2022年12月18日「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで」

20221218日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:ルカによる福音書12638節、コリントの信徒への手紙一126-31節、イザヤ書11110

エッサイの株からひとつの芽が萌えいで

 

 

アドベント第4主日

 

本日はご一緒にアドベント第4主日礼拝をおささげしています。アドベントクランツのろうそくも、4本すべてに火がともりました。次の日曜日、いよいよ私たちはクリスマス礼拝をおささげします。前日の24日(土)にはクリスマス・イブ燭火礼拝をおささげします。ご都合の宜しい方はぜひご参加ください。

 

 

 

賛美歌『エッサイの根より』 ~冬の夜に咲くバラ

 

良く知られたクリスマス賛美歌に『エッサイの根より』という曲があります(讃美歌21248番)。このメッセージの後にも、ご一緒に歌う予定です。

1番はこのような歌詞でした。《エッサイの根より 生いいでたる、/預言によりて 伝えられし/ばらは咲きぬ。/静かに寒き 冬の夜に》(日本基督教団讃美歌委員会編『讃美歌21』、1997年)

 

前半部分の歌詞は、冒頭でお読みしました旧約聖書(ヘブライ語聖書)のイザヤ書11110節が元となっています。イザヤ書1112節《エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち/その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊》。

 

エッサイとはダビデ王の父のことです。イザヤ書11章は、ダビデの家系から、メシア・救い主が誕生することを預言しています。

 印象的であるのは「エッサイの株とその根」という表現です。ここでイメージされているのは切り株です。切り倒された大樹の根から萌えいでる若枝(ひこばえ)、それがメシアであるというのですね。

 

一方、賛美歌『エッサイの根より』の特徴は、エッサイの株とその根を「バラ」でイメージしているところです。《エッサイの根より 生いいでたる、/預言によりて 伝えられし/ばらは咲きぬ。/静かに寒き 冬の夜に》。イザヤ書の本文には「バラ」と書かれているわけではありませんが、この歌においてはバラがイメージされているのですね。

 

確かに、剪定された(刈り込まれた)バラの株は、芽を萌えいでさせ、美しい花を咲かせます。ヨーロッパの人々は《バラの株が切り込まれて新しい芽を出して花を咲かせること》を身近に経験しており、さらに旧約聖書続編の知恵の書181415節から、《寒い冬の、しかも真夜中に、美しいバラの花が咲く、という神秘的なイメージが生まれ》たそうです(参照:川端純四郎『さんびかものがたりⅡ この聖き夜に アドヴェントとクリスマスの歌』、日本キリスト教団出版局、2009年、111頁)。1番の歌詞の最後には、《静かに寒き 冬の夜に》とあります。ここでのバラは、冬の夜に咲くバラとしてイメージされているのですね。

12月に入ってから、教会の庭のバラの木も、数輪の花を咲かせていました。厳しい寒さの中で、ピンク色の花を咲かす姿が印象的でした。

 

 

 

マリア賛歌からキリスト賛歌へ

 

この賛美歌『エッサイの根より』はもともとは、イエス・キリストの母マリアを讃える歌であったそうです。刈り込まれた株から咲く美しいバラは、元来はマリアさまを指し示していた可能性があります。それが、後の時代に、キリストをたたえる歌へと書き改められました。

 

修正を加えられた2番の歌詞も引用いたします。《イザヤの告げし 小さなばら、/きよきマリアは、母となりぬ。/主の誓いの/み子は生まれぬ、救いのため》。

 バラそのものを、イエス・キリストを指すように変更したとも受け止められますし、あるいは、バラの木がマリア、花が御子キリストを指すと受け止めることもできます。いずれにせよ、クリスマスに歌うにふさわしい歌詞となっています。

《イザヤの告げし 小さなばら、/きよきマリアは、母となりぬ。…》。本日は、バラの木をマリア、花を御子キリストとして受け止めてみたいと思います。

 

 

 

マリアへの告知

 

 先ほど司式の方に、新約聖書のルカによる福音書12638節を読んでいただきました。神さまが天使ガブリエルを通して、マリアにお腹に男の子が宿ったことを告げる場面です。よく知られた「受胎告知」の場面ですね(スクリーンに映していますのは、フラ・アンジェリコの『受胎告知』です。こちらも有名な絵ですね)。

 

ルカによる福音書12834節を改めてお読みいたします。《天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」/マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。/すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。/あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。/その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。/彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」/マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」》。

 

まったく身に覚えがないのに、お腹に赤ん坊が宿ったことを告げられるマリア。しかも、その男の子は神の子、救い主であるというのです。マリアが戸惑い、恐れを覚えたのは当然のことでありましょう。

 

けれどもマリアは最終的には、すべてを受け止めることを決意します。《マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」…38節)

 神さまの言葉が、その通りに、この身に実現しますように――。一見受動的に思える言葉ですが、強い決意、まことの覚悟がないと口にはできない言葉です。その意味で、むしろ非常に能動的な姿勢から生じた言葉と言えるのではないでしょうか。たとえこの先困難が待ち受けていようとも、この身に宿った赤ん坊と生きてゆくこと、救い主の母となることをマリアは決意したのです。

 

当時のマリアの年齢は15歳前後であったと考えられます。当時のパレスチナは結婚する年齢が早く特に驚くことではありませんが、現代の私たちの視点からするとまだ成長途中の子どもの年齢です。

この時、マリアが置かれていたのは極めて厳しい状況でした。まるで真冬のバラの木のように、過酷な状況の中にいます。その過酷な状況の中、マリアは母となることを決意します。

神さまの言葉が、その通りに、この身に実現しますように――。厳しい寒さに耐え、冬の夜、バラの木は芽を萌えいでさせ、そして花を咲かせました。美しい花が開いたその夜が、救い主が誕生した夜、クリスマスの夜です。

 

《エッサイの根より 生いいでたる、/預言によりて 伝えられし/ばらは咲きぬ。/静かに寒き 冬の夜に》。

 

 

 

困難な現実のただ中から

 

本日は賛美歌『エッサイの根より』の歌詞を共に味わい、また、イザヤ書11110節とルカによる福音書12638節の御言葉に共に聴きました。

 イザヤ書11章の「エッサイの株とその根」は、切り倒された大樹とその根としてイメージすることもできますし、賛美歌『エッサイの根』のように冬のバラとしてイメージすることもできるでしょう。

共通しているのは、どちらも、困難な現実のただ中から、新しい芽が萌えいでているところです。樹が切り倒された――すべてが終わってしまったような現実から、あるいは冬の夜を思わせるまことに厳しい現実の中から、芽は萌えいでようとしています。そのように、困難のただ中に、神さまは光をともしてくださる。悲しみのただ中に、喜びを芽生えさせてくださる。本日はそのメッセージをご一緒に汲み取りたいと思います。

 

 

 

キリストと結ばれていることから来る喜び

 

 次の日曜日、私たちはクリスマスを迎えます。暗闇の中に輝く光として、神さまは独り子なるイエス・キリストを私たちのもとにお送りくださいました。私たちにまことの喜びをもたらすために――。神さまは悲しむ私たちに喜びを芽吹かせてくださる、そのことを共に信じたいと思います。

 

 またそして、その喜びは、すでに私たちの内に芽吹いていることをご一緒に心に留めたいと思います。それは、いますでに、イエス・キリストと結ばれていることから来る喜びです。

小さな花のようであったとしても、その喜びはいま、私たちの内に、私たちの間に芽吹いています。その喜びはいま、私たちを互いに一つに結びあわせています。

 

キリストの光を胸にともしつつ、共にクリスマスを待ち望みたいと願います。