2023年1月22日「福音を告げ知らせるために」

2023122日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:民数記91523節、コリントの信徒への手紙一119節、ルカによる福音書41630

福音を告げ知らせるために

 

 

 

故郷のナザレにて

 

 いまお読みしたルカによる福音書41630節は、イエス・キリストが故郷のナザレという村に立ち寄られたときの場面です。イエスさまははじめは村の人々から歓迎されていましたが、途中で怒りを買い、最後には村から追い出され、崖から突き落とされそうになる、というショッキングな、悲しい終わり方をする場面です。

 

 その日は土曜日、安息日でした。安息日はユダヤ教で大切にされている、一切の労働を中断し神に礼拝をささげる日のことを言います。イエスさまは安息日のその日、いつものように会堂にお入りになって、聖書を朗読しようとしてお立ちになりました。会堂はシナゴーグとも呼ばれ、地域の人々の集会所・礼拝所となっていた場所のことを指します。

 立ち上がったイエスさまは、礼拝係から、イザヤ書の巻物を渡されました。イザヤ書は旧約聖書(ヘブライ語聖書)の中に収められている代表的な預言書の一つです。

 

ちなみに、当時の文書はみな、巻物でした。いまみたいに冊子状の形をしておらず、巻物の形をしていたのですね。スクリーンに映しているのは、1947年に死海のほとりの洞窟で発見された死海文書の中に含まれていた、イザヤ書の巻物(の複製)です。巻物は文書を長く保存するには適していますが、読みたい箇所をすぐに開くには不便であるかもしれません。特に最後の方の文章を参照したい場合、長々と巻き開いてゆかねばなりません。それに比べて、冊子状の本は開きたいページをパッと開くことができるので確かに便利です。

巻物は英語で「スクロール」と言います。パソコンやスマホの表示を上下または左右に移動させることも「スクロール」と言いますね。このスクロールという言い方は、巻物を巻き開く動作から取られた言葉であるそうです。スマホの画面を指で上下左右に移動させる様子などは、まさに巻物を連想させるものですね。巻物はいまはもう見かけることはありませんが、現代に生きる私たちはある意味、スマホという巻物を日々読み続けているということもできるかもしれません。

 

 

 

イエスさまの決意表明と、人々の反応の変化

 

さて、その日、イエスさまは巻物を開いて、イザヤ書のある箇所をお読みになりました。もちろん、指でスイスイとスクロールさせた(!)わけではなく、巻物を少しずつ巻き開いて、その箇所をお開きになりました。イザヤ書の中でも最後の方に書かれている言葉(イザヤ書6112節)ですので、開くのにちょっと時間がかかった(?)かもしれません。それはこういう言葉でした。

 

主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、/主の恵みの年を告げるためである(ルカによる福音書41819節)

 

 ここでは、貧しい人、捕らわれている人、目の見えない人、圧迫されている人が出て来ます。困難の中にいる人々に福音を告げ知らせるため、私はこれから活動を始めてゆく。朗読したイザヤ書の言葉を通して、イエスさまがご自分のその決意表明をされているのだと受け止めることができます。

 

 イエスさまはこの言葉を朗読し終えると、また巻物をスルスルと巻いてゆき、係の人に返して席に座られました。この時点では、町の人々はイエスさまの言動に興味津々でした。熱いまなざしをジッとイエスさまに注いでいました。そこでイエスさまは《この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した》と話し始められました21節)。やはりこの時点では人々はイエスさまの力強い言葉に感動をすら覚えていましたが、その後、人々の反応が急変します。先ほど言いましたように、人々は激昂し、総立ちになってイエスさまを村の外へ追い出してしまいます。そしてイエスさまは一部の人々によって崖から突き落とされそうになってしまうのです。一体何が起こったのでしょうか……?

 

 

 

「神の復讐の日」の削除

 

 ある人が興味深い指摘をしています。この不可解な出来事に関して、イエス・キリストの朗読に一つの要因があるというのです。イエスさまが朗読した箇所には、実際はまだ続きがありました。《わたしたちの神が報復される日》という言葉です。《主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知して/嘆いている人々を慰め……(イザヤ書612節)。本来は「恵みの年」と対になっているはずの「報復(復讐)の日」についての言葉を読まずに、イエスさまは朗読を終えられました。イエスさまはうっかりその復讐に関する箇所を読まなかったのではなく、意図的に読まなかったのだ、と一部の人々は指摘しています(参照:デイヴィッド・ボッシュ『宣教のパラダイム転換(上) 聖書の時代から宗教改革まで』東京ミッション研究所訳、新教出版社、1999年、187194頁)。そのような、「神の復讐の日」を否定するイエスさまの言動を受けて、人々は激しく憤慨したのではないか、と。

 

当時、イスラエルはローマ帝国の支配下にありました。ローマ帝国のいわば属国的な位置づけにされており、国としての主体性が奪われてしまっていた状態にありました。何重もの税を強いられ、生活も困窮していました。そのような中、人々はイスラエルの独立を取り戻してくれる政治的な救世主の到来を待ち望んでいました。本日の場面において、人々は最初は、ナザレ出身のこのイエスこそ政治的なリーダーとなる存在なのではないか、と期待したのかもしれません。このナザレのイエスを通して、神はローマに報復し、自分たちに解放をもたらしてくれるかもしれない、と。困難な日々を送るナザレの人々にとって、その願いは切実なものであったでしょう。

 

 ですので、その日、会堂に集っていた人々にとって、先ほどのイザヤ書の箇所において「私たちの神が復讐をされる日」という言葉が重要なものであったのです。人々は、イエスさまがこの言葉を力強く読み上げ、憎きローマに対して復讐を宣言することを期待したのではないでしょうか。もしもイエスさまがこの箇所を力強く読み上げたなら、人々から喝さいを受けたことでしょう。人々の歓心を買うことに熱心な指導者であったら、ここぞとばかりこの箇所を高らかに読み上げたことでしょう。しかし、イエスさまはそうはなさいませんでした。復讐に関する部分を読まずに、巻物を巻いて座ってしまったのです。

 

福音書には記されていませんが、その後、町の一部の人々はイエスさまを囲み、問い詰めたかもしれません。「あなたはなぜ、『神の復讐の日』についての御言葉を読まなかったのか?」と。イエスさまが何とお答えになったかは私たちには分かりませんが、おそらく、ご自分のお考えを率直にお語りになったのではないでしょうか。ルカ福音書には、その問答の最後の言葉だけが記されています。《はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。……24節)。イエスさまの答弁を聞いた人々は深く失望し、そうして強い怒りにとらわれたのかもしれません。

 

 

 

イエス・キリストの決意 ~復讐の連鎖を終わらせる

 

 このイエスさまの姿勢から、本日は、二つのことを受け取ってみたいと思います。一つは、イエスさまの決意です。もう一つは、イエスさまの願いです。

 

イエスさまの決意、それは、「復讐の連鎖を終わらせる」決意です。イエスさまの《だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい(マタイによる福音書539節)という言葉はよく知られているものです。イエスさまのこれらの言葉は、ガンジーやキング牧師の非暴力による抵抗運動にも大きな影響を与えました。暴力に対して暴力を返さない。憎しみに対して憎しみを返さない。イエスさまはそのメッセージを、ご自身の生き方をもって私たちに示してくださいました。

イエスさまはそのご生涯の最期、十字架の道行きにおいて、人々から激しい暴力を受け、屈辱的な言葉を浴びせられました。しかしそれでも、怒りをもって神に復讐を願うことはなさいませんでした。福音書はそのイエスさまのお姿を証ししています。

 

「復讐したい」という衝動は私たちの誰もが感じるものです。旧約聖書の詩編を読みますと、復讐を神に願う祈りがたくさん出て来ます。旧約聖書においては、復讐を願うその想い自体は必ずしも否定されてはいません。生きてゆく中で、私たちの心の内には「仕返しをしたい」という思いは必ず生じるものです。私たちはそのことを率直に受け止めつつ、しかし私たちはその欲求が命じるままに行動するのか、それとも、その欲求に自らが支配されるのを拒むのか。自分自身が、「復讐の連鎖を終わらせる」道を選び取る決意をすることが私たちには求められています。そのとき、私たちは、平和を実現するための一歩を踏み出していることになります。

 

これは、自分たちへの不当な振る舞いを耐え忍べ、ということではありません。尊厳をないがしろにする現実に対して、私たちははっきりと「否」の声を上げることが大切です。ここで求められているのは、暴力的な言動に対し暴力的な言動をもって返さないという姿勢であり、その決意です。

 

 

 

イエス・キリストの願い ~神の目に尊い一人ひとりが、誰一人失われることがないように

 

 本日の聖書箇所から私たちが受け止めたいイエス・キリストの願い、それは、「神の目に尊い一人ひとりが、誰一人失われることがないように」との願いです。

 

先ほど、イスラエルの人々が政治的な救世主を待ち望んでいたことを述べました。当時、多くの人々が「イスラエルに栄光を取り戻す」こと求めていたのです。しかし、イエスさまが願っておられたのは、イスラエルに栄光を取り戻すことではなく、「一人ひとりに神さまの尊厳の光を取り戻す」ことであったと私は受け止めています。国家や民族という枠組みを超え、一人ひとりに神さまからの尊厳の光を取り戻してゆくこと。暴力に暴力は返さない仕方で、それを成し遂げることをイエスさまは願っておられたのだと受け止めています。

 

 イエスさまは、「神さまの目から見て、一人ひとりの存在が、かけがえなく貴い」という福音を私たちに伝えてくださっています。神さまの目から見て、いかに私たちの存在が大切なものであるか、かけがえのないものであるか。それをイエスさまは生涯をかけて伝えて下さいました。ご生涯の最後には、私たちの存在を極みまで重んじるゆえ、十字架の上でご自身の命をささげてくださいました。そして、十字架の死より3日目には、暗い墓の中から復活されました。神の目に尊い私たち一人ひとりが、決して失われることなく、神さまの永遠の命に結ばれるようになるためです。

 

 

 

イエスさまの決意と願いに立ち帰り

 

ウクライナ侵攻から、11カ月が経過しようとしています。戦争が停戦に至らず長期化する状況を見ていますと、政治的な指導者たちは、そもそも「復讐の連鎖を終わらせる」意思がないのだと思えてきます。また、プーチン大統領もゼレンスキー大統領も、国民一人ひとりの生命と尊厳ではなく、自国の存立と栄光を守ることを最優先していることが伺われます。どちらも、守るべきものを、根本から見誤っていると言わざるを得ません。国民の生命と尊厳を守ることこそが、指導者に課せられた第一の責務なのではなかったのでしょうか。

 

 

 イエスさまは、復讐の連鎖を終わらし、憎しみの連鎖を断ち切ることを宣言されました。神の目に尊い一人ひとりが、誰一人失われることがないようにと願われました。いま共に、このイエスさまの決意と願いに立ち帰りたいと思います。