2023年1月29日「新しい神殿」

2023129日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:ハガイ書219節、コリントの信徒への手紙二614節—71節、ルカによる福音書2119

新しい神殿

 

 

 

エルサレム神殿

本日の物語の舞台はエルサレム神殿です。エルサレム神殿はエルサレム市街の中心に建てられた、ユダヤ教の礼拝の中心地であり、聖地であった場所です。イエス・キリストが生きておられた当時、神殿は人々の目に壮麗な姿を見せていました。

 

このエルサレム神殿は、イエスさまがお生まれになる20年ほど前から、ヘロデ大王による大規模な修繕と拡張工事が行われていました。イエスさまが神殿を訪ねられた時もいまだ一部が工事中であったと言われています。ヘロデ大王は敷地を大幅に拡張して境内を広くし、その周りに回廊を巡らしました。また、白い大理石で造られていた本殿の正面を金色に装飾しました。エルサレム神殿に巡礼に来た人々は、その規模の大きさときらびやかさに驚いたことでしょう。本日の聖書箇所にも、人々が神殿の装飾に感嘆している様子が記されています(ルカによる福音書215節)。スクリーンに映しているのは、イエス・キリストが生きておられた当時のエルサレム神殿を復元した模型です。

 

残念なことに、この神殿は現存していません。紀元70年、ローマ帝国との戦争によって破壊されてしまいました。神殿の外壁だけは現存しており、その西側の部分が、有名な「嘆きの壁」として残されています。この外壁もヘロデ大王による拡張工事の際に造られたものです。嘆きの壁は現在、ユダヤ教徒の方々が祈りをささげる場所となっています。皆さんも、写真やテレビの映像などで、嘆きの壁に手や額を当てて祈っているユダヤ教徒の方々の姿を見たことがある方もいらっしゃることと思います。スクリーンに映しているのはその嘆きの壁の写真です。高さは約19メートルもあります。長きにわたり、ここに集った人々が壁に手や額を当てて祈りをささげ続けてきたため、その部分の色が黒くなっています。これまで無数の人々が神殿の破壊を悲しみ、また幾多の民族的な苦難を経験する中で、神さまに祈りをささげてきたことのしるしです。

 

ちなみに、嘆きの壁は男性が祈りをささげるスペースと女性が祈りをささげるスペースが別々になっています。女性が入ることができるスペースは男性に比べて限定されており(およそ男性の3分の1)、祈りのささげ方にも制限があります。それは不平等であるという立場から、男女が共に祈ることができるスペースの創設を求める運動がユダヤ教内の一部の方々(たとえば、『Women of the Wall(嘆きの壁の女性たち)』)によって続けられています。

 

 

 

エルサレム神殿の構造 ~当時の社会の構造を映し出すものとして

 

 イエス・キリストが生きておられた当時、エルサレム神殿の門をくぐると、まず「異邦人の庭」と呼ばれる広い外庭がありました。「異邦人」は聖書特有の言葉で、ユダヤ人以外の人々を指す言葉です。異邦人の庭と呼ばれるこのスペースはユダヤ人も外国の人々も入ることができました。巡礼者を対象とした犠牲の献げ物の売り買いがなされており、大勢の人々で賑わっていたようです。

 

この異邦人の庭から2.4メートルほど高くなったところに、「女性の庭」と呼ばれる回廊がありました。このスペースは外国の人々は入ることはゆるされず、ユダヤ教徒の男性と女性だけが入ることができました。その境目には看板が立てられ、「異邦人であってその垣を超えるものは死をもって罰せられる」と記されていたそうです(参照:『新共同訳聖書辞典』、キリスト新聞社、1995年、259頁)。神殿の外側を大きな壁が取り囲んでいたことを先ほど述べましたが、神殿の内側にもユダヤ人と異邦人とを隔てる「壁」が存在していたのです。

 

女性の庭には、13個のラッパのようなかたちをした賽銭箱が置かれていました。神殿を訪れた人々はこの賽銭箱に献金をささげる決まりとなっていました。本日の聖書箇所において一人の女性がレプトン銅貨2枚をささげる場面が出て来ましたが(ルカによる福音書2113節)、その舞台となったのはこの女性の庭の回廊であったと推測できます。賽銭箱はお金を入れると音がしたそうです。たくさんの硬貨を入れると、それだけにぎやかな音がしたことでしょう。中には、周りの人々にアピールするため、わざとたくさんの硬貨を勢いよく入れる人もいたかもしれません。

 

神殿の内側にある「壁(垣根)」はそれだけではありませんでした。女性の庭の内側には「男性の庭(イスラエルの庭)」と呼ばれるスペースがあり、そこにはユダヤ人の男性しか入ることができず、女性は入ることはできませんでした。また、病いや障がいをもっている人も入ることはできなかったとのことです。

先ほど、嘆きの壁の前のスペースには男女の区別があると述べました。礼拝の場におけるその区別は、イエス・キリストが生きていた当時から存在していたものであったことが分かります。ユダヤ教徒の中には、その男女の区別を「伝統」として堅持しようとする立場の方々もいれば、「不平等」であるとして改革しようとする方々もいるのです。

 

男性の庭の内側には祭司たちしか入ることができない「祭司の庭」があり、さらにその奥には神殿の「至聖所」がありました。至聖所は、神が現臨すると考えられていた場所です。至聖所には大祭司と呼ばれる宗教上のトップの人物しか入ることがゆるされていませんでした。一般の信徒と祭司たちの間にも壁があり、さらに祭司たちの中にも壁があったということが分かります。

 

ご一緒にエルサレム神殿の構造を見てみましたが、これら神殿の構造は、イエス・キリストが生きておられた当時の社会の構造そのものを映し出しているということができるでしょう。社会の中に、幾重もの「壁」があるという構造です。民族や宗教、性別、心身の状態などによって、人を分け隔ててしまっているという社会の構造。当時の人々からするとその区別は先祖伝来の伝統であり――そしてそれは旧約聖書(ヘブライ語聖書)の律法に由来しています――、「当然」のこととして受け止められていたのかもしれませんが、現代の私たちの視点からすると、差別になり得るものだと言えるでしょう。

もちろん、これらはあくまで今から2000年前のイスラエル社会の状況であり、現在のユダヤ教内においては、たくさんの方々が差別や不平等の撤廃を求めて活動しておられます。

 

 

 

神殿の崩壊、新しい神殿の建設の予告

 

 さて、改めて本日の聖書箇所に戻りましょう。その日、イエスさまと弟子たちはエルサレム神殿を訪ね、回廊でお話をしていました。ある人々は神殿の見事な装飾に感嘆していましたが、その会話を聞いていたイエスさまは、驚くべき言葉を発されました。神殿の崩壊を予告されたのです。ルカによる福音書2156節《あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る》。

 

 イエスさまはここで神殿の崩壊を予告する同時に、「新しい神殿」が建てられることを暗に示唆されています。その新しい神殿をキリスト教では伝統的に、イエス・キリストご自身とその体として受け止めて来ました。イエス・キリストご自身が、エルサレム神殿に替わる新しい神殿となってくださった、と受け止めて来たのですね。

 

 その大切なメッセージを受け止めると共に、ユダヤ教の方々にとっては、エルサレム神殿が破壊されたことの悲しみはいまも続いている、ということも私たちは心に留めておく必要があるでしょう。ユダヤ教はイエス・キリストを「神の子・救い主」としては受け止めていませんせんので、いまだ新しい神殿は存在せず、破壊された神殿だけが目前に在り続けているということになります。ユダヤ教徒の方々からすると、聖なるエルサレム神殿が破壊されたという出来事は非常な苦しみ、悲しみであり続けているのです。私たちは聖書を読む際、ユダヤ教の方々の信仰にも想いを馳せながら読む、ということもこれからの時代においては大切なこととなってゆくのではないでしょうか。そして、キリスト教とユダヤ教はイエス・キリストの受け止め方は違いますが――その相違は確かにとても大きなものですが――、同じ神を信じていることには変わりはない、ということを私たちは忘れてはならないでしょう。

 

 

 

新しい神殿 ~すべての「壁」が打ち壊され

 

 そのことを踏まえた上で、改めて、新約聖書が提示する「新しい神殿」について考えてみたいと思います。キリスト教は伝統的に、新しい神殿をイエス・キリストご自身の体として受け止めて来ました。

 

この新しい神殿においては、人の手で作られたあらゆる「壁」が打ち壊されています。国と国とを隔てる壁、男性と女性を隔てる壁、いわゆる健常者と障がい者を隔てる壁。そして人間と神を隔てる壁――。イエスさまの十字架によって、これらの壁が取り除かれました。あらゆる壁が取り除かれ、すべての人が神さまご自身によって招かれています。

この新しい神殿においては、宗教と宗教とを隔てる壁も取り去られています。その意味で、新しい神殿とは、キリスト教やユダヤ教という枠組みをも本来は超えているものだということができるでしょう。人種や国籍、宗教、思想信条、職業や社会的な立場、セクシュアリティ、心身の状態の違いを超えて、すべての人が共に祈ることができる場。そして、そこに集う一人ひとりが、神さまの愛の中で、あるがままに存在することができる場、自分らしく生きてゆくことができる場、それが、イエスさまが体現してくださっている「新しい神殿」であると本日はご一緒に受け止めたいと思います。イエスさまが伝えてくださっている新しい神殿とは元来、キリスト教という枠組みをも超えた、非常に大きな視点であるということができると思います。この視点に立つとき、差別や不平等を撤廃しようと運動しているユダヤ教徒の方々ともつながってゆくことができるのではないでしょうか。

 

もちろん、それぞれに違いがあることは大切なことです。自らの出自、宗教、思想信条、職業、セクシュアリティ、心身の状態などもまた私たちの一部であり、私という存在の「かけがえのなさ」を形成しているものです。「違いがありつつ、一つ」というのが、聖書が伝える一致のあり方です。ただし、違いを理由に相手を攻撃したり、相手の存在を否定し軽んじるための「壁」を築くことがあってはなりません。違いを尊重し合い、互いの存在を重んじるための「橋」をこそ、これから私たちは築いてゆかねばならないでしょう。

一人ひとりがあるがままに、喜びをもって生きてゆくこと。そのために、私たちが互いを受け入れ、重んじ合って生きてゆくこと、それが神さまの願いであるのだと信じています。

 

最後に、イエスさまがあらゆる壁を打ち壊し、新しい神殿を築いてくださったことを力強く述べる聖書の箇所をご紹介して、メッセージを閉じたいと思います。

 

 

実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、/規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、/十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。/キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。/それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。/従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、/使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、/キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。/キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです(エフェソの信徒への手紙21422節)