2022年10月16日「神に栄光、人間に尊厳」
2022年10月16日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:イザヤ書25章1-9節、マタイによる福音書5章1-12節、ヨハネの黙示録7章2-4節、9-12節
ヨハネの黙示録とその時代
冒頭で、ご一緒にヨハネの黙示録をお読みしました。ヨハネの黙示録は新約聖書の一番最後をしめくくる文書です。
「黙示」は夢や幻を通した啓示を意味する言葉です。ヨハネの黙示録は読んでみると、不思議な幻、箇所によってはちょっと恐ろしい幻が出てきますよね。様々な幻(ビジョン)を通した神の啓示――最後の審判と最終的な神の王国の完成――を読者に告げるのがヨハネ黙示録です。
ヨハネの黙示録は伝統的に、パトモス島に幽閉されている著者ヨハネがアジア州(現在のトルコ)の7つの教会に宛てて記した文書とされています。様々な夢や幻を通してメッセージが語られているため、読み解くのが難しい書でもあります。なかなか理解するのが難しいヨハネの黙示録でありますが、それが書かれた時代背景を知ることで、私たちはよりこの書への理解を深めてゆくことができるかもしれません。
ヨハネ黙示録は紀元90年代後半、ローマ帝国の支配の下、キリスト教徒が差別や迫害を受けている状況の中で書かれたものです。当時、キリスト教の信仰を持つという理由だけで、社会的に差別され、場合によっては迫害される状況が生じていたのですね。そのように緊迫した状況の中、苦難の中にある教会の人々を励ますため、ヨハネの黙示録は記されました。
ヨハネの黙示録に登場する不思議な幻も、背後に差別や迫害という苦難があることを踏まえれば、より理解しやすくなってくるのではないでしょうか。当時はまだローマ皇帝の命による大規模なキリスト教徒への迫害は行われていなかったようですが、散発的にいやがらせや迫害が生じていました。時には教会の指導者が捕らえられたり、殺されたりすることもあったと考えられます。そのような状況の中、ヨハネの黙示録の著者ヨハネは伝統的な黙示文学的な表現(夢や幻)を活用しつつ、ローマの支配への批判や抵抗を文書の中に挿入していると受け止めることもできます。幻や暗号を用いた間接的な表現でローマに神からの裁きが下ることを宣言し、文書を受け取った人々にこの苦難を耐え忍ぶよう励ましているのです。ローマによる支配はいつか終わり、キリストは必ずや勝利して下さる。そして必ず自分たちを神の王国(新しいエルサレム)に招き入れてくださる。だから何とかしてこの辛い状況を耐え忍ぶようにとヨハネは教会の人々に呼びかけています。
神々を礼拝することを拒んだキリスト教徒たち
ローマ皇帝への批判が暗号として記されている有名な例は、「666」という数字でありましょう。欧米ではこの数字は悪魔の数字とされ、ホラー映画にも出て来るものですが(映画『オーメン』など)、元々はヨハネの黙示録に出て来る数字です(13章18節。ヨハネの黙示録では《獣の数字》として登場)。
この暗号は、解読すると「皇帝ネロ」の名前になると言われています。ローマ皇帝のネロは64年のローマの大火の際、キリスト教徒を迫害したとの伝承で知られる人物です。このネロのようにキリスト教徒を迫害する皇帝が再び現れていることへの注意がなされているのですね。当時、ローマの皇帝であったのはドミティアヌス(在位81-96年)という人物でした。実際、ドミティアヌスによる治世の終わり頃、キリスト教徒への迫害が生じています。
なぜキリスト教徒たちは迫害にさらされたのでしょうか。その要因としては様々な事柄が考えられますが、その理由の一つとして、キリスト教徒たちがギリシア・ローマの神々およびローマ皇帝を礼拝することを拒んだことが挙げられるでしょう。当時、パレスチナの周辺諸国の都市部には、神々を礼拝する祭壇や神殿が至るところにありました。また、皇帝ドミティアヌスは自らを「主にして神」と呼ぶよう要求したと言われています(参照:佐藤研『聖書時代史 新約篇』、岩波現代文庫、2003年、136-138頁)。
しかし、キリスト教徒たちにとって、「主、神」である方とは、イエス・キリストの他に存在しません。「主にして神」である方はイエス・キリストただお一人である――。その信仰に基づいて他の宗教の神々や皇帝を礼拝することを拒んだキリスト教徒たちは、神々の怒りを招く存在として、人々から激しい憎悪を向けられるようになったのではないかとの指摘があります。特にその地域で天変地異や戦争による災難が生じたとき、キリスト者たちがそれら災難を引き起こしている、すなわち《神々の怒りの原因である》として厳しい迫害にさらされることになったのです(参照:弓削達『ローマ皇帝礼拝とキリスト教徒迫害』、日本基督教団出版局、1984年、332-338頁)。このような差別や迫害は、いまを生きる私たちからすると不当なものであり、決してゆるされないものであることは言うまでもありません。
当時の人々の信仰の告白 ~イエス・キリストこそが「主にして神」
そのような時代背景を踏まえ、改めて本日の聖書箇所をご一緒に読んでみたいと思います。本日の聖書箇所であるヨハネの黙示録7章2-4節、9-12節では、様々な苦難をくぐりぬけた先に到来する、最終的な神の王国(新しいエルサレム)のビジョンが語られています。
《この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、/大声でこう叫んだ。「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、/小羊とのものである。」/また、天使たちは皆、玉座、長老たち、そして四つの生き物を囲んで立っていたが、玉座の前にひれ伏し、神を礼拝して、/こう言った。「アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、/誉れ、力、威力が、/世々限りなくわたしたちの神にありますように、/アーメン。」》(7章9-12節)。
神の王国に招かれた大群衆の先におられるのは、玉座に座す小羊です。この小羊はイエス・キリストのことを表しています。そこに集った人々も天使も心を一つにして、玉座の中央に座る神の子キリストを礼拝し、力の限りの賛美し、神に栄光を帰す様子が語られています。
先ほど、当時の皇帝ドミティアヌスが自らを「主にして神」と呼ぶことを要求したことを述べました。また、キリスト教徒たちが他宗教の祭儀に参加することを拒んだゆえ、災難を引き起こす原因として、人々からの憎悪にさらされ、時に激しい迫害にさらされたことを述べました。それらのことを踏まえると、本日の聖書箇所の信仰の告白はより切実なものとして、心を打つものとして私たちの心に迫ってくるのではないでしょうか。
《救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、/小羊とのものである》(10節)、《アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、/誉れ、力、威力が、/世々限りなくわたしたちの神にありますように、/アーメン》(12節)。
どんなに力をもった権力者も、ローマ皇帝も、他の神々も、自分たちの「主、神」にはなり得ない。イエス・キリストこそが「主にして神」。まことの「主にして神」は、イエス・キリストお一人である――。患難の中でも失われることがなかった、当時の人々の信仰とその告白とが、時代を超えて私たちの心に響いてきます。
キリストが目から涙がぬぐってくださる時
続く16-17節でも、胸を打たれる記述が続きます。《彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、/太陽も、どのような暑さも、/彼らを襲うことはない。/玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、/命の水の泉へ導き、/神が彼らの目から涙をことごとく/ぬぐわれるからである》。
イエス・キリストは必ず私たちを命の水の泉に導き、私たちの目から涙をことごとくぬぐってくださる。そのビジョン、その希望が語られています。それは、信仰を通して見ることが出来るビジョンであり、希望です。いまは苦しみの中で涙を流さざるを得ないのだとしても、イエスさまは必ず自分たちの目から涙をぬぐい取ってくださる。必ず、その時は来る――その信仰と希望のともし火は途切れることなく受け継がれ続け、いま、私たちのもとに手渡されています。
このような悲惨なことが二度と繰り返されることがないように
私たちはこのともし火を受け継ぐと共に、人々が信仰を理由に迫害されたり殺されたりする悲劇を繰り返してはならないことを心に刻むことが求められています。
以前、一関市藤沢町の大籠(おおかご)キリシタン殉教公園を訪ねたことがありました。殉教公園内にはキリシタン資料館や彫刻家の舟越保武さんが設計した礼拝堂もあります。大籠は江戸時代のはじめ、いわゆる「潜伏キリシタン」と呼ばれる人々が居住していた地です。当時の大籠はたたら製鉄が盛んであったことで知られています。その時代、この大籠の地では300人以上のキリスト教徒が殉教(信仰のために命を失うこと)したとされています。
私がこの殉教公園を巡りながら強く感じたことは、「このような悲惨なことが二度と繰り返されることがないように」との想いでした。
大籠をはじめ、潜伏キリシタンの殉教地には多くの方々が訪れます。そうして、命を賭して信仰を貫いた先人たちの姿に触れ、胸を打たれます。私も、殉教した方々に対して、最大限の敬意を抱いています。先人たちの懸命なる信仰があったからこそ、いま私たちのもとに信仰のともし火が手渡されているのだと思っています。そのことを踏まえた上で、私たちがいま祈るべきことは、「私たちもこのような強い信仰を持とう」「信仰の先達たちに自分たちも続こう」ということではなく、「信仰を理由に人が殺されるという悲劇が、二度と繰り返されないように」という祈りであると考えています。私にとって殉教地とは、その決意と祈りを新たにする場です。信仰を理由に人を殉教にまで追いやるということ自体が、本来、決してあってはならないことでした。このような悲劇が今後繰り返されないためにはどうしたら良いのか、ご一緒に神さまに祈り求め、考えてゆきたいと思っています。
信教の自由 ~信じる自由、信じない自由
現代の私たちの社会においては、信教の自由が憲法に明記されています。《信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない》(日本国憲法第20条第1項)。
信教の自由とは、「どんな宗教も信じる自由が、すべての人に対して認められる」ことを意味しています。ここでの自由は、信じる自由だけではなくて、信じない自由も含まれます。ある特定の宗教を「信じる/信じない」の判断は、個々人の主体性に基づいてなされるべきことです。私たち一人ひとりには信じる自由もあるし、信じない自由もあります。信教の自由は、思想・良心の自由(憲法第19条)と共に、私たちが人間らしく生きてゆくために欠くことの出来ない権利の一つです。
ある宗教を信じているがために、差別されたり迫害をされることがあってはならない。また同時に、国家権力から、ある宗教や宗教上の行為が強要されることもあってはならないことです。現行の憲法20条第2項には《何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない》と記されています。
信教の自由の中に「信じない自由」も含まれるということは、旧統一協会(現・世界平和統一家庭連合)およびカルト宗教2世の問題が改めて重大な課題となっているいまの私たちの社会において、確認しておくべきことではないでしょうか。本人の主体性を尊重することなく、宗教や信仰が強要されること――直接的に、あるいは間接的に――はあってはならないことであり、それは人権侵害につながり得ることであることを心に留めたいと思います。
神に栄光、人間に尊厳
本日はヨハネの黙示録の御言葉を通して、苦難のただ中にあっても失われなかった、先達たちの信仰と希望とに共に想いを馳せました。信仰の先達たちが命をかけて伝えてくれたその信仰と希望のともし火は、いまも、私たちの内にともり続けています。イエスさまが必ず私たちの目から涙をぬぐい取ってくださることを、私たちも信じています。
そのことを踏まえて、信仰を理由に迫害されることは本来はあってはならないこと、そのような悲劇が今後繰り返されないためにはどうしたら良いのか、私たちは祈り求めてゆくべきこともご一緒に確認しました。
また、信教の自由には信じる自由も、信じない自由もあることを確認しました。信教の自由は各国の憲法に明記されていることですが、その自由が侵害される事態、個人の尊厳がないがしろにされる事態は、私たちの近くに遠くに、起こり続けています。
私たちはこれから、神に栄光を帰する在り方を大切にし続けると共に、人間に尊厳を確保する在り方を大切にしてゆくことが求められています。神に栄光を帰する視点も、私たち人間に尊厳を確保する視点も、どちらも等しく、大切なものです。
神さまの目から見て、私たち一人ひとりが、かけがえのない、尊厳ある存在です。神さまの目から見て、失われてよい人、軽んじられてよい人は決して存在しません。一人ひとりがまことに大切にされ、その生命と尊厳が尊重される社会を祈り求めてゆくことが、神さまに栄光を帰することにもつながってゆくのだと信じています。
神に栄光を、人間に尊厳を――。神の目に価高く貴い一人ひとりが大切にされる社会を求めて、それぞれが自分に出来ることを行ってゆきたいと願います。