2023年2月19日「五つのパンと二匹の魚」

2023219日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:イザヤ書41816節、使徒言行録2816節、ルカによる福音書91017

五つのパンと二匹の魚

 

 

S・Mさん召天

216日(木)、教会員のS・Tさんのお連れ合いのS・Mさんが天に召されました。

75歳でした。

Mさんは2020年に癌が見つかり、この3年間、闘病を続けてこられました。211日(土)には、病床にて洗礼を受けられました。Mさんは入院中、洗礼を受けたいとの思いを手帳に書き記しておられました。Mさんの願っていらっしゃった通り、洗礼式を行うことができ、心より感謝でした。

昨日の17時より前夜式を行い、本日の13時より、花巻の葬祭センター大ホールでご葬儀を行う予定です。

2020年に癌が見つかってから3年間、懸命に治療を続けられる中で、身体的に、また精神的に大変辛い思いをされたことと思います。その3年間はちょうどコロナ下とも重なり、親しい方々ともなかなか会うことも叶わず、辛い思いをされたことと思います。いまは、Mさんは神さまのもとで、平安を与えられていることを信じております。また、神さまの愛と復活の命の中で、私たちと固く一つに結ばれていることを信じています。

Tさんとご家族の皆様の上に、Mさんのつながるお一人おひとりの上に、神さまの慰めとお支えをお祈りいたします。

 

 

 

五つのパンと二匹の魚

 

冒頭でお読みしたルカによる福音書91017節は、よく知られた「五千人に食べ物を与える」場面です。イエス・キリストが五つのパンと二匹の魚を分けて弟子たちに配らせると、その場にいた大勢の人がみな満腹になったという、いわゆる「奇跡物語」を記したものです。

 

その日、イエスさまのもとに、たくさんの人々が集っていました。イエスさまはこの人々を迎え入れ、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられました。

日が傾きかけたころ、弟子たちがイエスさまのところに来て言いました。《群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです12節)

 

イエスさまは長時間にわたって、人々に話をされ、治療を続けておられたのでしょう。いつしか日も暮れ、食事をする時間となりました。弟子たちはその場にいる大勢の人々を解散させるように要望します。そうすれば、人々は自分で周りの村や里へ行って宿を取り、食べる物を見つけるだろうと考えたのです。しかし、これに対するイエスさまの言葉は意外なものでした。《あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい13節)

 

弟子たちは驚いたことでしょう。というのも、その場には、男性だけでも5千人ほどの人がいたからです。しかも自分たちの手元には、パン五つと魚二匹という、わずかな食糧しかありませんでした。弟子たちは、《わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり》と答えました。

 

 イエスさまは弟子たちに、《人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい14節)とおっしゃいました。弟子たちは、その言葉の通り、人々を五十人くらいのグループに分けて座らせました。すると、イエスさまは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせました。結果、《すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった17節)と福音書は記します。

 

 

 

限りのあるものを分かち合おうとすること

 

 わずか五つのパンと二匹の魚が、五千人以上の人々の空腹を満たすものとなった――現代を生きる私たちからすると、なかなか理解するのが困難な場面です。ある種のファンタ―、奇跡物語としてそのまま読み過してしまいそうになりますが、いまを生きる私たちに大切なメッセージを語っている場面として、この五千人の供食をご一緒に受け止めてみたいと思います。

 

 本日注目してみたいのは、イエスさまが、限りのあるものを人々と分かち合おうとされたところです。イエスさまと弟子たちの手元にあったのが、わずか五つのパンと二匹の魚でした。無限にあるものではなく、限りのある、手元のわずかな食料を、イエスさまは人々に与えようとなさいました。そのことを通して、神さまの大いなる恵みが人々の間にあらわされました。

 

 与えることには、失うことを伴うものです。与えることと、無くなることとは切り離すことはできません。私たちが自分の手元にあるものを誰かに与えるとき、私たち自身はそれを失うことになります。そして私たちが持っているものには、限りがあります。財産、賜物、時間……これらはすべて限りがあるものです。

 もし魔法のように財産や賜物や時間が無尽蔵に湧き出て来るのであれば、私たちはいくらでも惜しまずに与えることができるでしょう。けれども、現実はそうではありません。私たちの手元にあるものには限りがあります。ですので、私たちの内にはそれらを惜しむ気持ちも出てきます。と同時に、だからこそ、他者のために自らのものを与える姿は尊いのだということができます。

 

 

 

絵本第一作『あんぱんまん』

 

このこととの関連で私が頭に思い起こすのは、アンパンマンです。皆さんもよくご存じの通り、アンパンマンは自分の顔を差し出して、お腹が空いている人に与えます。その分、アンパンマンの顔は無くなってゆき、元気は失われてゆきます。それでも困っている人を目の前にすると、アンパンマンは自分の顔を与えずにはおられない。それが、アンパンマンというキャラクターです。

 

スクリーンに映しているのは絵本の『あんぱんまん』第一作の表紙です。現在のアニメーションのアンパンマンとちょっと印象が違いますね。瘦せ型で、手はグーではなく指があり、現在のアニメのアンパンマンより人間に近い姿かたちをしています(中の絵では、よりひょろ長い体型で描かれています)。また、本文中の絵を見れば分かりますが、アンパンマンが身に着けているこげ茶色のマントは、あちこちに継ぎはぎがある、ボロボロのものとして描かれています。

 

この第一作『あんぱんまん』のあとがきで、著者のやなせ・たかしさんがこのように述べておられます。《子どもたちとおんなじに、ぼくもスーパーマンや仮面ものが大好きなのですが、いつもふしぎにおもうのは、大格闘しても着ているものが破れないし汚れない、だれのためにたたかっているのか、よくわからないということです。

ほんとうの正義というものは、けっしてかっこうのいいものではないし、そしてそのためにかならず自分も深く傷つくものです。そしてそういう捨身、献身の心なくして正義は行えませんし、また、私たちが現在、ほんとうに困っていることといえば物価高や、公害、飢えということで、正義の超人はそのためにこそ、たたかわねばならないのです》(フレーベル館、1976年)

 

 ボロボロのマントを羽織り、だんだん顔が無くなってゆくアンパンマンは、確かにかっこよくはないですよね。見方によっては、何とも気の毒で、情けない姿にも見えます。でもそれはアンパンマンが《献身の心》をもって正義を行っているからでありましょう。

 

 このアンパンマンの姿からも感じられることは、「与える」という行為は、「無くなる」ことを伴うということです。アンパンマンはまた工場でジャムおじさんに新しい顔を補充してもらえるのだとしても、今日という日に限って言えば、顔はどんどん減り続けています。そうして遂には、すっかり無くなってしまうこともあります。アンパンマンの顔は本来、無尽蔵に湧いて出てくるものではなく、限りあるものなので読者の胸を打つのでしょう。

 

 

 

限りあるものを分け合うことによって、限りのない神の愛があらわれる

 

 五千人の供食の物語に戻りますと、弟子たちの手元にあったのが、限りある、わずか五つのパンと二匹の魚であったところに、大切な意味があったのではないでしょうか。その限りある食料を人々に与えるように、とイエスさまはおっしゃいました。そして、その限りあるものを、イエスさまが裂いて弟子たちに分け与えたとき、奇跡は起こりました。

 

イエスさまが本日の物語を通して伝えて下さっている姿勢、それは、限りあるものを、互いに分けあう姿勢です。限りあるものであるからこそ、私たちはそれを互いに分かち合ってゆくことができます。

 

パンを裂いて分け合うと、確かに自分の取り分は少なくなってゆきます。けれどもその分、目には見えない恵みが豊かに増し加えられてゆきます。それは、神さまの愛です。

この神さまの愛は、限りのあるものではありません。神さまの愛は私たちの目には見えませんが、いつまでも永続するものです。私たちが限りあるものを分け合うことによって、限りのない神さまの愛があらわれる――本日はご一緒にそう受け止めたいと思います。本日の聖書箇所はそのことを私たちに伝えています。

共に分かち合うことによって、私たちの間を神さまの愛と恵みで満たしてゆくようにと私たちはイエスさまから招かれています。その意味で、与えることは失うことであると同時に、神さまからまことの恵みが与えられることだと言えるでしょう。

 

 

 

イエスさまはご自身を一つのパンとして

 

 限りあうものを分かち合う――それは、イエスさまがそのご生涯を通して、私たちに伝えて下さっていることでもあります。イエスさまは生前、ご自分の内にあるものを、人々に与え尽くしてくださいました。見返りを一切求めることなく、隣人のために生きられました。そうしてご生涯の最期には、ご自身の体そのものを一つのパンとして、私たちに分け与えて下さいました。それが、十字架の出来事です。

 

イエスさまは私たち一人ひとりをかけがえのない存在として愛し、私たちのために御自身の命を分け与えて下さいました。大切な、ただ一つの限りのある命を、私たちのために与えて下さいました。そのことを通して、限りのない神さまの愛が私たちに示されました。私たちのために裂かれたこの一つのパンから、神さまの大いなる愛と恵みは溢れ出ました。いまも、私たちはこの愛と恵みに生かされ、育まれ続けています。

 

 

 

イエスさまの招き

 

私たちの手元にあるものには、限りがあります。また自分の手にあるものは、私たちの目からすると、小さなものでしかないように見えるかもしれません。しかしこの小さなものをこそ、互いに分かち合うようにとイエスさまは私たちを招いておられます。

 

トルコ・シリア大地震から2週間が経とうとしています。これまでに43000人以上の方々の死亡が確認され、多くの方々がいまも非常に困難な状況の中にいます。トルコとシリアをあわせ、避難者の数は数百万人にのぼる可能性があるとの報道もあります。皆さんも連日の報道に触れ、心を痛めていらっしゃることと思います。被災された方々に必要な支援が行き渡りますように、神さまの支えがありますよう祈ります。

 

この度の甚大なる災害を前に、また、日々報道される様々な悲惨なニュースを前に、時に無力感を覚えてしまう私たちです。私たちにできることはわずかなことですが、私たちの手にあるこの小さなものを、人々と共に分かち合ってゆけますことを願います。そしてそのことを通して、私たちの間に、いま困難と悲しみの中にある人々との間に、神さまの愛と恵みがあらわされてゆきますようにと願います。