2022年11月13日「わたしはある」
2022年11月13日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:ルカによる福音書20章27-40節、ヘブライ人への手紙8章1-13節、出エジプト記3章1-15節
2022年「障がい者」週間 ~支え合ういのち
本日11月13日から1週間は、教会のカレンダーでは「障がい者」週間にあたります。日本のプロテスタント教会の加盟教団・団体によって構成されているNCC(日本キリスト教協議会)では、毎年11月の第2週を「障がい者」週間としています。
今年のテーマは「支え合ういのち――喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」です。主題聖句として、昨年一昨年に引き続き、《喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい》(ローマの信徒への手紙12章15節)が選ばれています。
《すべての人は、神によって与えられた尊い「いのち」の平等を生きる者とされています。しかし、さまざまな誤解と偏見、差別の壁がなお厚くあることを認めなければなりません。私たち「NCC『障害者』と教育問題委員会」は、さまざまな社会的・政治的状況のもとで、「障がい者」の立場から声を上げ、改善を求めて働くことが責務と考え、また、教会に向かっても「障がい者」からの必要な発言をしてきました。
…「支え合ういのち」という価値観に立って生きることは、自らの小ささ、弱さを受け入れる葛藤と、慈しみとの繰り返される共感が必要です。個人としてだけではなく、身近な人々、周囲の人々、そして社会が「痛みと苦闘」を共感して叫ぶこと、声を上げることの大切さに気づき、行動することが必要なのです》(『「障害者」と教会問題ニュース』No.71、2022.09.10、NCC「障害者」と教会問題委員会 日高馨輔委員長の文章より)。
さまざまな困難に直面する中にあって、共に喜び、共に泣くことの大切さ、互いに支え合うことの大切さを改めて思い起こしたいと思います。そして、差別・偏見のない社会、互いを尊重しあう社会の実現を願い、私たちにできることをご一緒に祈り求めてゆきたいと思います。
出エジプトの物語
冒頭で、本日の聖書箇所である旧約聖書(ヘブライ語聖書)の出エジプト記3章1-15節をお読みしました。
「出エジプト」は、英語ではエクソダスと言い、神がモーセを通してイスラエルの民をエジプトから脱出させる一連の物語を指します。旧約聖書の中で最も重要な出来事の一つで、古代イスラエルの人々にとって信仰の「原体験」となっている出来事です。出エジプトの物語を映像化した映画『十戒』(1957年)はよく知られています(特に、海が割れるシーンが有名ですね)。
出エジプトの物語は、イスラエルの人々の叫び声を神が聴くところから始まります。当時、イスラエルの人々はエジプトにて過酷な労働を強いられ、人間としての尊厳がないがしろにされている状態にありました。人々の叫ぶ声、嘆く声を神さまはお聴きになり、アブラハム、イサク、ヤコブと結んだ約束を思い起こされます(2章23節)。そうしてイスラエルの人々をエジプトから脱出させ、奴隷状態から解放するため、モーセを選び出します。本日の聖書箇所の出エジプト記3章1-15節は、モーセがその神さまの召命を受ける場面です(聖書では、神さまから使命が与えられ、召し出されることを召命と言います)。
モーセの召命
改めて、モーセの召命の場面を読んでみましょう。その日、モーセは羊の群れを伴い、ホレブという山に来ていました。羊と共に山の中を歩いていたモーセは、不思議な光景を目にします。柴の木に炎のようなものが宿っているのです。
柴は火に燃えているように見えるのに、いつまでも燃え尽きることはありません。《どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう》(3節)。道をそれて、燃える柴の木に近づこうとするモーセ。するとそのとき、燃え盛る枝の間から神さまが語りかけます。《モーセよ、モーセよ》(4節)。モーセが「はい」と答えると、神さまはおっしゃいます。《ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから》(5節)、《わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である》(6節)。モーセは神さまを見ることを恐れて顔を覆います。
顔を覆うモーセに対して、神さまは彼に与える使命を告げます。《わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。/それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。/
見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。/今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ》(7-10節)。
面白いのは、この後、モーセがすぐに「はい」と言わないところです。モーセは神さまに対して、率直に心の中の不安や戸惑いを伝えます。そうして、神さまとモーセの長い対話が始まってゆくことになります(3-4章)。最終的にはモーセは自分に与えられた使命を受け入れることになりますが、それを巡って神さまと対話を始めるところが面白いですね。
神さまの名前 ~《わたしはある》
この神さまとモーセの対話の中で、神さまが自分の名前を明らかにする場面が出て来ます。その名は、《わたしはある》というものでした。
14節をお読みいたします。《神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」》。
《わたしはある》――これが神さまのまことの名前であるというのですね。この不思議な名前をどう捉えるかについては、昔から様々な解釈があります。正解も一つではないでしょう。私としては、この名前には神さまが私たちの存在を「なかったことにしない」方であることが示されているのだと受け止めています。神さまは私たち人間の痛み、苦しみを決してなかったことにはなさらない。
「ある」というのは、言い換えれば、「存在している」ということです。確かに「存在している」ことを、力強く宣言しているのが、この「ある」です。
《わたしはある》。この神さまの名前から、「わたしはあなたの痛みを、あなたの存在を決してなかったことにはしない。それは、『ある』!」との神さまの声を聴く想いがいたします。
問題が「なかったこと」にされてしまうこと
私たちのいまの社会の状況を見渡すと、重大な問題があたかも「なかったこと」にされてしまうことが様々なところで生じているように思います。問題がうやむやにされることは、それによって傷ついている人の痛みもなかったことにされることにつながります。その問題によって傷つき続けている人の痛みがなかったことにされてしまうこと。これが最も重大な問題です。自分の痛みが周囲から「ない」ものとされることは、私たちにとって最も辛いことの一つなのではないでしょうか。そして、痛みがなかったことにされることは、その人の存在そのものが社会から「ない」ものにされることとつながっています。
そのようないまの社会の現状を想う時、はるか大昔にイスラエルの民が聴き取ったこの《わたしはある》という神の名が、改めて心に響いてきます。
神さまは私たちの存在を、その痛みを、悲しみを、決してなかったことにはしない――出エジプト記が力強く証しするこのメッセージを本日はご一緒に心に刻みたいと思います。
わたしはあなたの痛みをなかったことにはしない
私たちの近くに遠くに、存在しているのに、あたかも存在していないかのようにされている、様々な痛みがあります。私たちもまた、すぐ近くにいる誰かの痛みに気づかず、通り過ぎてしまっていることがあるかもしれません。また、私たちそれぞれの心にも、誰からも顧みられない痛みがあるかもしれません。いまも無数の人々が沈黙を強いられ、泣き寝入りを強いられ、人知れず涙を流し続けている現実があるでしょう。神さまは私たちの声にならない声を聴いてくださり、その痛みに光を当て、「それは『ある』=確かに存在している」と宣言してくださっている方です。
そして神さまは私たちの痛みを癒すため、苦しみから救い出すため、行動を起こして下さる方です。かつて神さまはイスラエルの人々の叫び声を聴き、モーセを人々のもとに遣わしてくださいました。そして2000年前、神さまは御子イエス・キリストを、救い主として私たちのもとに遣わしてくださいました。イエスさまはいまも私たちの傍らにいてくださり、私たちのために働き続けてくださっています。
わたしはあなたの痛みを決してなかったことにはしない。それは「ある」。わたしはあなたの存在を決してなかったことにはしない。それは「ある」――。死よりよみがえられたイエスさまはいまも私たちに語りかけ、働き続けてくださっているのだと信じています。
痛み、悲しみがなかったことにされることがない社会を創ってゆくために、一人ひとりが尊厳をもって生きてゆくことができる社会を創ってゆくために、それぞれが自分にできることを考え、声を上げ、イエスさまと共に行動を起こしてゆくことができますようにと願っています。