2022年10月30日「契約のしるし」

20221030日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:ルカによる福音書113341節、ローマの信徒への手紙51221節、創世記9817

契約のしるし

 

 

契約のしるしとしての虹

 

 いまご一緒にお読みしました聖書箇所は、創世記の「ノアの箱舟」の物語の締めくくりの部分です。神が大洪水を起こし、箱舟に乗ったノアたちと動物たちだけは助かるという、皆さんもよく親しんでいらっしゃる物語です。

 

洪水の後、箱舟から大地の上に降り立ったノアとその家族に対して、神さまはこう語りかけます。創世記9911節《わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。あなたたちと共にいるすべての生き物、またあなたたちと共にいる鳥や家畜や地のすべての獣など、箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てるわたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない》。

 

神さまはノアたちとの間に契約を立てることをお語りになります。このような大洪水を起こすことは、二度としない。ノアとその子孫を、この地上に生きるすべての生き物たちを、とこしえまでも祝福することを神さまは約束されます。

 

その契約のしるしとして登場するのが、雲の中に現れる虹です。13節《すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる》。

「しるし」とは、目には見えないものを、見えるかたちで指し示すものです。雲の中に現れる虹こそが、神さまが立てた契約のしるしであることが語られています。

 

虹は原語のヘブライ語では「弓」と同じ言葉です。確かに、空にかかった虹は弓のようなかたちをしていますね。雲の中に現れた虹は、神の武器でもあります。

 

ある方が、この点について示唆深いことを述べていました。旧約聖書(ヘブライ語聖書)において虹は武器である弓を表すと同時に、その弓がもはや引かれることがないことを表しているW・ブルッグマン『現代聖書注解 創世記』、向井考史訳、日本基督教団出版局、1986年、156157頁。ジョージ・メンデンホールの解釈の引用として)。古代イスラエルの人々は空にかかった虹に、武器が置かれた様子を重ねあわせている。武器が置かれたその様は、戦いが終わったこと、その弓がもはや二度と引かれることがないことを意味しているというのです。心打たれる解釈ですね。

 

神さまは今後、この世界を弓の矢で射る――すなわち、洪水を起こして裁くことを決してなさらない。雲の中に置かれた弓はその約束のしるしだということになります。

ノアの箱舟の物語を読む際、私たちはこの締めくくりの言葉を忘れてはならないでしょう。神さまがこの地を滅ぼすことは、もう二度ない。神さまは私たちが苦しみ悲しむことは願ってはおられないのだと私は信じています。

 

 

 

すべての生き物との間に

 

もう一つ、ご一緒に心に留めたいことは、ノアの物語において、契約がノアたちとの間にだけではなく、すべての生き物との間に立てられているところです。人間だけではなく、地球上のすべての生命が神の祝福の対象とされているのですね。

10節《あなたたちと共にいるすべての生き物、またあなたたちと共にいる鳥や家畜や地のすべての獣など、箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる》。

 

聖書は人間中心的な視点に基づいて書かれているというイメージが一般にあるかもしれませんが、このような箇所を読みますと、それを乗り越え得る、より大きな視点が提示されていることが分かります。神さまの契約は人間だけではなく、すべての生きとし生けるものがその対象である――。この視点は、特に現代を生きる私たちが見失ってしまっているものではないでしょうか。

 

現在、私たち人間たちが生態系に無制限に進出し、動物たちの命を傷つけ、搾取している現状があります。また、そうして私たちが生態系を意のままにコントロールしようとした結果、気候変動とそれを要因とする自然災害が引き起こされている現状があります。私たち現代に生きる者は、むしろ旧約聖書に書き記されている先人たちの知恵と信仰に学ぶ必要があることを思わされます。

 

 

 

動物の肉を食べることの許可

 

 動物たちとの関連で言いますと、本日の聖書箇所の前の部分に、興味深いことが記されています。神が契約の言葉を述べる際の、はじまりの部分です。創世記914節《神はノアと彼の息子たちを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちよ。/地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手にゆだねられる。/動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える。/ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない。…」》。

 

 この箇所を読むと、この時点においてはじめて、人間たちは動物の肉を食べることを神さまから許可されたことが分かります。それまでは人間たちは肉食は禁じられ、植物(野菜や果物)を食べて生活をしていました(参照:創世記129節)。それが洪水後、人間たちは動物の肉を食べることがゆるされるようになったのです。旧約聖書が語る、人類の歴史における肉食のはじまりです。

 

ただしそれは、無条件に許可されたというより、やむを得ないかたちで許可されたというニュアンスでここでは記されています。現実的に、生きてゆくために必要なこととして、人間たちは動物の肉を食べることを許可されているのです。

 

これは視点を変えれば、動物たちにとっては「平和ではない」状況が生じたということでもあります。人間が、動物を食べる、暴力的な存在となってしまったからです。2節には、《地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐れおののき…》との文言があります。ノアの物語は、ここから、動物たちが私たち人間たちを前に「恐れおののく」関係性が生じたのだと記しています。それは現代の私たちの世界において、とりわけそうであるということは、言うまでもありません。時代と共に、私たち人間はますます、動物の世界を脅かす存在と化してしまっています。

 

私たちも日々、動物の肉を食べ、動物の命をいただいて生活をしています。もちろん、信念をもって肉食を絶ち、菜食を続けている方々も国内外に多くおられます。しかし私自身は、普段から動物の肉を食べています。そのような中、このような聖書の箇所を読みますと、ハッとさせられます。自分自身の日々の生活の在り方が問われていると思うからです。

 

 

 

動物を犠牲にすることで引き受けるべき責任

 

 近年新しく提唱されている神学の一つとして、「動物の神学(animal theology)」があります(参照:A・リンゼイ著/宇都宮秀和訳『神は何のために動物を造ったのか 動物の権利の神学』、2001年、原著1994年)。動物の権利の視点から聖書を読み直す、という試みです。これから、その神学的な意義はより重要なものとなってくるのではないでしょうか。

 

 本日の聖書箇所からも分かりますように、旧約聖書には、この点について私たちが改めて学ぶべき、古代イスラエルの人々の知恵と信仰が記されています。特に注目すべき点は、動物を犠牲にすることで引き受けるべき責任が記されている点でありましょう。

 

先ほど述べましたように、旧約聖書において、ノアの箱舟の物語以降、肉食は神さまから許可されるものなりました。生きてゆくために、動物の肉を「食すること」は許可されたわけですが、旧約聖書において、依然として禁じられていることがあります。それは、人間が「自分たちの都合の良いように」動物の命を奪うことです。どんな命も、人間の勝手な都合のために奪われてはならない。意のままに支配され、コントロールされてはならない。なぜなら、命とはそもそも、人間ではなく、神さまに属するものであると考えるからです。人間には、その被造世界の秩序を守る責任があるのだ、というのが旧約聖書の考え方です。

 

 

 

動物を食することについて、神が定めた厳格なルール(律法)

 

先ほどお読みした創世記914節の中に、《ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない》との文言がありました。この掟は「生き物の命は血の中にある」という古代イスラエルの人々の理解が関係しています。

 

動物の肉を食するときは、血を抜かなければならない。血を抜かずに食することは、旧約聖書では「罪」であるとされます(参照:レビ記171013節)。なぜなら、生き物の血を自分のものとすることは、その生き物の命をも自分のものにすることを意味するからです。あくまで、食して良いのは肉であり、命そのものは神さまにお返ししなければならない。命は神さまのご支配に属するものであるからです。人間は命を支配しコントロールすることまではできないのだと旧約聖書は伝えています。

 

このように、旧約聖書においては動物を食することについて、神が定めた厳格なルール(律法)が存在しています。人間は自然界に対して、無規範に、何でもしてよいわけではないのです。

 

もう一つ、例としてご紹介したいのは、レビ記17章に記されている規定です。《イスラエルの人々のうちのだれかが、宿営の内であれ、外であれ、牛、羊、あるいは山羊を屠っても、それを臨在の幕屋の入り口に携えて来て、主の幕屋の前で献げ物としてささげなければ、殺害者と見なされる34節)

 

ここでは、動物を屠る時――それが犠牲の献げ物としてであっても、食用であっても――《主への献げ物として》神さまのみ前に携えてゆかねばならないということが述べられています。動物の命を「主なる神のために」奪ったのではない場合、その人は《殺害者》と見なされる、とまで記されています4節)。動物についても殺害の罪が問われる点が印象的ですね。それは言い換えますと、どんな命も、勝手に人間の都合のために奪われてはならないことを意味しています。

 

しかし、それが食用である限り、たとえ《主への献げ物》として屠ろうと、結果的にはその命を人間のために用いていることになります。ですので、旧約聖書の考え方に基づくと、人間が動物を食すること自体に、或る「罪責」が伴っていることになります。私たちは生きてゆくために、動物の命を犠牲にせざるを得ない。だからこそ、古代イスラエルの人々は、自分たちが「奪った」命の象徴である血をたずさえ、神さまの前にひざまずき、感謝をささげ、そして自分たちの罪の赦しを乞う儀式を始めていったのでしょう。その儀式が徐々に、犠牲の献げ物をささげる贖いの儀式として、ユダヤ教において確立されていったのだと考えられます。そのような儀式は古代イスラエルに限らず、古来より、世界中で普遍的に見られるものでもありますね。たとえば、アイヌの人々が行っていたイオマンテ(熊の霊送り)という儀式はよく知られているものです。

 

 

 

命の尊厳に対する感覚を取り戻す ~命は、神さまがお創りになったもの

 

当時もいまも、私たちが動物の犠牲にし続けていることには変わりはありません。生きてゆくため、「食するため」と言えども、やはりそれは私たち「人間の都合で」動物の命を奪っているのです。ただしそこに、罪責と責任を認めているか、いないかでは、大きな違いがあるでしょう。古代イスラエルの人々は動物の肉を食べることに対して、葛藤と、そしてはっきりとした罪責と責任を感じていました。そうして、そこに、神が定めた厳格なルールを置くことをしていました。いまを生きる私たちは、動物を犠牲にして生きていることの、その葛藤さえ忘れてしまっていることが多いのではないでしょうか。神さまから与えられている、命の尊厳に対する感覚を私たちは再び取り戻してゆく必要があることを思わされます。私たちは、無秩序に、無制限に自然界を搾取し続けるこれまでの在り方を見直してゆくことが求められています。

 

命は、神さまがお創りになったもの。本来、私たちが勝手に支配し、コントロールすることはできないもの――。この聖書のメッセージを今一度私たちの胸に刻みたいと思います。

 

 

 

《わたしの聖なる山においては 何ものも害を加えず、滅ぼすこともない》

 

 私たちはもうすぐ教会の暦でアドベントを迎えます。イエス・キリストの到来を待ち望む時期です。教会が伝統的にイエス・キリストの到来を預言していると受け止めてきたイザヤ書11章に、次の言葉があります。

狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。/牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。/乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。/わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない(イザヤ書1169節)

 

 まことの王によって成し遂げられる平和は、人間の世界におけるだけではない。さらに、動物たちの世界までにも及ぶことが記されています。

 

もはや人間同士、傷つけあうことはしない。もはや人間と動物も、傷つけあうことはしない。動物たちは私たち人間を前に、もはや「恐れおののく」ことはない。何ものも、互いに害を加えることなく、滅ぼすことをしない。一切の暴力が消滅した、調和と平和のビジョンが語られています。この被造世界全体に、契約のしるしの虹がかかっている、その平和のビジョンが語られています。

 

 

いま、私たちの目の前には、人と人とが傷つけあう現実があります。人間が無秩序に、動物たちの命を傷つけている現状があります。私たち人間社会が、被造世界を傷つけている現状があります。私たちはいかにしたら命の尊厳を侵害することなく、共に生きてゆくことができるのか。少しずつでも、私たちの世界から暴力をなくしてゆくことができるのでしょうか。キリストの言葉に学びつつ、ご一緒にその平和への道を祈り求めてゆきたいと願います。