2022年7月31日「今や、恵みの時」

20227月31日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:詩編182635節、マルコによる福音書91429節、コリントの信徒への手紙二6章110

今や、恵みの時

 

 

パウロという人物について

 

冒頭でお読みしましたコリントの信徒への手紙の著者は、パウロという人物です。よく知られていますように、パウロはキリスト教の草創期において大きな役割を果たした人です。新約聖書の中にはこのコリントの信徒への手紙(一・二)の他に、ローマの信徒への手紙、ガラテヤの信徒への手紙、テサロニケの信徒への手紙(一)など、パウロの手紙が幾つも収められています。

 

このパウロという人物について、皆さんはどのようなイメージをもってらっしゃるでしょうか。どんな困難にも屈しない「強い」人、というイメージをもっていらっしゃる方もおられることでしょう。あるいは、福音について話し出したら止まらない、「雄弁な」人というイメージをもっている方もおられるかもしれません。

 

このようなイメージを持たれることが多いパウロですが、コリントの信徒への手紙(二)の中にはパウロに対する意外な言葉が書き残されています。いわく、《手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない1010節)

これは当時、パウロをよく思っていなかった人々からの、パウロに対する批判の言葉です。いわゆる悪口に相当する言葉ですね。パウロはその悪口を手紙の中でそのまま引用しています。パウロの評判を意図的に貶めようとする言葉ですので、それらの言葉をそのまま受け取ることはできないのはもちろんのことです。ただ、パウロに対する《弱々しい人》《話もつまらない》という批判は、意外という感じがします。

 

パウロがあまり雄弁なタイプではないことは、実は、パウロ自身も手紙の中で認めていることです116節)。もしかすると、パウロは人と対話するとき、ゆっくりと、言葉を選びながら話す人であったのかもしれません。対して、当時パウロと対立していた人々はすぐれた弁論術を身に着けており、それを誇りとする人々であったようでした。そのような人々からは、ゆっくりと言葉を選びながら話すパウロのメッセージは《つまらない》もののように思えたのでしょうか。

また、先ほどパウロにはどんな困難にも屈しない「強い」人というイメージがあると述べましたが、パウロに対して《弱々しい人》との批判があったのも、意外に感じることですね。パウロに直接会った人の中には、パウロに対して弱弱しく頼りない印象を受ける人もいたようです。

もちろん、人と接して、どのように感じるかは、人それぞれです。 「弱々しく、頼りない」と表現するとそれは短所のようになりますが、「柔和で、おだやか」と言い換えると、それは長所となります。パウロという人は、ある種の柔和さを持った人であったのは確かなことだったのでしょう。

 

 

 

パウロの底力

 

私がパウロの言葉を読んでいて感じることの一つ、それは、パウロは「底力」のある人だということです。底力とは、ふだんは表面に現れていないけれど、いざというときに出てくる強い力のことを言いますね。パウロの手紙の文面から私が感じるのは、そのような、ある種の底力です。先ほども触れましたように、パウロは一見、相手に弱々しい印象を与えることもある人であった。しかし、いざという時に強い力――底力を発揮する人であったのだと思います。

 

たとえば、本日の聖書箇所であるコリントの信徒への手紙(二)645節には、《苦難、欠乏、行き詰まり、/鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓》などのパウロが経験した困難のリストが記されていました。そのような大変な困難に直面した時も、パウロは底力を発揮して、その困難な状況を耐え忍ぶことができたのです。

 

 ただしそれは、パウロが人よりも強い精神力をもっていたのがその理由ではないということが、パウロの言葉を読んでいると分かってきます。パウロが大変な状況に耐えることができたのは、パウロがもともと備えていた力によるものではありませんでした。パウロは本日の聖書箇所の中で《真理の言葉、神の力によってそうしています67節)と語っています。パウロの底力は彼自身の力によるものなのではなく、神から与えられている力であったことが分かります。

 

 パウロの底力は神さまから与えられたものであったのだとすると、その力は私たち一人ひとりにもまた与えられているものだと言えます。私たち一人ひとりにもまた、神さまからの底力は与えられている。ただし、それが十分に発揮されるかどうかの相違は生じて来ることがあるでしょう。パウロは困難に直面した時、力を十分に発揮することができたようです。

 

 では、パウロはなぜ力を発揮することができたのでしょうか。その理由の一つに、パウロが幾度も自分の「底」を知らされる経験をしたことがあるのではないかと思います。

 

 

 

自分の弱さを知らされる経験

 

 私たちは困難に直面した時、自分の底を知らされる経験をすることがあります。言い換えますと、自分の弱さを知らされる経験です。

 

 私たちは普段、自分の弱さはなるべく隠そうとしてしまうことが多いものです。人前ではなるべく「強くたくましい」自分でありたいと思うのは、多かれ少なかれ、誰しもが思うことでありましょう。しかし、いざ困難な状況に直面した時、普段自分を覆っている鎧が外れ、ありのままの自分が露呈してしまいます。そうして普段は隠そうとしている自分の弱さを思い知らされるという経験をします。

 

パウロもまた、幾度もそのような経験をしたようです。手紙の中には、次のような率直な言葉が記されています。《兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました18節)。ここでの苦難とは、おそらく牢屋に投獄される経験であったと推測できます。想像を絶するような困難の中で、パウロもまた自分の弱さに直面する経験をしたのです。

 

 

 

神さまの力によって

 

しかし、そのように、自分の弱さや無力さが極まったときに、その底の部分から湧き出ている力にパウロは出会いました。神さまの力にパウロは出会いました。その神さまの力によって、パウロは自分自身ではとても耐えられないと思ったその困難を、結果的に耐えることができたのです。

 9節の中に、私たちは《死にかかっているようで、このように生きており…》との言葉がありました。この言葉は、パウロ自身の経験を踏まえての言葉であるのでしょう。パウロは非常な困難の中で、神の力によって生かされ、支えられる経験をしたのではないでしょうか。

 

 改めてパウロの言葉を読んでみましょう。637節《わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、/あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、/鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、/純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、/真理の言葉、神の力によってそうしています》。

 

 

 

「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」

 

弱さの中にこそ、神さまの力が働くのだということ。パウロは次第に、その大いなる恵みに気づかされていったのではないでしょうか。神さまは、弱さをもったこの自分を、あるがままに受け入れて下さっている。あるがままに「良し」としてくださっている。そして、この弱さを通して、神さまは力を十分に発揮してくださる。

 

このことを伝える、パウロの代表的な言葉があります。コリントの信徒への手紙(二)12910節の言葉です。《すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう》。

弱さが否定的に捉えられる傾向があるのは、パウロの時代も、いまの私たちの時代も同様でありましょう。強さに価値が置かれ、弱さは否定的に捉えられてしまう。そのような中にあって、「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」とのメッセージは、いまも切実な意味を持ち続けています。

弱さは否定すべきものではない。むしろ、弱さは大切な役割を担っているものである。私たちが弱さを受け入れるとき、そこに、キリストの力が宿ります。私たちが互いに弱さを受け止め合うとき、そこに、まことの力が宿るのだとパウロは語っています。

 

 

 

私たちの「底力」 ~十字架のキリストの「生きよ」という呼び声

 

 私たちは生きてゆく中で、時に大きな困難に出会います。そうして、自分の底を知らされる経験、自分の弱さに直面する経験をします。しかし、他ならぬその底の部分――最も低きところにおいて、私たちはイエス・キリストと出会います。私たちの弱さの中に、イエス・キリストは十字架におかかりになった姿で、共におられます。最も無力な、十字架にはりつけになったお姿で――。

 

そして、その最も低きところから、キリストは私たちに向かって「生きよ」と叫んでおられます。この命の言葉によって、私たちは生きる力、再び立ち上がる力が与えられてゆきます。私たちの底で輝く、消えることのない光、この光が、私たちの力の源です。私たちの「底力」です。

 

 

 

「今や、恵みの時」

 

 十字架のキリストがおられるこの場所において、私たちはあるがままに受け入れられています。私たちの弱さも、すべてが、そのままに受け入れられています。

十字架のキリストがおられるこの場所において、私たちの弱さはもはや、取り除かれるべきものではありません。私たちがなすべきことは、その弱さを、ただそのままに受け入れるだけです。

 

本日のパウロの手紙の中に、次の言葉が記されていました。23節《なぜなら、/「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日》。

イエス・キリストは、いま、「わたしの恵みはあなたに十分である」と私たちに語りかけて下さっています。いつか、ではなく、いまです。私たちがもっと立派になれば、神から尊ばれる存在になるということではなく、私たちはいま、神さまの目に価高く貴い(イザヤ書434節)存在であるのです。

神さまはいま、この私たちをあるがままに愛し、重んじて下さっています。そしていま、この私たちの弱さを通して、愛と恵みの業をなそうとしてくださっています。

 

 

今や、恵みの時》――どうぞいま、この神さまの愛と恵みにご一緒に私たちの心を開きたいと願います。