2022年6月12日「私たちは神さまの子ども」

2022612日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:申命記649節、マルコによる福音書1章911節、ローマの信徒への手紙81217

私たちは神さまの子ども

 

 

聖霊降臨節第2主日礼拝・三位一体主日

 

先週はご一緒にペンテコステ礼拝をおささげしました。ペンテコステは「聖霊降臨日」とも呼ばれ、イエス・キリストが復活して天に昇られた後、弟子たちの上に聖霊が降ったことを記念する日です。これからしばらく、教会の暦では聖霊降臨節が続きます。

 

本日の聖霊降臨節第2主日礼拝は、教会の暦で三位一体(さんみいったい)主日にもあたります。三位一体を記念し、礼拝をささげる日です。「三位」とは、父なる神、子なるキリスト、聖霊のこと。三位一体は、神はこの父・子・聖霊の三つなるお方であると同時に一つなるお方である(=一体である)とする、キリスト教独自の考え方のことを言います。

 

先ほど、讃美歌351番『聖なる聖なる』をご一緒に歌いました。『聖なる聖なる』は、三位一体を主題とした代表的な賛美歌の一つです。1番の歌詞の中に《三つにいまして ひとりなる》との言葉がありましたね。神さまは「父なる神、子なるキリスト、聖霊」の三つに区別されると同時に、ただ一人のお方であると謳われています。

 

三位一体の教理はキリスト教の教えの中で最も根本的なものであると同時に、最も理解しづらいものの一つでもあるでしょう。「聖書が語る神には、父なる神、子なるキリスト、聖霊の区別がある。この三つのお方は等しく神であり、それぞれ独自性をもったお方である。けれども、神さまは複数おられるわけではない。異なってはいるが、分離しているわけではない。主なる神はただお一人である」――。 論理的に理解しようとすると、とても難しいのが三位一体の教理です。他の宗教を信じている人々から見ると、キリスト教はもはや一神教ではなく、多神教(三神教?)になってしまっているように見えるかもしれません。

 

一方で、この教理のおかげで、今日まで、キリスト教がその固有性(かけがえのなさ)を保つことができてきたのだと言えます。これまでのキリスト教の歴史において、その固有性を形作る一番の大枠を提供していたのが三位一体の教理であったからです。先人たちが懸命に守り抜いてきた最も大切な教理の一つとして、いまを生きる私たちも敬意をもって受け止め続けることが必要でありましょう。

 

 と同時に、いまを生きる私たちは、伝統的なキリスト教信仰とは異なる信仰理解をもっている人々を否定しない姿勢が求められます。たとえば、現代のキリスト教会の中には、三位一体の信仰を否定している――あるいは、あまり重視をしない――教派もあります(ユニテリアン教会など)。では、その人たちがキリスト教徒ではないかというと、そうではないと私が受け止めています。たとえ三位一体に重きをおいていなくても、同じクリスチャンであることに変わりはないからです。その相違は、多面的なイエス・キリストのどの側面を重視するかが関係しています。

 

三位一体の信仰をはじめとする伝統的な信仰理解を否定する(重きを置かない)教派の方々が重視しているのは、「生前のイエス」の側面です。ナザレのイエスが一人の人間としてどのように生きてゆかれたのか。その側面を特に重視する場合、伝統的なキリスト教の信仰理解が背後に退く場合があります。これは、神の子キリストの側面を特に重視するか、人の子(人間)イエスの側面を特に重視するかの相違によるものです。

 

かつては、三位一体の教理を否定するだけで、激しく迫害された時代もありました。たとえば宗教改革の時代1553年)、スイスのジュネーヴにて、三位一体を否定したミカエル・セルヴェトゥスという人が、火あぶりの刑に処せられ殺されるという痛ましい事件も起こっています。伝統的な三位一体の教理とは違う思想信条を表明しただけで、異端とされ、激しく迫害された時代もあったのです。現在、ジュネーヴのセルヴェトゥスが処刑された場所には、セルヴェトゥス事件が過ちだったことを告白する贖罪の碑文が立てられています1903年建立)

 

 現代を生きる私たちが気を付けるべきことは、自分たちの信仰こそが絶対的に「正しい」として、自分たちとは異なる思想信条をもつ相手を否定し攻撃したりしてしまうことです。異なる思想信条を持つことを理由に、相手の生命と尊厳を否定したり軽んじたりするということは、決してあってはならないことです。自分とは異なるその相手も、神さまの目から見て尊厳ある存在であるということを、私たちは決して忘れてはなりません。

 

 また、私たちがいま知っている事柄はごく僅かなものでしかないことも、私たちは常に心に刻んでおく必要があるでしょう。私たちはいまだ、神さまの神秘のごく一部分しか理解することができていません(コリントの信徒への手紙一1312節)。教会の教理も、神さまの神秘のごく一部を指し示すものでしかありません。私たち人間の理解をはるかに超えて、キリストの愛は広く、長く、高く、また深いものです(エフェソの信徒への手紙318節)。私たちの理解を超えて、イエス・キリストは多面的な方でいらっしゃるのだと思います。

 

イエス・キリストご自身が多様な側面をもっていらっしゃるように、私たちの信仰にも、実は、さまざまなかたちがある。そしてその違いは、あって「良い」ものであることをご一緒に思い起こしたいと思います。私たちの間には、いまだ私たちが理解できていない役割分担があります。神さまが与えて下さっている、大切な役割分担があります。神さまの目から見ると、私たちの関係性は本来、「違いがありつつ一つ」に結ばれているのだと私は信じています。

 

 

 

神の霊、人間の霊

 

 本日は教会の暦で三位一体主日であるいうことで、三位一体について少しお話ししました。次に、三位一体の一つである聖霊なる神さまについて、お話ししたいと思います。

 

聖書は、聖霊をさまざまなイメージで表しています。風で表現したり、火で表現したり、鳩で表現をしたり……。聖霊は目には見えませんが、さまざまな仕方で私たちの内に働きかけ、私たちと共にいてくださる方であることを聖書は語っています。

 

日本では、「霊」と聞くと、亡くなった人の魂や幽霊のことを思い浮かべることが多いかもしれません。聖書でも、「霊」という言葉が聖霊以外にも用いられることがあります。

たとえば、聖書の中には《汚れた霊》という言葉が出て来ます。《悪霊》と同じ意味の言葉です。イエス・キリストが《汚れた霊》をお叱りになって、人の中から出て行かせる場面が福音書に出て来ますね(マタイによる福音書122232節、4345節など)。悪霊がどのような存在であるかは様々な解釈が可能かと思いますが、人間に憑りついてその人の主体性を奪う何らかの否定的な力として登場していると言うことができるでしょう。聖霊とは真逆の働きをする悪しき力として、これらの霊は登場します。

また、私たち人間の心から発されている想いが「霊」という言葉で呼ばれることもあります。人の想いももちろん、目には見えないものですね。それらの想いは目には見えないけれど確かに存在し、自分と他者に大きな影響を及ぼしています。それらの想いは肯定的な方向に動いてゆく場合もあれば、否定的な方向に――他者との関係を壊す方向に動いて行ってしまう場合もあります。他者との関係性を破壊する方向に働く「霊(想い)」については、聖書では《人を惑わす霊》などの表現で呼ばれることもあります(ヨハネの手紙一46節)

 

 

 

霊を吟味すること

 

「霊」という言葉は、原文のギリシャ語では「プネウマ」という言葉です。プネウマには神から出た「聖なるプネウマ(聖霊)」もあれば、私たちの自己中心的な想いから出た「人のプネウマ(人の霊)」もあるのですね。私たちは日々の生活の中で、意識はしないけれど、様々な目には見えない力から影響を受けています。

ヨハネの手紙一には《愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい》という言葉があります41節)。私たちは聖霊のお働きについて考えるとき、それが聖霊のお働きであるのか、それとも自分や誰かの想いであるのか、よくよく吟味をする必要があるでしょう。実際は自分の想いであるのに、それを神さまの霊によるものだとみなしてしまう(混同してしまう)こと、そしてそれを他者に強要してしまうことは容易に私たちに起こることだと思います。

 

 

 

私たちは神さまの子ども

 

 本日の聖書箇所は、聖霊のお働きがどのようなものであるのか、大切な指針を私たちに伝えてくれています。改めて14節以下をお読みいたします。ローマの信徒への手紙81417節《神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。/あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。/この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます》。

 

ここでも、神の霊と人間の霊とが出て来ています。ここでは人間の霊は、《人を奴隷として再び恐れに陥れる霊》15節)と呼ばれています。人を支配し、恐れに陥れる否定的な力であるというのですね。

対して、神さまの霊(聖霊)は私たちを《神の子とする霊》であると述べられています。私たちを神さまの子どもとするよう働いて下さる力、それが聖霊の力であるのですね。

 

文中に《アッバ》という言葉が出てきました。《この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです》。「アッバ」はアラム語で、幼い子どもが父親を親しく呼ぶ言葉です。「パパ」「父ちゃん」というニュアンスでしょうか。この呼び方はイエスさまご自身が生前、実際にそのように神さまに呼びかけていたことに由来しています。イエスさまのこの呼び方が、その後、弟子たちの間にも伝えられていったようです。

 

神さまはイエスさまのことを「愛する子」(マルコによる福音書111節)と呼び、イエスさまは神さまのことを親しく「アッバ」と呼んでいた。このことから、神さまと御子イエスの関係性が、相互の愛と信頼に基づくものであることが分かります。悪しき霊のように、人を恐れによって支配する、支配‐被支配の関係(主従関係)に基づくものではありません。そして聖霊は、私たちが悪しき力の支配から解放され、まことの愛と信頼に基づく関係性を結ぶことができるよう働いてくださる方です。御子イエス・キリストを通して、私たちもまた、この愛と信頼に満ちた関係を神さまと結ぶことができるように、と。

 

「私たちを神の子どもとする」こと、ここに、聖霊の根本的なお働きの一つがあることを本日の聖書箇所は伝えてくれています。私たちは誰かの奴隷なのではありません。誰かのロボットなのでもありません。私たちは一人ひとり、大切な神さまの子どもであるのです。

 

 

 

愛と信頼に基づく関係性を結んでゆくことができますように

 

 本日は、聖霊は私たちを神さまの子どもとしてくださる方であることをご一緒に聖書に聴きました。一方で、聖霊とは対照的な、《人を奴隷として再び恐れに陥れる霊》の存在についても確認しました。

 

いまを生きる私たちも日々の生活の中で、様々な「悪しき霊」「人を惑わす霊」の影響を受け続けています。恐れや不安によって人を支配し、コントロールしようとする力の影響を受けています。支配‐被支配の関係性というのは、私たちの近くに遠くに、様々な場面で容易に発生し得るものです。職場で、学校や大学で、あるいは家庭で、多くの方がいま、この悪しき力によって苦しめられています。いじめやハラスメント、様々な暴力も、この悪しき力によって生じているものでしょう。この悪しき力は、私たちの内にも外にも存在しています。私たちはこの力を行使する側の立場にもなり得ますし、この力を行使される立場にもなり得ます。人を支配‐被支配の関係性に陥れるこの否定的な力といかに対峙してゆくかは、現代の私たちの喫緊の課題です。

 

 

 私たちが悪しき力の支配から解放され、神さまと隣人とまことの愛と信頼に基づく関係性を結んでゆくことができますように、聖霊なる神さまに助けと導きをお祈りいたしましょう。