2022年4月17日「復活の命の光」

2022417日 花巻教会 イースター礼拝説教・教会学校と合同

聖書箇所:出エジプト記141522節、ローマの信徒への手紙6311節、マルコによる福音書1618

 

復活の命の光

 

イースター礼拝

 

本日はイースター礼拝をごいっしょにおささげしています。イースターは、イエス・キリストが復活されたことを記念する日です。32日(水)から始まった受難節を経て、今朝、私たちはイースターを迎えました。

 

 玄関にイースター・ガーデンを飾っているのをご覧になられたでしょうか。イエス・キリストが十字架におかかりになったゴルゴタの丘と、イエス・キリストが葬られたお墓を再現したものです。イースターを迎えるにあたって、新たにお花も植えました。

 

左側の十字架が立っている部分がゴルゴタの丘です。右奥の石がお墓です。石のふたが外されていますね。復活の日の朝、この大きな石のふたが取り除かれていた。そしてお墓の中が空になっていたことを福音書は記しています。

 

復活の日の朝

改めて、本日の物語をご一緒に振り返ってみたいと思います。マルコによる福音書1618節は福音書の結びにあたる箇所です。

 

それは日曜日の朝のことでした。明け方の、辺りがまだうす暗い中、三人の女性がお墓に向かっていました。女性たちの名前は、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメと言いました。二人目の女性は、イエスさまのお母さんのマリアではないかとの説もあります。

 

マリアたちが向かっていたお墓には、亡くなったイエスさまのお体が収められていました。金曜日の午後3時、イエスさまは十字架の上で亡くなりました。十字架から降ろされたイエスさまのご遺体をお納めしたその墓にマリアたちは向かっていたのでした。

 

マリアたちは手に香油を持っていました。香油とは、よい香りのする油です。イエスさまの傷ついたお体を、せめてそのよい香りのする香油を包んで差し上げたい一心で、マリアはお墓に急いでいました。地平線には、夜明けの星が輝いていました。

 

ただ、マリアたちは気がかりなことがありました。それは、墓の入り口をふさいでいる大きな石のことです。イエスさまのお墓の入り口は大きな石でふたをされていました。先ほどご紹介したイースター・ガーデンでも、石のふたが再現されていましたよね。とても大きな石で、自分たちの力では動かすことができないものでした。マリアたちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていました。

 

さて、お墓に着きました。うつむいていたマリアたちが目を上げて見てみると、大きな石はすでにゴロンとわきへと転がしてありました。一体誰が動かしてくれたのでしょう? 不思議に思いながら、マリアたちはお墓の中に入りました。すると、白い長い衣をした若者が座っていました。マリアたちはびっくり仰天しました。

白い衣を着た若者はマリアたちに言いました。「驚くことはありません。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜していますが、あの方は復活なさって、ここにはおられません。ご覧なさい。お納めした場所です」。

若者に促されてお墓の奥の方を見ると、そこは空でした。横たえられているはずのイエスさまのお体は、そこにはありません。大切なイエスさまのお体は消え去っていました。

この白い衣を着た若者は、どうやら神さまから遣わされた使いのようでした。つまり、天使ですね。神さまから預かっている大切なメッセージを伝えるため、天使がここにやって来たようです。神さまからのその大切なメッセージとは、「イエスさまが復活なさった」ということです。

 

天使は続けます。「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤに行かれます。かねて言われていたとおり、そこでお目にかかれます』と」。

天使は、「復活されたイエスさまとガリラヤでお会いできる」ということを告げました。そしてそのことを弟子たちとペトロにも告げるようにと言いました。

ガリラヤとは、イエスさまの故郷です。マグダラのマリアやペトロたちがイエスさまと出会った場所です。マリアやペトロたちはガリラヤでイエスさまの弟子になりました。すべては、ガリラヤから始まって行ったのです。

天使はマリアたちに、再びガリラヤへ行くようにと告げます。そこで、復活したイエスさまと会うことができる。

 

マリアたちは突然の出来事にぼう然としながら、フラフラとお墓から出ました。明るい朝の光が、マリアたちの全身を包み込みます。朝の光の中で、マリアたちの体はぶるぶると震えていました。一体何が起こったのか、よく分からなかったからです。強い恐怖がマリアたちをとらえていました。マリアたちは墓から離れ、そして逃げるように駆け出して行きました。町に戻ってからも、イエスさまが復活されたことを、誰にも言いませんでした。

 

 

 

意外な終わり方

 

これが、マルコによる福音書が記す復活の日の朝の場面であり、そして福音書の結びです。その終わり方を、ちょっと意外に感じた方もいらっしゃるかもしれません。天使から復活の知らせを聞いて、マリアたちは大喜びするのかと思ったら、そうではなかった。マリアたちは怖くなって、逃げ去ってしまった。

これがもし自分がマリアの立場だったら、と想像してみたらどうでしょうか。大きな石が動かされていたり、天使が現れたり、お墓の中が空っぽだったり、そのような自分の理解を超えた驚くべきことが立て続けに起こったとしたら。びっくりしすぎて、ポカンとしてしまう、そして何だか怖くなってしまうのは当然のことかもしれません。

 

マリアたちは強い恐れにとらわれてしまっていたので、天使が告げた肝心のメッセージ――「イエスさまが復活なさった」という知らせをしっかりと受けとめることができませんでした。「復活されたイエスさまとガリラヤでお会いできる」というメッセージの意味も、理解することができませんでした。マリアたちはその後、ゆっくりと時間をかけて、その言葉の意味することを理解していったのでしょう。

それは、私たち一人ひとりもまた、そうなのではないでしょうか。「イエスさまが復活なさった」ことを誰かから聞いても、あるいは聖書で読んでも、すぐにそれを受け入れて理解することができる人は少ないのではないでしょうか。多くの人は、ゆっくりと時間をかけて、少しずつ、そのことを理解し受け入れてゆくのではないかと思います。復活というのはそれほど、私たちの理解を超えた出来事であるからです。

 

 

 

悲しみがあまりにも深く

 

マリアたちが天使たちのメッセージを理解できなかった理由がもう一つあるように思います。それは、マリアたちの悲しみがあまりに深いものであった、ということです。愛するイエスさまを失ったマリアたちの悲しみと失望は、天使の言葉も届かないほど、深かったのではないでしょうか。

 

マリアたちは愛するイエスさまが死んでしまったことにより、深い悲しみの中にいました。「すべては終わってしまった」という失望の中にいました。その悲しみと失望は、動かすことのできない大きな石のように、マリアたちの心をふさいでいました。

マリアたちの脳裏には常に、十字架におかかりになっているイエスさまのお姿が焼き付いて離れなかったのではないかと思います。目を閉じると、十字架におかかりになるイエスさまのお姿が浮かんできたことでしょう。イエスさまのお苦しみとその死を決して忘れないことが、遺された自分の唯一のつとめであるとも思っていたかもしれません。

 

 マリアたちの心は、天使の言葉によってさえも、動かされることはありませんでした。マリアたちの心を動かし、マリアたちの魂を立ち上がらせることができるのは、誰の言葉でもない、ただイエスさまご自身の言葉だけです。

 

 

 

心の中はいまだ受難節のまま

 

 受難節を経て、今日、私たちはイースターを迎えました。喜びの日を迎えました。教会の暦ではイースターを迎えても、心はいまだそれを実感できない方も多くいらっしゃるのではないでしょうか。心の中はいまだ受難節のままの方もいらっしゃるのではないでしょうか。

 

 長期化する新型コロナウイルスの感染拡大および感染対策は私たちの社会に甚大なる影響を与え続けています。コロナ禍での生活も3年目になりました。困難の中にいる方々の上に神さまのお支えがありますよう祈ります。

毎年のように発生する自然災害も、私たちの暮らしに大きな影響を与えています。1か月前の316日の福島県沖を震源とする地震では、建物をはじめ、様々な被害が生じました。いまも多くの方々が懸命に復旧作業にあたっておられます。また昨日、震度7の揺れが二度発生した熊本地震(2016414日、16日)から6年を迎えました。いまも困難の中、深い悲しみの中にある方々を覚え、ご一緒に祈りを合わせてゆきたいと思います。

 国外では、ウクライナで悲惨な戦争を続いています。皆さんも連日の報道を通して、大変辛い気持ちでいらっしゃることと思います。一刻も早く、この戦争が停戦へと至りますように、これ以上かけがえのない命が傷つけられ、失われることがないよう切に祈ります。

 

 様々な困難に直面する中で、心の中はいまだ受難節のままであるように感じられる方も多くいらっしゃるのではないでしょうか。イースターが訪れたことを実感できず、心の中はいまだ受難節のまま。暗い墓穴の前で、イエスさまの復活の知らせを聞いても、それを理解することができなかったマリアたちのように……。

 

 

 

ガリラヤへの招き

 

 本日の聖書箇所では、マリアたちはよみがえらえたイエスさまご自身とはいまだ出会ってはいません。マリアたちは、「イエスさまが復活なさった」ことを天使から伝え聞いただけです。

天使は、「復活されたイエスさまとガリラヤでお会いできる」という約束の言葉を贈りました。《さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われていたとおり、そこでお目にかかれる』と7節)

 

マリアたちはその後、ガリラヤにて、再びイエスさまと出会うことができたでしょうか。きっと再び出会うことができたことと思います。よみがえられたイエスさまご自身と出会うことができて初めて、マリアたちはイエスさまが復活されたことを心の底から理解することができたことでしょう。たとえ目には見えなくても、いつも共にいてくださることを理解することができたことでしょう。

 

たとえその喜びをいまは実感することができていなくても。暗い墓の前で呆然とたたずむマリアたちのように、いまは私たちの心の中は、悲しみや恐れでいっぱいになっているのだとしても。復活の朝はきっと訪れるのだと信じています。

 

よみがえられたイエスさまはマリアたちを、そして私たち一人ひとりを、ガリラヤへ来るようにと招いてくださっています。そうして、イエスさまと共に生きるようにと招いてくださっています。イエスさまがかつてガリラヤで示して下さった愛と平和の道を、今度は私たち自身が歩んでゆくことができるように、と。

 

 

 

復活の光の中で、ここガリラヤから

 

 よみがえられたイエスさまと出会うことができる場所、ガリラヤ。復活のイエスさまと共に生きてゆく場所、ガリラヤ。私たちにとっての「ガリラヤ」とは、どこでしょうか。それは他でもない、私たちがいま生きているこの場所です。悩み苦しみ、悲しみ、喜びながら生きるこの場所。時に互いに傷つけあいながらも、それでも、互いを愛そうとして生きるこの場所。ここが、私たちにとってのガリラヤです。

 

よみがえられたイエスさまは、いま、ここに共におられます。たとえ目には見えなくても、イエスさまはいま生きておられ、共に働いてくださっています。私たちに愛と平和の道を示し続けて下さっています。

 

 

 どうぞ、ここに集ったお一人ひとりが、ここガリラヤで、共に生きてゆくことができますように。イエスさまの復活の命の光の中で、ここガリラヤから、共に神の国を実現してゆくための一歩を踏み出すことができますようにと願います。