2022年3月20日「受難の予告」
2022年3月20日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:イザヤ書48章1-8節、テモテへの手紙二1章8-14節、マルコによる福音書8章27-33節
福島県沖を震源とする強い地震
16日(水)午後11時36分、福島県沖を震源とする強い地震がありました。宮城県・福島県では最大震度6強を観測、岩手県内でも最大震度5強を観測しました。皆さんも不安の中、一晩を過ごされたことと思います。私たちの住む花巻は震度5弱の揺れでした。会堂に飾っているフォトフレームやステンドグラスが落ちて割れるなどの被害はありましたが、私も妻もケガはなく、無事でした。皆さんのご自宅は大丈夫でしたでしょうか。岩手県内の諸教会では、いまのところ大きな被害があったとは伺っていません。
一方で、この度の地震より、東北や首都圏などの広範囲で停電が発生、東北新幹線が脱線するなど、様々な影響が生じています。福島県では複数の教会に被害が出ているとのことです。そのような中、一昨日から昨日の朝にかけて東北は大雪となりました。一面雪景色、また冬に逆戻りしたような肌寒さです。
まだ大きな余震が起こる可能性があります。金曜日の夜にも岩手県沿岸北部で強い地震がありましたね。引き続き、余震にはご一緒に気を付けたいと思います。この度の地震で被災された方々の上に主のお支えがありますように、必要な支援が行き渡りますように祈ります。
ウクライナでの戦争 ~一刻も早い戦闘の停止を
大きな地震の発生、なかなか感染が収まらないオミクロン株など、私たちの周囲には様々な困難が生じていますが、国外ではウクライナでの戦争が続けられています。
16日には、ウクライナ南東部マリウポリへ空爆が行われ、市民の避難所となっていた劇場が爆撃されました。建物の地下には女性、子ども、高齢者を中心に最大1000人もの方々が避難していたとのことです。すでに約130名が救出されたとのことですが、まだ数百人が内部に閉じ込められていることが明らかにされており、大変気がかりです。
民間人を対象とした無差別攻撃は決して許されないことです。一刻も早く、この戦闘が停止へと至りますように、これ以上かけがえのない命が失われ、傷つけられることがないように祈ります。
「あなたはキリスト、救い主です」
「イエス・キリストとは何者ですか」――。このように聞かれたとき、皆さんはどうお答えになるでしょうか。その回答は、人によって違うことでしょう。キリスト教の信仰を持っている人にとっては、イエス・キリストは「神の子、救い主」であるでしょう。キリスト教の信仰は持っていないけれどイエスを尊敬している人にとっては、「生き方の指針となる人」というのがその答えであるかもしれません。またある人にとっては、世界史の教科書に出て来る「歴史上の人物」であるのかもしれません。
イエスさまが生きておられた当時も、イエスさまについて様々なことが言われていたようです。ある人は「洗礼者ヨハネ(の後継者)だ」と言い、ある人はイスラエルの偉大な預言者である「エリヤ(の再来)だ」と言い、またある人は「預言者の一人だ」と言っていたことが本日の聖書箇所には記されています(マルコによる福音書8章27、28節)。イエスさまに対して、人々から様々な評判が立てられていたのですね。
本日の聖書箇所では、イエスさまが弟子たちからご自身についての評判をお聞きになった後、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」とお尋ねになったことが記されています(29節)。このイエスさまの問いに対し、弟子のリーダー格のペトロは、「あなたは、メシアです」と答えました。
「メシア」とはヘブライ語で「油注がれた者」という意味をもつ言葉で、後に「救い主」という意味で用いられるようになった言葉です。この「メシア」のギリシア語訳が「キリスト」です。ですので、ここでペトロは主イエスに対して「あなたはキリスト、救い主です」と答えたことになります。
受難の予告 ~衝撃的な言葉
「あなたはキリストです」。一見、ペトロはふさわしい答えをしたように見えます。しかし主イエスはペトロのその答えを聞いて、このことをだれにも話さないようにと命じられました。
そして、次のように弟子たちに教え始められた。《人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている》(31節)。これからご自分は多くの苦しみを受け、宗教的な権力者たちから排斥されて殺されることを予告されたのです。そして、三日目に復活することをも予告されました。イエスさまはここでそのことを抽象的に語るのではなく、はっきりとお話しになりました。
福音書の物語をすでに知っている私たちからすると、何の違和感なく読むことが出来る言葉かもしれませんが、その場にいた弟子たちにとってはただ唖然とするほかない、衝撃的な言葉であったことでしょう。
ペトロが期待していたキリスト像 ~政治的な救い主
特に、「あなたはキリストです」と答えたペトロは、非常に困惑したのではないでしょうか。ペトロが待望していたキリストとは、多くの苦しみを受けたり、権力者たちから排斥されるような存在ではなかったからです。ましてや、殺されてしまうなんてとんでもない、そんなことは絶対あってはならないと思ったことでしょう。
ペトロは思わずイエスさまわきへお連れして、いさめ始めます(32節)。「何をおっしゃるのですか、先生。そんなことは絶対あってはならないことです」という必死の気持ちだったのでしょう。
そのときペトロが頭に思い描いていたキリストは、「偉大な政治的な救い主」でありました。そのような意味で、ペトロは「キリスト(救い主)」という言葉を用いていた可能性があるのですね。当時、イスラエルは強大なローマ帝国の支配下にありました。いわば属国的な位置にあり、当時はローマの支配から独立しようという動きが高まっていた時代でした。そのような中、人々は自分たちをローマの支配から解放する政治的な救世主の登場を待ち望んでいました。そして一部の人々は、ナザレのイエスこそ、その救世主ではないかと期待していたのです。「あなたはキリストです」というペトロの告白も、その切なる願いが吐露されたものとして受けとめることもできます。
「あなたはキリスト、私たちをローマの支配から解放する救世主です!」――。そのペトロの告白に対しては、イエスさまはうなずくことはなさいませんでした。ペトロがイエスさまに熱烈に期待している事柄と、イエスさまご自身がこれから実際に成し遂げようとしている事柄とはまったく異なるものであったからです。
この地上に「神の国の福音」をもたらすこと
では、イエスさまが目指しておられたのは、何だったのでしょうか。それは、この地上に「神の国の福音」をもたらすことです。国家としてのイスラエルの再興ではなく、神の国の建設をイエスさまは志しておられました。
ここでの神の国とは、ある特定の国家を指すものではありません。そうではなく、神さまの愛の支配が満ち満ちているところのことを指しています。私なりに表現すると、「神さまの目に大切な一人ひとりの生命と尊厳が尊重されている場」のことです。そのような場として、本日はご一緒に神の国を受け止めてみたいと思います。
ナショナリズムが高まりを見せる中で
もちろん、自分が属する国家や民族に誇りを持つことは大切なことです。と同時に、それが自分を構成するすべてではないのも、もちろんのことです。「わたし」という存在を構成する大切な一つの要素が国や民族でありましょう。それはかけがえのない一要素であると同時に、すべてでもありません。
自分を構成するこの一要素をあたかも「すべて」であるかのようにして国家と自分とを同一化させてしまうことには注意が必要でありましょう。国家と自分の存在を同一化させるとき、私たちは個人を超えた、大きな「わたし」の感覚を得ることがあります。確かに、その「われわれ」意識は私たちにある種の高揚感、連帯感や一体感を与えてくれます。しかしその一方で、その拡大した「われわれ」意識において、個々人の存在への感受は希薄になってゆきます。国家の存立・繁栄が第一命題となり、国民一人ひとりの生命と尊厳が軽んじられてしまう危険性があるのです。
イエスさまが生きておられた時代、ペトロを始め、多くの人々がいまだこの大きな「われわれ」意識の中を生きていたのだと思います。この拡大した自己意識を「ナショナリズム」という言葉で言い換えることもできるでしょう。ナショナリズムが非常な高まりを見せる中で、イエスさまは独り、別のところにまなざしを向けられていました。イエスさまが意識しておられたのは、神さまの目にかけがえのない存在としての「わたし」であり、そして、神さまの前にただ一人で立つ者としての「わたし」です。
排他的なナショナリズムの勢いが増し、「われわれ」意識が巨大な風船のように膨れ上がる中で、イエスさまは最小単位の「わたし」に立ち戻るよう人々に教えられました。神さまから見てかけがえのない「わたし」自身に立ち戻るようにと教えられました。イエスさまの神の国の教えは、巨大な風船のように膨らんだ「われわれ」意識を破裂させるものであり、権力者たちから危険人物として警戒されたのも当然のことであったと言えるでしょう。
神さまの前にただ一人で立たされる経験
本日の聖書箇所において、ペトロはイエスさまに向かって、「あなたはキリストです」と答えました。しかしそれはナショナリズムが高揚する中で発した言葉であって、神さまの恵みの前に立たされた者として発した言葉ではありませんでした。
ペトロが神さまの前にただ一人で立たされる経験をしたのは、イエスさまが十字架の死を遂げ、そして三日目に復活された後でした。ペトロたちは復活のキリストとの出会いを通して、イエスさまが十字架におかかりになったのは他でもない、この「わたし」のためであったのだということを知らされたのです。
イエスさまのことを誤解し、さらには「そんな人は知らない」と裏切った自分を、イエスさまは愛して下さっていた。すべてを受け止め、十字架におかかりなってくださっていた。その圧倒的な愛の前に立たされる経験をペトロはしたのです。
ただ「自分一人」のために
浄土真宗の親鸞上人の言葉に、《弥陀の五劫思惟(ごこうしゆい)の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人(いちにん)がためなりけり》という言葉があります(『歎異抄』後記より)。
《五劫思惟》とは阿弥陀仏がまだ菩薩であったとき誓願を立てるため長い間思索をされたことを言いますが、阿弥陀仏の長い時間をかけたその救いの約束は、ひとえにただ「自分一人」のためであった、というのですね(参照:鈴木大拙『日本的霊性』、岩波文庫、1972年、97-101頁)。親鸞上人はそのような深い宗教体験をされたようです。
阿弥陀仏とキリストという違いはありますが、ペトロたちの経験と親鸞上人の経験とには共通するものがあるように思います。大いなる存在の圧倒的な愛と恵みを前に、かけがえのないただ一人の「わたし」を自覚する経験です。
もはや国家と一体化した自分を生きるのではない。あるいは、誰かからの期待を背負った仮面の自分を生きるのでもない。神さまの愛の光のもとで、神さまの目にかけがえのない=替わりがきかない、ただ一人の「わたし」として生きてゆく。そのための道をイエスさまは教えて下さっています。それは言い換えますと、個人の尊厳の光の中を歩む道です。
まず神の国を祈り求めること ~一人ひとりの生命と尊厳が守られるように
ご自分をいさめようとするペトロを前に、イエスさまは後ろを振り返り、弟子たちを見ながらおっしゃいました。《サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている》(33節)。ここでイエスさまはペトロのことを「サタン」と呼んだのではありません。ペトロの背後で、彼の魂を支配している力のことを「サタン」と呼んだのです。
《サタン、引き下がれ》の「引き下がれ」は、「私の後ろに行け」という意味がある言葉です。私たちは何よりもまず、神の国を祈り求めなければならない(マタイによる福音書6章33節)。私たちの社会において価値あるとされる事柄も、この神の国の福音を前にするとき、後ろへと退かねばならない――。イエスさまのその決意が込められた言葉として、本日はご一緒に受け止めたいと思います。神さまの目に大切な一人ひとりが誰一人失われることのないように、イエスさまは独り、十字架と復活への道を歩んでゆかれました。
現在、私たちの近くに遠くに、神さまの目にかけがえのない一人ひとりの生命と尊厳が軽んじられている現実があります。このような状況のいま、神の国の福音に心を向け、神の国を第一に祈り求めてゆきたいと思います。一人ひとりの生命と尊厳が守られることが何にもまして優先されねばならないということ。この真理を私たちの心に刻みたいと思います。