存在が、一人一人の存在が、神さまの目から見て貴いものであることを教えてくださっています。

そして、私たちがこの神の愛に根ざすとき、私たちの言葉は、少しずつ、「伝わる言葉」へと再び変えられてゆくのだと受け止めたいと思います。バラバラになってしまっていた存在がまた再び、少しずつ、一つに結び合わされてゆく。聖霊なる神さまはそのために、いま共におられ、共に働いてくださっている方です。

 

 

 

愛に根ざし、一致を願って

 

言葉が混乱し、対立や断絶が生じている現状の中にあって、いま一度愛に立ち帰り、愛に根ざした言葉を発してゆくこと。私たちが再び一つに結び合わされることを願って、言葉を発し続けてゆくこと。ペンテコステによって誕生した教会には、この務めが与えられていることをご一緒に思い起こしたいと思います。そしてこのことは、私たちだけの力ではなく、聖霊なる神さまの助けによってこそ、成し遂げられてゆくのだと信じています。

 

 

最後に、コロサイの信徒への手紙の一節を引用いたします。《これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです(コロサイの信徒への手紙314節)