2023年1月1日「幼子の名はイエス」

202311日 花巻教会 クリスマス礼拝説教

聖書箇所:サムエル記上12028節、ローマの信徒への手紙1218節、ルカによる福音書22140

幼子の名はイエス

 

 

 

新しい年のはじめに

 

新しい年のはじめ、ご一緒に神さまに礼拝をささげることができますことを感謝いたします。今年一年、皆さんの上に神さまの祝福とお支えがありますようにお祈りいたします。

 

 先週の24日、私たちはクリスマス・イブ燭火礼拝をおささげし、25日にクリスマス礼拝をおささげしました。教会の暦では、16日の公現日(エピファニー)までがクリスマスとなります。ですので、リースやクリスマスツリーもまだそのままにしています。

 

 今年2023年の干支は十二支ではウサギです。皆さんの中にウサギ年の方はいらっしゃるでしょうか。聖書の中にウサギが出てくるか調べてみると、ほんの少しだけ、登場していました。旧約聖書(ヘブライ語聖書)の律法の食物規定の箇所――食べてよい生き物とそうではない生き物の決まりのところです(レビ記116節、申命記147節)。旧約聖書の中では、ウサギは食べてはならない動物の中に入れられています。

 聖書の中にはウサギはほとんど出てきませんが、キリスト教ではウサギと言えば、イースターですね。ウサギはタマゴと共に、イースターのシンボルとして登場します。ウサギは春先になるとたくさん子どもを産みます。ヨーロッパでは新しい命をイメージさせる動物であるそうで、タマゴと共にイースターのシンボルとして用いられるようになったという説があります。

 

 

 

幼子の名はイエス

 

 さて、本日11日は、イエス・キリストに「イエス」という名がつけられた日に当たります。ユダヤ教では、生後8日目の男の子に割礼を授けることが定められていました(創世記171013節)。その割礼の日に名前も与えられました。先ほどお読みしましたルカによる福音書221節にも、《八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である》と書かれていましたね。クリスマスから8日目に、かねて天使を通して神さまから示されていた「イエス」という名が幼子に与えられたことをルカ福音書は記します。

 

「イエス」には、「主は救い」という意味があります。「主は救い」――神の子・救い主である方にふさわしい名前です。

 

 

 

神殿での奉献

 

 日本では伝統行事として、生後1ヶ月頃の赤ちゃんを神社に連れてゆくお宮参りがありますね。ユダヤ教でも同じように、生後31日目になると、親が幼子を神殿の祭司のところに連れてゆき、犠牲のささげものをささげる慣習がありました。ユダヤ教ではその慣習は律法によって定められているものでした。イエス・キリストが生きておられた時代は、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げていたようです。

 本日の聖書箇所の22節以下で語られるのは、そのいわゆる「神殿での奉献」での出来事です。改めて22節以下をお読みします。2224節《さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。/それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。/また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった》。

 

 この神殿の境内で、マリアとヨセフと幼子は、シメオンという人と出会います。シメオンは、救い主の到来をずっと待ち望んできた人でした。《…この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。/そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた2526節)。神さまが遣わす救い主に会うまで、決して死なないとのお告げをシメオンは聖霊から受けていました。

 その彼が、神殿の境内にて遂に、救い主と出会うことになりました。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言いました。よく知られた、シメオンの賛歌です。

 

主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。/わたしはこの目であなたの救いを見たからです。/これは万民のために整えてくださった救いで、/異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです2932節)

 

 先ほど「イエス」という名には、「主は救い」との意味があることを述べました。この時シメオンは、まさに目の前に神さまの「救い」を見て、その腕に救い主を抱いたのです。シメオンは幼子を抱きながら、大いなる喜びと、そして平安の中で神さまをたたえます。《主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。/わたしはこの目であなたの救いを見たからです》――。

 

 またその時、もう一人、アンナという女性の預言者が近づいてきて、神さまをほめたたえました。《そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した38節)。アンナはそのとき84歳、当時としてはかなりの高齢であったでしょう。夫に先立たれた彼女は神殿を離れず、昼も夜も神に仕えていたと福音書は記します。そのアンナも、遂に救いを目前に見ることができたのです。

 

 幼子イエスさまは、その外見は、他の赤ちゃんとほとんど変わることはなかったことでしょう。けれどもシメオンとアンナは、心の目――すなわち信仰を通して、その赤ん坊が救い主であり、内に神さまの愛と命の光が満ち溢れていることを確信したのだと本日はご一緒に受け止めたいと思います。

 

 

 

昨年一年を振り返って

 

 昨日は大みそかでした。皆さんも改めて昨年一年を振り返っていらっしゃったことと思います。2022年は私たちの社会を揺るがす、大きな出来事や事件が相次いだ年でもありました。

 224日にロシアがウクライナに侵攻、ウクライナでの戦争が始まりました。ロシアとウクライナの戦争は停戦に至ることなく、現在も続いています。2022年を表す漢字として選ばれたのは、「戦」でした。

 78日には安倍晋三元首相が選挙演説中に銃撃を受けて亡くなる事件が起こりました。また、この事件を契機として、旧統一協会(現・世界平和統一家庭連合)の問題、カルト宗教の問題が改めて社会問題として注目をされることとなりました。

 ウクライナ侵攻や円安・ドル高の影響などによる物価の高騰も、私たちの日々の暮らしを圧迫し続けています。新型コロナウイルスの感染拡大もいまだ続いています。現在も多くの方がコロナウイルス後遺症、また、コロナワクチン後遺症によって不調を覚え、生活に困難を覚えています。とりわけワクチン接種による健康への影響が懸念されます。どうぞ一人ひとりの命と生活が守られますよう、助けを必要としている方々に必要な支援が行き渡りますようにと切に祈ります。

12月はサッカー・ワールドカップなどの明るい話題もありましたが、昨年2022年は、痛みに満ちた1年であったと言えるのではないでしょうか。私たちの目の前には様々な痛みがあり、悲しみがあり、困難があります。皆さんもそれぞれ、悲しい出来事、辛いことが様々にあったことと思います。

 

このような困難の中にあって、しかし、神さまは私たちにいつも愛を語り続けてくださっていることをご一緒に思い起こしたいと思います。御子イエス・キリストを通して、救いの言葉を語り続けて下さっていることを思い起こしたいと思います。

 

 

 

心の目を通して

 

 長い間、救い主の到来を待ち続けてきたシメオンとアンナ。シメオンとアンナは信仰をもって、神殿で出会った幼子イエスの内に、神さまの救いの光を見出しました。いまを生きる私たちはもはや人として生きておられたイエスさまのお姿を見ることはできなくても、心の目を通して、よみがえられたイエスさまのお姿を、その愛と命の光を見ることができます。十字架の死よりよみがえられたイエスさまはいまも私たちと共にいてくださいます。

聖書の中には、《信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです》(ヘブライ人への手紙111節)との言葉があります。

私たちが心の目でこの世界を見つめるとき、廃墟の中にエデンの園を、砂漠の中に命の泉を見出すことができます。そこには喜びがあり、楽しみがあり、感謝の歌声が響いています(イザヤ書513節)。目の前に困難な現実があってもなお、神さまからいづる愛は失われることはないのだとご一緒に信じたいと思います。

 

 

 

十字架と復活のキリストと結ばれて

 

 シメオンは救い主を腕に抱き、神をほめたたえた後、ふと母マリアに気がかりな言葉を告げます。《この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。/――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです3435節)

 

 シメオンは聖霊に満たされ、将来この子と母が経験する受難について預言したのです。この言葉の通り、ご生涯の最後にイエスさまは十字架の上で息を引き取られます。我が子の苦しむ姿を見て、母マリアの心も剣で刺し貫かれました。その未来が、ここで先どって告げられているのです。

 

 マリアはこの時はシメオンの言葉が意味するところをはっきりと理解することはできなかったでしょう。けれども、何か非常な苦しみ、悲しみが、自分たちを待っているであろうことを予感したかもしれません。

 

イエスさまの救いは、この苦しみを通して成し遂げられたものでした。そして十字架の死より三日目に、イエスさまは復活されました。神の目に価高い私たち一人ひとりが、決して失われることなく、神さまの愛と命に結ばれるためです。

 私たちはいま、十字架のキリストと結ばれ、そして復活のキリストと結ばれています。どんなものも、このつながりから私たちを引き離すことはできません(ローマの信徒への手紙839節)

 

 新しい年のはじめ、十字架と復活の光がいつも私たちを照らしてくださっていることを心に留め、共に歩んでゆきたいと願います。