2022年3月27日「これはわたしの愛する子、これに聞きなさい」

2022327日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:出エジプト記241218節、コリントの信徒への手紙二416節、マルコによる福音書9210

これはわたしの愛する子、これに聞きなさい

 

 

受難節において大切にされてきた三つのこと

 

私たちは現在、教会の暦で受難節の中を歩んでいます。受難節はイエス・キリストのご受難と十字架を心に留めて過ごす時期です。受難節は今年は416日(土)まで続きます。そうして417日(日)、私たちはイースターを迎えます。

 

受難節の時期に、伝統的に大切にされてきた三つのことがあります。断食、祈り、そして他者への支援(慈善)です。

 

まず一つ目の断食について説明いたします。キリスト教会では伝統的に、受難節の時期に断食や節制をするということがなされてきました。たとえば現在も、受難節の時期にお肉やアルコールを控える方々もおられます。もちろん、皆が必ず節食をしなければならないということではありません。大切なのは、イエス・キリストのご受難を思い起こし、そのお苦しみにつながろうとする姿勢でありましょう。それぞれの仕方で、イエス・キリストのご受難を心に留めて過ごすことが大切であるのだと思います。

 

二つ目の祈りについては、皆さんもその通りであると納得されることと思います。主のご受難を心に留めて、祈りつつ過ごすこと、これは受難節において大切な事柄ですね。

 

 三つ目の他者への支援については、意外に感じる方もいらっしゃるかもしれません。受難節というと部屋に籠って静かに祈りをささげるというイメージがあるかもしれないからです。けれども、キリスト教では伝統的に、受難節の時期に他者を積極的に支援することが推奨されてきたのですね。家の中で静かに過ごすだけではなく、助けを必要としている人々のために自分にできることをすることが大切なこととされてきたのです。

 

 聖書の中にも、このことと通ずる言葉が記されています。旧約聖書のイザヤ書の言葉です。《わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて 虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え さまよう貧しい人を家に招き入れ 裸の人に会えば衣を着せかけ 同胞に助けを惜しまないこと(イザヤ書5867節)

  ここでは、家の中で断食をしているだけでは十分ではないのだ、ということが語られています。パンを必要としている人に自分のパンを裂き与える、服を必要としている人に自分の服を与えるなど、いま困難な状況にある人々を支えるために自分にできることを行うことが、断食の時期に大切なことであると言われているのですね。そしてそれが神さまの心に適うことなのだとイザヤ書は語っています。

 

316日の福島県沖を震源とする地震から10日ほどが経ちました。いまも多くの方が懸命に復旧作業にあたっています。自然災害によって、原発事故によって、新型コロナウイルスによって、長期化するコロナ対策の影響によって、また様々なことで、いまも多くの人が困難の中にいます。困難のただ中にいるからこそ、私たちは互いに支え合い、配慮し合ってゆくことが求められています。私たちも身近なところから、支えを必要としている人のために、自分にできることを行ってゆきたいと思います。

 

 

 

国のために国民の命を犠牲にする在り方ではなく

 

国外に目を向けると、ウクライナで悲惨な戦闘が続けられています。皆さんも日々、報道に触れ、心を痛めていらっしゃることと思います。一刻も早く停戦の合意へと至り、これ以上かけがえのない命が傷つけられ失われることがないよう、また困窮している方々に必要な支援が行き渡りますよう切に願うものです。

 

23日にはウクライナのゼレンスキー大統領がオンラインを通して国会で演説を行いました。一部のマスメディアにおいてゼレンスキー大統領を英雄視するかのような報道がなされることがありますが、大いに疑問を覚えるものです。ロシアのプーチン大統領が主導するこの度の侵略戦争が決してゆるされないものであることは、もちろんのことです。一刻も早くこの非人道的な戦闘行為を停止するようにと願います。と同時に、国民に武器をとって「祖国のために戦う」ことを強要し、ウクライナの人々の命をないがしろにし続けているゼレンスキーの大統領の判断もまた誤ったものであると言わざるを得ません。武器をとって国家のために戦うことを市民に求めるゼレンスキー大統領の言説は、「国のために命をささげよ」と強要したかつての太平洋戦争末期の日本軍の在り方を彷彿とさせるものです。この1か月のゼレンスキー大統領の言説を見ていますと、「国民の命を守る」という最大の責任を一貫して放棄し続けていると言わざるを得ません。

 

国家の存立のために国民に犠牲を強要することは、極めて危険な考えです。私たち人類はこれまで、幾多の悲惨な戦争を経て、それをしてはならないことを学んできたのではなかったのでしょうか。

 

私たちの住む日本も戦時中、国民に国のために命を差し出すことを要求しました。国内外に甚大なる犠牲をもたらした末、今から77年前の1945年、戦争が終結しました。この過去の過ちの歴史を踏まえ、国のために国民の命を犠牲にする在り方ではなく、一人ひとりの命と尊厳がまことに大切にされる在り方をいかにしたら実現してゆくことができるのか、私たちは考え続けてきたのではなかったのでしょうか。それは日本だけではなく、これまで、幾多の悲惨な戦争を経験してきた各国がそうでありましょう。《人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果》(憲法第97条)によって積み上げられてきた良識がいま、世界的に大きく揺らいでいる状況にあるように思います。ゼレンスキー大統領の国家主義的(国家に最上の価値を置く考え方)な言説が、国内外で無批判に賞賛され支持されている現状もその表れでありましょう。この先、国家主義的な言説がさらに力を持つことになっていかないかを危惧しています。そしてこの国家主義は軍事力の増強・拡大と不可分につながっているものです。

 

私たちはいま改めて過去の歴史に「学び」、これ以上武器を取って戦うことを「学ばない」ことが求められているように思います。またそして各国の政治家の方々は、国会でゼレンスキー大統領にスタンディングオベーションで拍手を送ったり武器を提供することなどで支援するのではなく、ウクライナとロシアの両軍が一刻も早く停戦の合意へ至ることができるよう本気になって働きかけていただきたいと願います。

 

イザヤ書245節《主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。/ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう》。

私たちはもはやこれ以上、武器をとって戦うことは学ばない。一人ひとりをかけがえのない存在として愛されたイエス・キリストのお姿にこそ学び、いかにしたら命と尊厳がまことに大切にされる在り方を実現してゆくことができるか、ご一緒に問い続けてゆきたいと思います。

 

 

 

山上の変容

 

本日の聖書箇所は「山上の変容(主の変容)」と呼ばれる場面です(マルコによる福音書9210節)。イエス・キリストがペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子たちと共に山に登られた際、イエスさまのお姿が変わり、その服が真っ白に輝いたという場面です。正教会では、この山上の変容はクリスマスやペンテコステと共に、祭日の一つとして祝われています。

 

イエスさまが弟子たちと共に登られた山がどの山であるのかは分かりませんが、伝統的には「タボル山」とされてきました。タボル山はパレスチナにある標高575メートルのなだらかなお椀型の山です。

 

山の上でイエスさまのお姿が不思議な光に包まれたとき、モーセとエリヤが現れて一緒に語り合った、と福音書は記します24節)。モーセとエリヤは旧約聖書を代表する人物です。

弟子のペトロは何が起こっているのか分からぬままに、夢見心地で3人に話しかけます。《先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです5節)

すると、雲が現れてペトロたちを覆いました。そうして、その雲の中から声が聞こえてきました。《これはわたしの愛する子。これに聞け7節)。弟子たちは急いであたりを見回しますが、誰の姿も見えず、ただイエスさまだけが彼らと一緒におられました8節)

これが、山上の変容の場面のあらすじです。何とも不思議な場面ですね。

 

 山を下りるとき、イエスさまは弟子たちにこうお命じになりました。《人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない9節)。弟子たちはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合いました。

 

 

 

イエスさまの体を包んだ「復活の光」

 

 この最後のイエスさまの言葉が指し示していることは、山の上でイエスさまの体を包んだ光と、「復活の光」であったということです。

 

先週の礼拝では、イエスさまがご自分の死と復活を予告する場面をご一緒にお読みしました(マルコによる福音書82733節)。本日の聖書箇所は、先週のこの場面と密接に結びついています。先週の場面においてイエスさまのご受難と十字架が予告されているのだとすると、本日の場面ではイエスさまのご復活があらかじめ示されているのだと理解することができます。イエスのお身体を包んだ光は、十字架の死の向こうから差し込む、復活の光を指し示すものであったのです。

イエスさまはその後、十字架への道を歩んで行かれます。私たちの想像を絶する苦難を受けられます。しかしその十字架への道は、死で終わるのではない。死をもって断ち切られるのではない。その先には、復活の命に至る道が続いている。イエスさまはその命の約束をも、ペトロたちに、そして私たちに伝えて下さっています。

 

 

 

《これはわたしの愛する子。これに聞け》 

 

 メッセージの冒頭ではウクライナでの戦争について言及しました。私たちの内外に、様々な困難な現実があります。なかなか希望を持つことが難しい現実があります。

日々の生活の中で、タボル山の上でペトロたちが垣間見たような壮大な光を実感することは、難しいことでもありましょう。私たちの周囲を、まるで絶えず薄暗闇が取り囲んでいるかのようです。

 

たとえ私たち自身は光を実感することは難しくとも、イエスさまはいつも私たちと一緒にいて、語りかけて下さっています。私たちはその声に、耳を澄ますことはできます。

これはわたしの愛する子。これに聞け》。ペトロたちは雲に覆われる中で、この神さまの声を聞きました。これはわたしの愛する子、これに聞きなさい――。

 たとえ真っ暗闇の中であっても、イエスさまは私たちに語りかけておられます。私たちはその言葉に、心を向けることができます。その言葉は、平和の言葉であり、愛の言葉であり、命の言葉です。そしてそれら一つひとつの言葉が、暗闇の中で輝く光となり、私たちの旅路を導くともしびとなってゆくことを信じています。

 

これはわたしの愛する子。これに聞け》。暗い状況のただ中にあって私たちと共にいてくださるイエスさまの声にいま、ご一緒に耳を傾けたいと思います。