2023年2月12日「キリストによる癒し」

2023212日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:ヨブ記2110節、使徒言行録3110節、ルカによる福音書51226

キリストによる癒し

 

 

トルコ南部大地震

 

 先週の6日にトルコ南部ガジアンテップ付近で発生した大地震によって、甚大なる被害が生じています。12日未明の時点で、トルコと隣国シリアであわせて2万8千人以上もの方が亡くなったと報道されています。皆さんもこの数日、ニュースを見て大変心を痛めていらっしゃることと思います。まだ行方不明の方も数多くおられ、いまも懸命な捜索が続けられています。真冬の極寒の中で、あらゆる物資が足りない状況が続いているとのこと、どうぞ困難の中にある方々に必要な支援が行き渡りますように、捜索活動の上に神さまのお守りがありますように、いま深い悲しみの中にある方々の上に主の慰めがありますようにと祈ります。また、トルコとシリアの方々を覚え、私たちも自分にできることを祈り求めてゆきたいと思います。

 

 

 

「レプラ/ツァラアト」の訳語について

 

 本日の聖書箇所ルカによる福音書51226節では、イエス・キリストが人々の病いを癒す場面が描かれています。生前、イエスさまがなさった大切な活動の一つが、「病いの癒し」でした。前半の1216節ではイエスさまが《重い皮膚病》を患う人を癒す場面が、後半の1726節では中風の人を癒す場面が記されていました。

 

改めて、1213節をお読みしたいと思います。《イエスがある町におられたとき、そこに、全身重い皮膚病にかかった人がいた。この人はイエスを見てひれ伏し、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願った。/イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去った》。

 

 ここで、《重い皮膚病》という言葉について、説明をしておきたいと思います。《重い皮膚病》と訳されているのは、原語のギリシャ語では「レプラ」という語です。このレプラは、ヘブライ語の「ツァラアト」の訳語です。キリスト教はこれまでの歴史においてこの「レプラ/ツァラアト」を、ハンセン病を指すものと見なしてきました。私たちが現在礼拝で用いている新共同訳聖書も当初は《重い皮膚病》ではなく《らい病》と訳していたのをご記憶の方もいらっしゃることと思います。

 

現在は、「レプラ/ツァラアト」をハンセン病に限定して解釈するのは誤りであったことが分かっています。旧約聖書の時代にハンセン病が存在したかどうかは歴史的に不確かであること、旧約聖書(ヘブライ語聖書)のツァラアトの症状の描写は必ずしもハンセン病と一致しないこと(レビ記13144節。様々な皮膚の疾患を表す語として)、また、この語が衣服や壁に生じた「かび」のようなものに対しても使われていること(同134759節、143353節)などがその理由です。

 

《レプラは「らい病」=ハンセン病を指すレプロシーの語源となりましたが、実は聖書のツァラアト/レプラが医学的にどのような疾患であったのかは不明です。レビ記1314章の規定を見ると、これは明らかにハンセン病ではなく、様々な皮膚の疾患、衣類や家屋の状態を「汚れ」という祭儀的・宗教的な意味づけで包括する概念です》(『ここが変わった! 「聖書協会共同訳」新約編』、日本キリスト教団出版局、2021年、24頁)

 

そのように、「レプラ/ツァラアト」は必ずしもハンセン病を指しているとは限らないこと、また、《らい病》という表現が現在では差別的な表記であることを踏まえ、新共同訳聖書は19974月から表記を《らい病》から《重い皮膚病》へ変更し、現在に至っています。

ただし、この表記に対してもこれまで、賛成と反対の両方の意見がありました。《重い皮膚病》という訳語に変えたことで、ハンセン病に限定して理解されることはなくなった一方で、《重い皮膚病》という訳語はやはりハンセン病を連想させるという意見、また、《重い皮膚病》というより広がりのある訳語によって、様々な皮膚の病気を抱える人を新たに傷つけてしまう可能性を危惧する声もありました。

 

これらのことを踏まえ、2018年に発行された聖書協会共同訳聖書では、この語を《規定の病》と訳出しています。《今回の聖書協会共同訳の「規定の病」は、「ヘブライ語聖書に規定されている病」という意味です》(同書、25頁)。新しい翻訳に携わられた須藤伊知郎先生は《この訳は特定の疾患との同定を避け、誰も傷ついたり不快に感じたりすることがない「政治的な正しさ」を実現していることは確か》であるとしながら、《しかし、聖書に規定のある病は他にも様々なものがあり、「規定の病」というだけでは最初に読んだ読者はどの病のことか分からず当惑させられてしまいますし、これは翻訳というより既に注釈になってしまっています》と付言しておられます(同書、25頁)。翻訳に携わられた先生方も苦心をして、訳語を考えて下さったことが伝わってきます。皆さんは、この訳語についてどのようにお感じになるでしょうか。私としてはこの《規定の病》は、様々な方々の意見に耳を傾け熟考した上で考え出されたであろう、良い訳語であると受け止めています。本日の説教では以後、この新しい訳にならって、《規定の病》の訳語を用いてゆきたいと思います。

 

 

 

《規定の病》を発症した人の苦しみ

 

旧約聖書のレビ記を見ますと、「《規定の病》に冒された者である」と宣言された人は、祭儀的に「汚(けが)れた」者として、共同体から隔離されねばならないことが記されています。規定の病を発症した人は衣服を切り裂き、髪を垂らさなければならない。また口ひげを覆って、『汚れている、汚れている』と叫ばなければならない。/その患部があるかぎり、その人は汚れている。宿営の外で、独り離れて住まなければならない(レビ記134546節、聖書協会共同訳)。《規定の病》を発症した人は、「汚れた者」とみなされ、共同体から隔離されました。他の共同体のメンバーに「汚(けが)れ」をうつすことがないように、です。当時のイスラエルの社会では、《規定の病》による「汚れ」が接触によって感染すると考えられていたことが分かります。《ツァラアト/レプラの患者は「汚れた者」と見なされ、接触によって「汚れ」が感染するとされたため、社会との交わりを絶たれ、隔離された生活を強いられました。その過酷で不条理な差別のあり方は、日本のハンセン病差別のあり方と酷似しています》(同書、24頁)

 

《規定の病》を発症したゆえに「汚れた」存在として共同体の外に隔離され、社会とのつながりが断ち切られた苦しみは、いかばかりのものであったでしょうか。身体的な辛さだけではなく、社会的なつながりが絶たれ、差別を受け得る対象となることが、当事者の人々にとって大きな苦しみになっていたのではないかと思います。それは、人間としての尊厳が損なわれることの苦しみです。

先ほど、キリスト教では伝統的に《規定の病》はハンセン病であるとみなされてきたことを述べました。このような聖書の記述がハンセン病と結び付けられることによって、ハンセン病患者を共同体の外へと排除する構造が補強されていった歴史があります。キリスト教にはハンセン病の隔離政策に加担した罪責があることを、私たちは受け止めなければならないでしょう。

 

 

 

このコロナ下での生活を振り返って

 

また、このレビ記の記述を読んで私たちが思い起こさざるを得ないのは、3年におよぶ、このコロナ下での生活です。特に新型コロナウイルスによるパンデミックが起こった当初の2020年から2021年にかけて、ウイルスに対する感覚は、いま参照した旧約聖書の「汚(けが)れ」の感覚と非常に近いものがあったのではないでしょうか。互いに「汚れ=ウイルス」が感染し合わないように、極力接触を避ける生活スタイル、また、実際に感染した人々に対して隔離生活を強いるあり方も、レビ記の記述と共通するものがありました。

また2020年当初の、感染した方々に対する周囲の差別的言動や攻撃には、大変激しいものがありました。このようにして社会に差別が生じるということを、私たちはまざまざと経験したのではないでしょうか。

 

この「汚れ」意識の背後にあるのは、感染を「罪(悪)」とみなす考え方です。私たちはこの3年間、「感染してはいけない」「感染させてはいけない」とのある種の罪意識に苦しめられ続けてきました。私を含め、いまは多くの方がすでに感染をしているので、「感染してはいけない」という意識からは解放されている部分はあるかもしれません。けれども依然として、人に「感染させてはいけない」という意識は強いものがあります。

 

来月の313日から、屋内外を問わずマスクの着用を個人の判断に委ねることを政府が発表しました。日常的なマスクの着用を求める感染対策がようやく終わろうとしています。皆さんの中でも、受け止め方や考え方は様々であるかと思います。マスク着用が緩和されることにホッとしている方もいらっしゃれば、まだ不安を感じている方、抵抗を感じる方もいらっしゃることでしょう。礼拝におけるマスク着用については役員の皆さんとも相談しつつ考えてゆきたいと思いますが、私としては、マスク着用が緩和されることは良い変化であると受け止めています。特に、学校などの教育現場でのマスク着用の緩和には、本当に安堵の気持ちでいます。この3年間、日常的なマスクの着用による子どもたちへの身体的・精神的な影響について懸念を抱き続けてきたからです。

 

そのように、感染対策に変化が生じても、この度の長いコロナ下の生活の中で私たちの内に植え付けられた「汚(けが)れ」の感覚や、ある種の「罪」意識はしばらく残り続けてゆくかもしれません。特に、人に「感染させてはいけない」という意識は、これからもしばらく、私たちの内に強く残り続けるのではないかとも感じます。「人さまに迷惑をかけてはいけない」が最も重要な掟(?)となってしまっているのが私たちの日本の社会です。マスクを外すことに抵抗を覚える要因の一つとして、他者に「感染させてはいけない」意識が強く保たれていることがあるでしょう。

 

 2020年当時からご一緒に確認してきましたが、「感染したこと」「感染させてしまったかもしれないこと」は、決して「罪」ではありません。ウイルスの感染は「罪」ではなく、自然現象です。私たちはこれからも、互いに「あなたは悪くないよ」と声を掛けあい、労わり合い、支え合ってゆくことが求められています。

 

 

 

キリストによる癒し ~私たちに触れ、私たちの存在を抱きしめながら

 

 改めて、本日の聖書箇所のイエスさまのお姿に私たちの心を向けたいと思います。イエスさまはご自分の前にやってきた《規定の病》を患う人に対して、距離を取ることをなさいませんでした。逆に、その人に手を差し伸べ、その体に触れて下さいました。13節《イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「私は望む。清くなれ」と言われると、たちまち規定の病は去った(聖書協会共同訳)。イエスさまが《清くなれ》とおっしゃると、その言葉のとおり、《規定の病》は消え去りました。

 

 心打たれるのは、癒しを行われる際、その体に触れてくださったイエスさまのお姿です。当時、《規定の病》を発症している人の体に触れることは考えられないことでした。「汚れ」が感染するとされていたからです。しかし、イエスさまはその人に手を差し伸べ、その体に触れてくださいました。別の翻訳は、《イエスは手をのばしてその男を抱きしめ》と訳しています(本田哲郎氏訳)。須藤伊知郎先生は、イエスさまは「汚れ」をまったく恐れてはおらず、《接触するとケガレが感染(うつ)るのではなく、逆に彼を通して聖なる力が広がっていくと考えていたふしがあります》と述べています(同書、26頁)

イエスさまは男性の体を抱きしめ、彼が神の目に尊厳ある存在であることを伝えてくださいました。神さまの聖なる力で包み込んでくださいました。そして今も、私たち一人ひとりの存在に触れてくださっているのだとご一緒に受け止めたいと思います。

 

 

あなたは悪くない。あなたは、「汚れた」罪人ではない。あなたは、神さまの目に尊厳ある存在。神の目に価高く、貴い存在――。私たちに触れながら、私たちの存在を抱きしめながら、神さまの愛の光の中、イエスさまはそう語りかけてくださっています。