2022年11月6日「約束の言葉」

2022116日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:ルカによる福音書3114節、ローマの信徒への手紙919節、創世記18115

約束の言葉

 

 

 

イサク誕生の物語

 

 いまお読みしました創世記18章1-15節は、アブラハムとサラにイサクの誕生が予告される場面です。アブラハムとサラはイスラエル民族の祖先とされる人物です。このアブラハムと妻のサラからイスラエル民族の歴史は始まってゆきます。

 

 本日の聖書箇所は、アブラハムとサラ夫妻のもとに、3人の天使が訪れるところから始まります。アブラハムはこの3人が天使であることに気付かず、旅人であると思い、心を込めてもてなします。

すると、彼らのそばで給仕をするアブラハムに向かって、天使たちが言いました。912節《…「あなたの妻のサラはどこにいますか。」「はい、天幕の中におります」とアブラハムが答えると、/彼らの一人が言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」サラは、すぐ後ろの天幕の入り口で聞いていた。/アブラハムもサラも多くの日を重ねて老人になっており、しかもサラは月のものがとうになくなっていた。/サラはひそかに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである》。

 

天使たちの一人が、来年の今頃、妻のサラに男の子が生まれていることを予告します。すぐ後ろの天幕の入り口でこの言葉を聞いていたサラは、ひそかに、心の中で笑いました。アブラハムとサラの間には長らく子どもがいませんでした。すでに高齢の自分たちに子どもが与えられるはずはなく、これから先、自分たちの前に喜びも楽しみも待ち受けているはずがない、と思ったのです。

 

天使の口を通して神さまはおっしゃいました。1315節《「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。/主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている。」/サラは恐ろしくなり、打ち消して言った。「わたしは笑いませんでした。」主は言われた。「いや、あなたは確かに笑った。」》。

 

神さまは「なぜサラは笑ったのか。来年の今頃、サラには必ず男の子が生まれている」と約束の言葉を告げられます。サラは恐ろしくなり、「わたしは笑いませんでした」と否定しますが、神さまは「いや、あなたは確かに笑った」とおっしゃいます。

 

本日の聖書箇所はここまでですが、この場面の続きが、2118節に記されています。その場面においては、神さまの約束の言葉の通り、アブラハムとサラとの間に子どもが与えられます。神さまの力によって、大いなる奇跡が起こったのです。男の子は、「イサク」と名付けられました。「イサク」は「彼は笑う」という意味をもった名前です1719節)

大いなる喜びの中で、サラは神さまを賛美します。216節《神はわたしに笑いをお与えになった。/聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう》。

 

 

 

「笑い」と「嗤い」

 

このイサク誕生の物語を読みますと、「笑い」が重要な要素となっていることが分かります。神さまの約束の言葉を聞いて、サラはひそかに笑いました。サラは「わたしは笑いませんでした」と打ち消しますが、神さまは「いや、あなたは確かに笑った」と強調します。そして、誕生した男の子の名前が、イサク(=笑い)でした。

 

この通り「笑い」が重要な要素となっているわけですが、この物語の中には、二つの「笑い」が登場しています。一つは、さびしい笑い、もう一つは、喜びにあふれた、心からの笑いです。

サラがひそかに笑ったという最初の笑いは、さびしい笑いです。サラはこの時、もはや自分の人生に何の期待もしていなかったことが伺われます。自分もアブラハムも年を取っており、この先、子どもが与えられるはずはない。これから、喜びと楽しみが待ち受けているはずがない。待ち受けているのは、嘆きと悲しみばかりなのかもしれない。神さまの約束の言葉も、この時のサラの心には空虚なもの、非現実的なものとして感じられたのかもしれません。

 

字で表すと、「わらい」には、「笑い」と「嗤い」とがありますね。後者の「嗤い」は、他者を「嘲笑う」というニュアンスを含んでいる、否定的な意味合いをもった笑いです。当初のサラの笑いは、この否定的な意味での「嗤い」であったと言えるでしょう。自分自身を嘲る「嗤い」、現実に対する諦めがともなった、さびしい「嗤い」です。

 

その後、サラとアブラハムは、神さまの約束の言葉通り、子どもが与えられることとなりました。その子の名前は、「イサク(=笑い)」。サラは喜びにあふれて、神さまを賛美します。《神はわたしに笑いをお与えになった。/聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう》。イサクを胸に抱くサラの顔にも、心からの笑顔が浮かんでいたことでしょう。ここでの笑いは、もはや諦めによる「嗤い」ではなく、喜びにあふれた、心からの「笑い」です。

 

 

 

約束の言葉 ~神さまは私たちにまことの笑い(イサク)を与えて下さる

 

 イサク誕生の物語は、「嗤い」がまことの「笑い」へと変えられる、その約束の物語でもあります。神さまはいつか必ず、私たちに心からの「笑い」を与えてくださる。本日の物語はそう語っています。

 

 イサク誕生物語で描かれる奇跡は、私たちの人生においては、実際には起こることは難しいことかもしれません。けれどもいま、この物語を通して、神さまが私たち一人ひとりにも、約束の言葉を語りかけて下さっているのだと受け止めたいと思います。神さまは私たちにまことの笑い(=イサク)を必ず与えて下さるという約束です。

いまは私たちは笑えることができていなくても、いまは涙を流しているのだとしても、神さまは必ず、私たちを笑顔にしてくださる。私たちの心を喜びと楽しみとで満たし、私たちに心からの笑いを与えて下さる――。

 

 イエス・キリストはこのようにおっしゃっています。《もう泣かなくともよい(ルカによる福音書713節)。また、このように約束してくださっています。《今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる(ルカによる福音書621節)

また、ヨハネの黙示録は次のように記します。《見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、/彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである(ヨハネの黙示録2134節)

この神さまの約束の言葉を、本日はご一緒に心に刻みたいと思います。

 

 

 

今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる

 

 この1週間、私たちの近くに遠くに、様々な出来事がありました。韓国とインドでは、大変いたましい事故が起こりました。皆さんもこの1週間、一連の報道に触れて、辛いお気持ちでいらっしゃったことと思います。また、皆さんの中にもいま、ご自分が困難な状況、大変辛い状況の中にある方もいらっしゃることと思います。

 

 私たちがいま生きている世界には、「笑えない」現実が様々にあります。多くの人が、また私たち自身が、嘆き、悲しみ、涙を流し続けている現実があります。喜びと楽しみは失われ、まことの笑いが見失われているのが、現在の私たちの状況であるかもしれません。たとえ笑い声が聞こえたとしても、それが他者あるいは自分自身を嘲笑する、悲しい「嗤い」であることも多いかもしれません。

 しかし、次のことははっきりと言えます。それは、神さまが私たちに対して、泣くのではなく、笑顔で生きてゆくことを願っていて下さるのだということです。神さまは、私たちが苦しみ悲しんで生きることは、決して願ってはおられません。

 私たちの目から涙をぬぐうため、私たちのもとに神さまが遣わしてくださったのが、イエス・キリストその方です。私たちの悲しみを喜びに変えるため、イエスさまはこの世界に誕生してくださいました。私たちにまことの笑いを与えるため、イエスさまは十字架におかかりになり、そして三日目に復活してくださいました。

 

 よみがえられたイエスさまは、いま、私たちの傍らにおられ、《もう泣かなくともよい》と語りかけて下さっています。涙を流す私たちの傍らで、共に涙を流しながら(ヨハネによる福音書1135節)、《今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる》と約束の言葉を語りかけて下さっています。

 

 

 ここにおられるお一人おひとりの心に、この神さまの約束の言葉が響き渡りますように祈ります。