2022年8月28日「新しい人を身に着け」

2022828日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:ミカ書618節、マルコによる福音書104652節、エフェソの信徒への手紙41732

新しい人を身に着け

 

 

 

811日(木)に38度の発熱と頭痛の症状があり、翌日発熱外来で検査を受けたところ、新型コロナウイルス陽性が判明したため、21日(日)まで10日間、自宅で療養を続けておりました。この度はご心配をおかけいたしました。また、お祈りいただきありがとうございました。おかげさまで、私も妻も体の調子は回復してきております。小田島久子先生には14日(日)に引き続き21日(日)も説教を担当いただき、心より感謝申し上げます。

熱と頭痛の症状は2日ほどで下がりましたが、熱が下がってから10日間ほど、倦怠感と嗅覚異常が続いていました。この数日は倦怠感もかなり薄れ、嗅覚もほとんど元に戻っていますので、ご安心ください。

この度の経験を通して、症状の辛さ、後遺症の辛さを私なりに実感いたしました。また、自宅療養の大変さを改めて実感いたしました。いまこの時、療養していらっしゃる方々の大変さを思います。皆さんもどうぞくれぐれもお体ご自愛ください。

いま自宅あるいは病院で療養中の方々の上に神さまの癒しがありますように、後遺症が残ることがないようにと切に願います。また、ワクチン接種の後遺症によって苦しんでいる方々の上に神さまの癒しがありますように、長期にわたるコロナ対策の中で困難を覚えている方々の上に主の助けがありますよう、引き続きご一緒に祈りを合わせてゆきたいと思います。

 

 

 

《古い人》と《新しい人》

 

 冒頭で、ご一緒に本日の聖書箇所であるエフェソの信徒への手紙41732節をお読みしました。その中に、次の言葉がありました。

2224節《だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、/心の底から新たにされて、/神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません》。

 

《古い人》と《新しい人》という、独特な言葉が出てきていますね。《古い人》とはこれまでの自分のことを指し、《新しい人》とはイエス・キリストと出会って新しく変えられた自分のことを指しています。

本日の聖書箇所では、私たちは今や《新しい人》となったのだから、新しい生き方をすべきだということで、日々の生活におけるさまざまな指針が語られています。隣人に対して真実を語るように25節)、自分の収入を困っている人々に分け与えるように28節)。悪い言葉は一切口にしてはいけない29節)、互いに親切にし、憐れみの心で接し、互いに赦し合うように32節)……など。ここに書かれていることはもちろん大切なことで、私たちの日々の生活の指針とすべき事柄です。と同時に、ここに書かれているリストを毎日行うというのは、私たちにはなかなか難しいことでもあります。これらリストを毎日完璧に実行できているという人は、ほぼいないのではないでしょうか。

 

 新約聖書に収められた手紙の文章の特徴として、白か黒かをはっきりと示す傾向があります。少し難しい言葉を用いると、「二分法的」な表現の仕方です。0100かで物事を表す表現の仕方ですね。イエス・キリストと結ばれて、私たちは100パーセント新しく変えられた。だから、私たちは生き方をも100パーセント新しく変えなければならない、とのニュアンスで本日の聖書の言葉も記されています。

 

一方で、実際の私たちの人生において、一気に100パーセント変わるということは、なかなか起こらないものです。変わると言っても、少しずつ変わる、たとえば数パーセントずつ、あるいは0.1パーセントずつ、ほんと少しずつ変わってゆく。そのような場合がほとんどではないでしょうか。

 

もちろん、本日の手紙が二分法的な表現の仕方をしていることにも理由があります。イエス・キリストを通して、それほど決定的な出来事が起こったと考えているからです。イエス・キリストを通して、私たちの存在が、全世界が、100パーセント新しくされるほど、決定的なことが起こった。いわば180度の大転換が起こった、そう確信しているので、このような表現の仕方をしているということがあるでしょう。その確信に基づいて、エフェソの信徒への手紙の著者は、《古い人》を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて《新しい人》を身に着けよう、と読者に呼びかけています。

 

 

 

「少しずつ変わる」こと

 

 このことを踏まえた上で、本日はまた違った観点からお話をしたいと思います。それは、「少しずつ変わる」ことの大切さです。

 

臨床心理学者・心理療法家の河合隼雄さんはある講演の中で、「ちょっと変わる」ということはすごいことだということを述べておられます(『河合隼雄のカウンセリング講座』、創元社、2000年)

 

《……話が横道に入るようですが、僕はこういう仕事につく前に、自分の分析というのを五年ぐらい受けています。五年間やって人間がどのくらい変わるかということを自分でよく知っているわけです。あんまり変わらないんですよね、やっぱり()。しかし、あんまり変わらないけれど、どこか変わってくる。その、どこがどのぐらい変わって、それがどんな意味を持つかということを、自分で自覚してないといけないと思います。そして「あんまり変わらない」と言っていますけれど、その「ちょっと変わる」ということがどんなに偉大なことか。やはり、人間がちょっとでも変わるというのは、すごいことなんです》(同、16頁)

 

 引用した文章にありましたように、河合隼雄さんは人が「ちょっと変わる」というのはすごいこと、大変なことなのだと述べておられます。一方で、「180度変わる」のは、実は、そんなに大変なことではない。180度の変化は割合生じやすい。そして180度の変化はまたパッと元に戻りやすい、と(同、16頁)

 河合隼雄さんはこれを風見鶏のイメージでたとえています。屋根の上に取り付けられており、風向きによってクルリと向きをかえる風見鶏ですね。風見鶏は、風向きによってパッと180度向きを変える。風見鶏にとって、180度向きを変えることは平気である。でも風見鶏が5度だけ向きを変えようと思ったら、とてつもなく大変なことだ、と河合隼雄さんは述べています。そのように、私たちも「ちょっと変わる」というのはすごいことなのだ、と(同、1617頁)

 

 言われてみれば、確かにその通りだなあ、と思わされます。私たちは普段「180度変わる」ことを目指しがちだし、「180度自分が変わった」と思いたい。先ほどの0100かの二分法的な捉え方ですね。

ではなぜ「180度変わった」と思いたいかというと、その方が自分にとって楽だから、という部分もあるかもしれません。河合隼雄さんが述べるように、私たちにとって「少しずつ変わる」というのは大変なことでもあるからです。

 

私たちはそれぞれ、さまざまな課題を持っています。家族や友人との関係、学校や職場での人間関係。心のこと、体のこと、仕事のこと、将来のこと……。「少しずつ変わる」とは、それら具体的な課題に一つひとつ向か合い、取り組んでゆくことを意味しています。それらの作業は確かに、私たちにとって時に重たいものですね。「180度変わる」場合、その面倒で細かな作業を一気に飛び越えてゆくことができるので、私たちにとって魅力的なのかもしれません。しかしその「180度の変化」は、「少しずつ変わる」という着実な過程を経ていないので、何かのきっかけでまたクルッと元に戻りやすいものでもあるのでしょう。

 

 

 

焦らずゆっくりと

 

 先ほどの《古い人》と《新しい人》で言えば、私たちは《新しい人》に「少しずつ変わってゆこうとする」ことが大切なのではないでしょうか。必ずしも180度、これまでの自分から新しい自分へと変化しなくてもよいのです。もちろん、イエス・キリストと出会ったことによって、一気に自分自身とその生き方が180度変わったという方もいらっしゃるでしょう。それはとても素晴らしいことです。と同時に、多くの場合、一気に180度変わることはあまり起こらないのではないでしょうか。むしろ、焦らずゆっくりと、具体的な課題に向かい合い、1度ずつでも0.1度ずつでも、「少しずつ変わってゆく」姿勢が求められているのだと思います。またそして、その少しずつ変わってゆく過程の中にこそ尊いものがあり、また生きてゆくことの喜びもあります。

 

 イエス・キリストは私たちといつも共にいて、その力を私たちに与えてくださっている方です。「あなたにはそれができる」、とイエスさまは私たちを励まし、力づけてくださっています。

 

 

 

キリストに結ばれ、少しずつ「かけがえのない私」になってゆく

 

改めて、42224節をお読みいたします。2224節《だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、/心の底から新たにされて、/神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません》。

 

最後の24節に、《神にかたどって造られた新しい人を身に着け》との言葉がありました。旧約聖書(ヘブライ語聖書)の創世記1章に、神さまがご自分にかたどって人間を造られたという記述が出て来ます(創世記127節)。それほどまでに、私たち一人ひとりは神さまの目に尊い存在であることを示す表現です。その表現を踏まえ、ここでは《神にかたどって造られた新しい人を身に着け》と語られています。

 

 私たちが《新しい人》になるとは、いまの自分とは何か別の存在になることではないのだと思います。そうではなく、より自分らしい自分になってゆくことです。神さまは私たち一人ひとりを、ご自分にかたどって、かけがえのない=替わりがきかない存在として造ってくださいました。キリストに結ばれて、「かけがえのない私」になってゆくこと。そこに、神さまの願いがあるのだと信じています。

 神さまの目に価高く貴い(イザヤ書434節)私たちが誰一人失われることがないように、イエス・キリストは救いの業を成し遂げて下さいました。

 

 私たちはときに、自分が大切な存在だとは思えず、自暴自棄な衝動にとらわれてしまうことがあります。その想いの中で、自暴自棄な生き方をしてしまうことがあります。そのようなときは、私たち一人ひとりは《神にかたどって造られた》大切な存在なのだという真理に立ち返りたいと思います。そうしてその神さまの目に大切な自分にふさわしい生き方ができるよう、少しずつであっても、より良い方向へと向かってゆきたいと思います。

 

 

神さまからの尊厳の光を身にまといながら、私たちが少しずつ、「かけがえのない私」になってゆくことができますよう、そしてその喜びを共にしてゆくことができますよう願っています。