2022年10月9日「キリストの力によって」
2022年10月9日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:詩編43編1-5節、マルコによる福音書14章26-42節、コロサイの信徒への手紙1章21-29節
下半期に入り……
10月に入り、2022年度も下半期に入りました。ここ数日は急に気温が下がり、冬の到来を思わせる寒さが続いています。6日には、岩手山で初冠雪が観測されたそうです。皆さんもどうぞお体ご自愛ください。
下半期の歩みを始めるにあたって、改めて、今年度の主題聖句と祈りの課題を確認しておきたいと思います。私たち花巻教会は今年度、コロサイの信徒への手紙3章14節を主題聖句にして歩んでいます。《これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです》。
愛こそがすべてを完成させる《きずな》であることを語る御言葉です。聖書が語る愛を心に刻み、愛を私たちの《きずな(帯)》として、下半期もご一緒に歩んでゆきたいと思います。
2022年度の祈りの課題も改めてお読みいたします。
《・長らく礼拝に来ることができていない方々を覚えて
・地域に根ざし、地域の課題を共に担う教会となることができますように
・東日本大震災、原発事故を覚えて
・長期化する新型コロナウイルス感染拡大が収束へと向かいますように
・新型コロナウイルス後遺症、新型ワクチン後遺症によって苦しんでいる方々を覚えて
・ウクライナでの戦争が一刻も早く停戦に至りますように
・神の国の福音を土台とし、一人ひとりの生命と尊厳が大切にされる社会を目指して、自分にできることを行ってゆくことができますように》。
ウクライナでの戦争はいまも停戦への糸口は見えないまま、長期化しています。一刻も早く停戦の合意へ至ることができるよう、これ以上、尊い命が奪われ、傷つけられることのないよう、ご一緒に祈りを合わせたいと思います。
新型コロナウイルスによるパンデミックは、世界的には、もはや収束(エンデミック)の段階に入っていると言われている状況にあります。しかし、コロナ対策が長期化する中で、いまも多くの方々が困難の中にいます。また、コロナ後遺症によって、多くの方が不調を覚え、生活に困難を覚えています。お一人お一人の健康と生活が守られますよう、神さまからの癒しがありますよう、ご一緒に祈りを合わせたいと思います。
また、新型コロナワクチンの後遺症の深刻な実態もさらに明らかになってきています。皆さんの中にも、ワクチンの効用に対して、健康への影響に対して、疑念を感じて始めている方もいらっしゃるかもしれません。そのような中、厚生労働省はこの度、生後6か月から4歳までの子どもを対象としたコロナワクチンの使用を正式に承認しました。早ければ、10月下旬にも接種が始まる見通しとのことです。併せて、12歳以上が対象となるオミクロン株のBA.5に対応したワクチンも特例承認されました。
この度のメッセンジャーRNAワクチンは健康の影響への懸念が大きいものであり、長期的な身体への影響もいまだ不明なものです。すでに何度も皆さんにお伝えしていますが、私としましては、今回の新型ワクチンには強い懸念を持っています。特に子どもや若い世代の方々については、この度の新型ワクチンは接種する必要はない、接種はすべきではないと考えています。生後6か月から4歳までの幼い子どもたちに対して、国が積極的に接種を推奨するなど、考えられないことです。
私たちの健康にとって何より大切なのは、神さまが私たちに与えて下さっている自然免疫の力をしっかりと保つことです。この度のワクチンは、その元来の免疫のシステムを逆に壊してしまう危険性があります。ワクチン接種を要因とする免疫力の低下(重篤な場合は免疫不全)、ワクチンを要因とする血栓症や血管障害によって、様々な病気が引き起こされたり(重篤な場合は、くも膜下出血、脳出血、心筋梗塞など。若い世代では心筋炎、女性では不正出血・月経不順が起こるとの報告もあります)、基礎疾患がさらに悪化してしまう可能性もあります。身体への様々な影響が生じる得ることの懸念は、子どもや若い方々だけではなく、すべての年代の方々において同様です。接種後、ワクチンが原因とは分からず体の不調を感じ続けている方も多くいらっしゃるであろうことを懸念しています。
厚生労働省は一昨日、新型ワクチンの3回目接種を受けた11歳の男の子が亡くなったことを公表しました。大変傷ましいことです。男の子はファイザー製の3回目接種を受けた翌日から発熱やけいれんなどの症状が表れ、4日後に亡くなったとのことです。死因は急性脳症による敗血症でした。けれども、専門家部会は死亡した原因を絞り込むことができないとして、「因果関係を評価できない」と判断しています。ご遺族の方々にとって、そのような説明の仕方は、とても納得できないものでありましょう。国策としてワクチン接種が推奨されつつ、しかし接種後に深刻な後遺症や死亡事例が生じても、ほとんどの場合「因果関係が分からない」として何ら謝罪もなく、補償も認められない現状があります。私たちはいま一度立ち止まって、現在の異常な状況を見直すことが求められているのではないでしょうか。
「因果関係が分からない」として責任を取らない状況は、原発事故後、放射線被ばくによる健康被害を認めようとしない国や電力会社の姿勢と重なります。これ以上、未来ある子どもたちの健康が損なわれ、傷つけられるようなことがあってはなりません。
ワクチンについての考え方は個々人によって違いがあります。その違いによって、私たちの社会には分断も生まれています。考えや立場は異なれど、「子どもたちを守りたい」「子どもたちに健やかに育ってもらいたい」というその切なる願いは、私たちにみな共通のものです。どの在り方が、子どもたちを守ることにつながるのか、子どもたちの心身が健やかに育ってゆくことにつながるのか――私たちは今一度、現状を見つめ直すことが求められています。そこにはワクチン接種の是非、学校や日常生活でのマスク着用の是非についての議論も含まれます。私たちは日々の忙しさの中にあっても、思考停止に陥らないことが肝要でありましょう。
子どもも大人も、神さまの目に価高く貴い一人ひとりの生命と尊厳がまことに大切にされるため、私たちに何ができるか、何をすべきか。神さまの導きと助けをご一緒に祈り求めてゆきたいと願います。
共同体としての教会
冒頭でお読みしましたコロサイの信徒への手紙は、伝統的にパウロが書いた手紙の一つとされてきたものです(近年の研究では、パウロの後継者が書いたものと考えられています)。パウロはキリスト教草創期に大きな働きをした人で、新約聖書に収録されている書簡の多くを記したことで知られています。
本日の聖書箇所である1章21-29節の中では、パウロがいかに教会に仕えてきたかが語られています。パウロは神の言葉を伝えるという務めを果たすため、教会に熱心に仕える者となりました。
24-25節《今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。/神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました》。
ここで「教会」という言葉が2度使われ、強調されていますね。「教会」と聞くと、私たちは頭にパッと建物を思い浮かべることが多いものです。花巻教会なら、現在の会堂ですね。ちなみに、この建物が建てられたのは今から17年前の2005年です。素晴らしい会堂が与えられて感謝ですが、教会というのは元来、建物を指している言葉ではありません(原文のギリシア語ではエクレシア)。イエス・キリストに想いを寄せる人々が集められているところ、そこが教会です。教会とは、すなわち、イエスさまによって召し出された人の集まり。たとえ建物がなくても、教会は存在するのですね。
イエス・キリストの言葉にこのような言葉があります。《二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである》(マタイによる福音書18章20節)。年月と共に、建物としての教会は形を変えてゆかざるを得ないでしょう。それは当然のことです。どんなに素晴らしい建物も、いつかはその役割を終えるときは来ます。また、組織としての教会も時代と共に変化してゆくことでしょう。これから先、キリスト教は大きな変革を迫られることになってゆくかもしれません。けれども、キリストによって集められた人がいる限り、教会そのものが無くなることはありません。二人または三人がキリストの名によって集まるところ、そこに、イエス・キリストも共にいてくださるからです。私たちの内に、私たちの間にいてくださるからです。パウロが本日の聖書箇所で語っているのも、建物ではなく、キリストを内に宿す共同体としての教会です。
キリストの体である教会
教会は、新約聖書では「キリストの体」と表現されることもあります。本日の聖書箇所にも《キリストの体である教会》という表現が出て来ました(24節)。
「キリストの体」とは不思議な表現ですね。ここでの体は、私たちの体とまったく同様の体がイメージされています。頭があり、目鼻口耳があり。手足があり、胴体があり、内臓があり。多く部分から成り立っている体です。私たちは同じキリストの体に結ばれつつ、それぞれに違いがあり、固有の働きを担っている。そうして互いに補い合い、支え合っていることをこの表現は伝えています。
共同体である私たち教会が、一つの体であること。そのことを最も実感する時が、苦しみも喜びも共にする時ではないでしょうか。自分が苦しい時、教会の一人ひとりが共に苦しんでくれること。自分が嬉しい時、教会の一人ひとりが共に喜んでくれること。それが私たちにとって、支えとなります。また、ここに、教会としての歩みの喜びがあります。独りではなく、共に生きることの喜びです。
「キリストの体」について語ったコリントの信徒への手紙一12章には《一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです》(コリントの信徒への手紙一12章26節)との言葉があります。私たち教会は、喜びも苦しみも共にする共同体であるよう、神さまから召し出されています。
本日の聖書箇所であるコロサイの信徒への手紙1章24節でもパウロはこのように述べていました。《今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています》。
パウロはコロサイの教会の人々のために様々な苦難を経験したようですが、パウロはそれを喜びとしても受け止めていました。それらの苦しみは、教会に連なる一人ひとりのためのものであると感じていたからです。そしてその根底には、互いに一つの体に結ばれていることの深い信頼があります。
キリストに結ばれて
そして、私たちが同じキリストの体に結ばれているということは、キリストが私たちと一つとなってくださっているということでもあります。イエスさまもまた、私たちと共に苦しみ、共に喜んでくださっています。いや、イエスさまこそが、私たち一人ひとりと共に苦しみ、共に喜んでくださっている方であり、私たちをその共なる在り方へと招いてくださっています。
私が嬉しい時、イエスさまは共に喜んでくださっています。私が苦しい時、イエスさまは共に苦しんでくださっています。十字架にはりつけになったお姿で、共にくるんでくださっています。私たちと固く、一つに結びついてくださっています。
イエスさまと一つに結ばれていること、このことが、私たちにとって、生きる支えとなります。キリストと一つに結ばれている――苦難の中でパウロを支え続けたのも、この深い信頼であったでしょう。
キリストの力によって
本日の聖書箇所の締めくくりである28-29節をお読みいたします。《このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。/このために、わたしは労苦しており、わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています》。
28節でパウロは、《すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように》、知恵を尽くして人々に対して教えを説いていることを語ります。私たち一人ひとりが、そしてすべての人が、キリストに結ばれて、神さまの愛を現す存在となるよう呼び出されているのだ、と。
そして29節で、自分の内に力強く働く《キリストの力によって》そうしているのだと語ります。自分の力ではなく、キリストの力によって、パウロは自分の務めを果たそうとしているのです。
本日は共なる共同体としての教会、キリストの体としての教会についてお話ししました。私たちの近くに遠くに、苦しむ声が放置されている現実があります。一つの部分が苦しんでいるのに、他の部分が気づかない、あるいは、それを顧みない現実があります。
キリストに結ばれて、キリストの力によって、私たち教会が少しずつでも神さまの愛を現す共同体となってゆくことができますように。神さまの目に価高く貴い一人ひとりの生命と尊厳がまことに大切にされるため、それぞれが自分の務めを果たしてゆくことができますように、ご一緒に神さまにお祈りをおささげいたしましょう。